烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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新渡戸稲造夫妻の墓

 多磨霊園の一画に昭和59年(1984)から平成19年( 2007)まで使われていた五千円札の肖像画で知られる新渡戸稲造の銅像があり、その近くには墓もありました。
 新渡戸稲造は、国際連盟事務次長、東京・京都帝大教授、旧制第一高等学校校長などを歴任、日本初の農学博士でもあります。
 文久2年(1862)盛岡藩の藩主用人を務めた新渡戸十次郎の三男として生まれた稲造は、伯父太田時敏の養子となり、東京英語学校(現在の東京大学)に入学し学びます。その後、農学を志すようになり札幌農学校(現在の北海道大学)へ入学、卒業後、アメリカののジョンズ・ホプキンス大学、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学に留学、農業経済学の博士号を得ています。
 なお、留学中には兄の死亡により新渡戸姓に戻る一方、アメリカ人女性メアリー・エルキントン(日本名:万里子)と結婚しています。
 帰国後、札幌農学校の教授を務めていた新渡戸でしたが、長男・遠益(トーマス)を生後8日で亡くしたショックからか体調を崩し、静養のためにカリフォルニアに移住します。この間に著された「武士道」は、日清戦争の勝利により日本への関心が高まる中、日本の道徳観念を海外に紹介しベストセラーとなります。アメリカのルーズベルト大統領も大変感銘を受け知人に配りまくっていたそうです。
 同郷の後藤新平の誘いにより台湾総督府へ務め、殖産課長・製糖局長として、製糖の発展に尽力した新渡戸は、その後、京都帝大に植民地政策学の教授として赴任、さらに、第一高等学校、東京帝大農学部教授を兼任しています。
 第一次世界大戦後、大学の同窓生であったウィルソンの提唱で国際連盟が設立されますが、新渡戸は、その事務次長に就任。ユネスコの前身である「国際知的協力委員会」設立にも尽力します。
 若い頃から「太平洋の橋となる」という志を持っていた新渡戸は、日米関係が緊張する中、平和を説いて各地を廻りますが、国際的に理解を得られないだけでなく、日本人からも非難を受け孤立していきます。それでも理解を得るよう努力を続けていた新渡戸ですが、昭和8年(1933年)カナダのビクトリアで71歳の生涯を閉じます。新渡戸の願いも空しく、その後、両国は泥沼の戦争へと突入していくこととなります。
 なお、稲造と同じ墓に眠る妻の万里子は、夫の教育活動を助け、私財を投じて貧しい少年のために遠友夜学校を設立、その2代目校長に就任しています。また、「日本人道会」を結成し、会長として動物愛護運動の先駆的な役割を果たしています。

新渡戸稲造像
新渡戸稲造像

新渡戸稲造の墓
新渡戸稲造の墓

多磨霊園 7-1-5-11

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