烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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マレーの虎 山下泰文

 第二次世界大戦当時の日本陸軍大将で「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文の墓が多磨霊園にあります。
 山下奉文は高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身で、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業後、スイス、ドイツに留学し、帰国後に陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任します。
 「二・二六事件」では、決起部隊の一部と面識があり、その行動に理解を示したため事件への関与を疑われています。また、山下の説得により自決を覚悟した彼らの立合いを派遣するよう、大臣などを通じて昭和天皇へ上奏した事から天皇の不興を買うこととなります。
 事件後、周囲の説得で退役は思いとどまったものの、陸軍の主流派からはずれ、エリートコースへ戻ることは二度となかったそうです。
 太平洋戦争が開戦すると山下は第25軍司令官としてマレー作戦を指揮します。新聞各社は山下を「マレーの虎」と評し英雄視、特に、シンガポール戦終結時に敵将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が有名です。しかし、実際は紳士的な対応で降伏の意思を確認しただけだったと言われています。
 山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげますが、東條英機から疎まれ、満州に赴任し大きな作戦を任されることはなかったそうです。敗色が濃厚となった昭和19年(1944)になり、ようやくフィリピンの防衛戦を指揮することとなり、マッカーサーが指揮する連合軍と激戦を繰り広げます。
 ところが、台湾沖航空戦で敵の空軍に大損害を与えたと思いこんだ大本営は、それを誤報だと考え反対する山下を押し切りレイテ決戦を指示。投入された陸軍部隊が輸送途中で攻撃を浴び、日本は大損害を被ります。
 つづくルソン島の戦いでも善戦する山下ですが兵力差で圧倒され、昭和20年(1945)に降伏。終戦後、フィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられています。

山下泰文の墓

多磨霊園 16-1-8-6
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