烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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第68・69代内閣総理大臣 大平正房

 多磨霊園に第68・69代内閣総理大臣、大平正芳の墓があります。
 大平正芳は香川県出身で、経済的理由で大学進学を諦めて会社勤務となりますが、再び大学進学を決意し奨学金で東京商科大学(現一橋大学)へ入学します。大学卒業後、昭和11年(1936)に大蔵省へ入省しますが、これは、本人は特に官僚になるつもりはなかったものの、同郷の大蔵次官・津島壽一に挨拶に行った際に「ここで採用してやる」と言われた異例の採用だったそうです。
 大蔵省では税務畑を中心に活躍し、上司には後に首相となる池田勇人がいました。昭和20年(1945)に津島が大蔵大臣となると秘書官を務め、昭和24年(1949)に池田勇人が大蔵大臣に就任した際も秘書官を務めた大平は、池田勇人の誘いで昭和27年(1952)に大蔵省を退官、自由党公認で衆議院議員に立候補し当選します。
 池田勇人の側近として活躍した大平は、池田内閣が発足すると内閣官房長官、外務大臣を歴任します。また、池田内閣の後も、通商産業大臣、外務大臣、大蔵大臣など主要ポストを歴任し、特に田中内閣では、外務大臣として、日中国交正常化へ尽力しました。
 昭和46年(1971)に宏池会(旧池田派)会長に就任した大平は、首相候補の一人と目され、以降、日本の政治は自民党の各派閥の領袖「三角大福中」(三木、田中角栄、大平、福田、中曽根)を中心に動いていくことになります。
 昭和49年(1974)に金脈問題で田中首相が辞任すると、田中角栄と盟友関係であった大平は田中派の支援をとりつけ次期首相の最有力候補となりますが、副総裁の椎名は公選を行うことなく総理総裁に三木武夫を指名(椎名裁定)、大平は総理総裁の座を逃します。
 昭和51年(1976)に三木首相の「ロッキード事件」徹底追及に反発し党内で「三木おろし」が起きます。総選挙を自民党は分裂状態で戦い大敗、三木首相は責任をとり退陣します。この時、大平は福田赳夫が2年後に政権を禅譲する事を条件に協力し福田内閣が誕生(大福密約)。自身は幹事長として野党に「部分連合(パーシャル連合)」を呼びかけ内閣を支援しました。
 しかし、福田首相は約束を破り昭和53年(1978)の自民党総裁選挙に再出馬、大平も出馬し対決します。選挙は当初、福田首相が有利と考えられていましたが、田中派の全面支援を受けた大平が勝利し大平総裁が誕生。第68代内閣総理大臣に就任します。
 大平は演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きすることが多く「アーウー宰相」と呼ぶ人もいました。「あーうー」は流行語にもなっています。ただ、その話し方とは裏腹に頭の回転が早く、ユーモアのセンスも抜群な知性派の政治家だったそうです。
 首相在任中は、外交問題で、ソ連のアフガニスタン侵攻による「モスクワオリンピック出場ボイコット」の決定など、対米協力路線を鮮明にする一方、中国への政府借款の供与、「日中文化交流協定」の調印など関係強化を図っています。しかし、財政問題では赤字国債発行や財政再建への対処のため一般消費税導入を検討、与野党や世論の反対を受けて断念に追い込まれています。
 大平内閣の政権運営は「三木おろし」以降、自民党の議席が回復しないうえ、党内は主流派(大平・田中派)と反主流派(福田・三木派)が対立し脆弱なものでした。1979年の衆議院総選挙では、増税発言などにより自民党は過半数を割り込み、反主流派は大平退陣を要求します。「四十日抗争」と呼ばれる争いで自民党は分裂状態となり、選挙後の首班指名選挙で反主流派が福田前首相に投票、決選投票が大平首相と福田前首相の自民党同志で行われる異例の展開で、最終的に大平が勝利し第2次大平内閣が発足しました。
 党内抗争は一旦収束しましたが、両者の溝を埋めることは出来ず、翌年の昭和55年(1980)5月16日に社会党が提出した内閣不信任決議案が、反主流派の採決欠席により可決されてしまいます。決議案を提出した野党も可決されるとは思ってなく、この結果行われた衆議院解散は、「ハプニング解散」と呼ばれました。
 大平は総選挙と参議院選挙を同日の6月22日に行うことで難局を乗り切ろうとしますが、総選挙公示日の5月30日に体調不良を訴え、翌日に過労と不整脈により緊急入院します。反主流派は投票日当日から始まる「ヴェネツィアサミット」へも健康上の理由から出席が困難であるとして大平に退陣を要求します。大平は、この動きに対し激怒したと言われ、一時回復の兆しを見せていましたが、6月12日に容態が急変、心筋梗塞による心不全で70歳の生涯を閉じます。
 現役首相の急死という非常事態は、それまでの選挙情勢を一変してしまいます。野党転落の恐れもあった自民党ですが、対立していた主流派と反主流派は「弔い選挙」のために挙党態勢となり、有権者も多くの同情票を投じたため、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得る事になり、大平首相は命を賭して自民党を救ったと言われています。

大平正房の墓
大平正房の墓

墓の脇にある碑
墓の脇にある碑

多磨霊園 9-1-1-15
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