烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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明治20年代後半の方円社跡地

 明治33年1月に発行された方円社の「囲碁段級人名録」で五軒町(外神田6丁目)にあった本因坊丈和の三男で、方円社前社長の中川亀三郎の屋敷跡について紹介しましたが、同人名録には次のような記述もあります。「神田区末廣町廿二番地 中川亀三郎方寄宿 社員候補生 雁金準一」。
 雁金準一は後に本因坊秀栄門下となり、田村保寿(本因坊秀哉)と本因坊家継承を争った人物ですが、当時は方円社へ入塾後、中川亀三郎退隠とともにその内弟子となっていました。
 そして、雁金準一の住所は「中川亀三郎方寄宿」となっていながら五軒町ではなく、末廣町となっています。その理由について色々調べていくと次のような事が分かりました。
 明治12年(1879)に設立された囲碁の新組織「方円社」は、村瀬秀甫が社長に就任し、中川亀三郎は副社長として秀甫を補佐していました。その当時の「囲碁等級録」によると亀三郎は、先日も紹介しましたが東京郊外の今戸に住んでいました。秀甫が社長を務め、組織の運営は小林鉄次郎が仕切っていたため、亀三郎は東京の中心部にいて陣頭揮をとる必要がなかったためかもしれません。しかし、明治19年(1886)に対立していた本因坊家と和解し、秀甫が本因坊となったものの、その直後に病死したため、この事態を受け、中川亀三郎が二代目社長に就任します。明治26年(1893)には、神田区錦町三丁目に新社屋を新築して移転。いつごろかは分かりませんが亀三郎は陣頭指揮をとるために東京の中心部に出てきたと考えられます。
  しかし、新社屋へ移転した年の暮れに方円社の事務方を取り仕切っていた小林鉄次郎が亡くなり方円社は急速に勢いが衰えていきます。当時の記録を調べてみると、ついに錦町にあった社屋を手放し、末廣町に亀三郎が借りた民家を会館としたとあります。普通の民家に看板をかけただけの質素なものだったと言われています。
 明治33年発行の「囲碁段級人名録」に記された末廣町の住所は、旧方円社社屋と思われます。当時の方円社は新社長となった巌崎健造が碁会所として使っていた場所(御徒町あたり)に移転していて、その後に雁金準一が住んでいたのでしょう。
 末廣町の方円社跡の詳しい場所を調べてみると、外神田3丁目の滝沢馬琴住居跡として知られる「芳林公園」の北側入口の道向にある「阿出川ビル」のあたりでした。

囲碁段級人名録(明治33年1月発行)より
囲碁段級人名録(明治33年1月発行)より

明治20年代後半の方円社跡地
明治20年代後半の方円社跡地


 今戸の中川亀三郎邸跡


東京都千代田区外神田3丁目6 阿出川ビル
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