烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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木母寺 梅若伝説

木母寺は、忠円阿闍梨が貞元元年(976)に創建したと伝えられ、天正18年(1590)に家康によって、梅柳山と命名されます。慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折に木母寺と改号しています。明治維新の廃仏毀釈で一端廃寺となりますが、明治21年、光円僧正が再興しています。
 木母寺は、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺とも呼ばれていました。
 能で語られている伝説によると、平安時代の中頃、美濃国野上の長者の一人娘・花御膳の子・梅若丸は、比叡山月林寺で修行中、人買いに誘拐され、売られるために奥州へと旅を始めます。
 しかし、長旅により隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時に重い病気にかかり置き去りにされた梅若丸は、関屋の里人たちに見まもられ、「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」(母親が自分を探して尋ねてきたら、この地で亡くなった事を教えてほしい)という辞世の句を残し、わずか12歳の生涯を閉じます。 そして、 たまたま来あわせた忠円阿闍梨が里人と共に塚をたて柳を植えたといいます。
 一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きます。梅若丸が亡くなって丁度一年後、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にし、我が子がこの地で亡くなった事を知り、深く嘆き悲しみながら、里人たちとともに菩提を弔ったといいます。
 その後、塚の傍らに庵が建てられ、花御膳が暮し始めますが、悲しみに耐えきれず水面に身を投げ、自ら命を断ってしまったそうです。
 木母寺は、梅若丸を葬った塚と、その傍らに建てられた庵が起源とされています。「木母寺」とは梅の字の偏と旁を分けて造られた名前だそうです。

木母寺
木母寺

 木母寺は元々、現在地の近くにある防災団地のあたりにありましたが、昭和51年に、都市再開発事業で防災団地が建設される事となり、隅田川寄りに160mほど離れた現在地に移転しています。この時、梅若塚と梅若堂も移転していますが、この場所は防災のために木造建築が禁止されたため、苦肉の策として梅若堂は移築時にガラスで覆われたそうです。

梅若塚
梅若塚

梅若堂
梅若堂


東京都墨田区堤通2丁目16−1
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