烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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弘福寺

墨田区向島にある弘福寺は黄檗宗の寺院で本尊は釈迦如来。隅田川七福神のうち布袋像が祀られています。
延宝元年(1673)に春日局の孫である小田原藩主稲葉正則公が隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を移して創建した寺院です。寺地は、かつての江戸氏一族の牛島殿の城跡だそうです。
江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で焼失しましたが、昭和8年(1933)に再建されています。

 弘福寺山門脇に「淡島寒月旧居跡」の説明板が設置されていました。明治期の文化人・淡島寒月の父、淡島椿岳は江戸時代に大流行した軽焼きせんべい屋「淡島屋」を経営する実業家で、趣味としてピアノを購入して演奏会を開くなど文化人でもありました。椿岳は弘福寺境内に隠居所を建てて晩年を過ごしています。
 その息子、淡島寒月は井原西鶴を再評価し新聞や雑誌に寄稿。実体験を通した小説や江戸にまつわる話を洒落たセンスで著すなどして好評を博しています。明治26年頃、父の使っていた隠居所を「梵雲庵」と名付けて住込み、自らも「梵雲庵寒月」と号します。寒月は収集家としても知られ「梵雲庵」には江戸に関する貴重な資料があったそうですが、関東大震災によりすべて焼失してしまったそうです。

弘福寺山門
弘福寺山門

 弘福寺には隅田川七福神に一つ「布袋尊」が祀られています。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、布袋尊は唐時代の実在の禅僧であったことから像が安置されたと言われています。
 布袋尊は常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施したそうです。その心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭したと言われています。

弘福寺布袋尊(隅田川七福神)
弘福寺布袋尊(隅田川七福神

 境内右手に「翁媼尊」の石像を祀られています。この像は寛永年問(1624~1644)に、風外(ふうがい)和尚が相州真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられています。小田原藩主で弘福寺を創建した稲葉正則公が、石像が放置されるのは忍びないとして小田原城内で供養してきましたが、後に稲葉家の移封に伴い、弘福寺に移されたそうです。
 石像は風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めています。

翁媼尊
翁媼尊

 弘福寺は江戸時代に鳥取藩池田家の菩提寺でした。境内墓所には鳥取藩の支藩・若桜藩主、池田冠山の墓があります。
 冠山こと池田定常は鳥取藩池田家と縁戚関係の旗本池田家から因幡若桜藩主池田大隅守の養子に入り、安永2年(1773)に若桜藩の藩主となります。
 名君として知られる一方、池田冠山と号し、毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳間詰の文芸三侯」と称される、江戸時代後期を代表する文化人でもありました。著書は210巻にも上り、代表的なものに「浅草寺誌」があります。
 弘福寺を菩提寺としていた大名家は鳥取藩以外にもたくさんありましたが、関東大震災による再建時に別の場所へ移っています。その中には津和野藩もありました。その関係で津和野出身で明治以降墨田区曳舟に住んでいた文豪・森鴎外も没後、ここに葬られていました。しかし、震災後に三鷹の禅林寺へ改葬されています。

池田冠山の墓
池田冠山の墓


東京都墨田区向島5-3-2
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