烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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浅草神社の句碑

 浅草神社には様々な碑が建立されています。

 「生きると いうこと むずかしき 夜寒かな」

 小説家の川口松太郎は明治32年に浅草今戸に生まれます。「鶴八鶴次郎」は昭和10年第1回直木賞を受賞。小説や芝居の脚本で数々の名作を生み出しています。昭和60年に85歳で亡くなっています。
 浅草神社の句碑は三回忌を記念して建立されたものです。

川口松太郎句碑
川口松太郎句碑

 「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」

浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・小説家の久保田万太郎の句碑です。
「子供の頃に一緒に遊んでいた友達も、 みな散り散りになってしまい、今頃どうしているだろう」という意味だそうです。

久保田万太郎句碑
久保田万太郎句碑

 「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島かくれゆく 船をしぞ思う」

 蕋雲は文化年間(1804~1817)に新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といいました。
 粧太夫としては当時の錦絵にも描かれていて、書を中山敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、亀田鵬斎から蕋雲の号を送られたほどの人物だったそうです。
 歌碑は人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)に、浅草神社の裏手にあった人丸社に献納したものだそうで、明治維新後に神社が廃されたため被官稲荷神社へ移設。そして、昭和29年(1954)に浅草神社境内に移されています。

粧太夫碑
粧太夫碑

 「翁の文字はまだ身にそはず 衣がえ」

 二代目市川猿之助は孫の三代目市川団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名します。
 そして、昭和三十八年五月、歌舞伎座に於いて襲名興行を行います。碑文は襲名のときに語った言葉だそうです。

初代市川猿翁句碑
初代市川猿翁句碑

 「雷は 田町をよけて 鳴りわたる」

 日本舞踊の流派のひとつである「花柳流」は初代花柳寿輔による句碑です。

 文政4年(1821)に江戸で生まれた寿輔は、4歳の頃に浅草・吉原の鶴間吉五郎の養子となり、6歳から日本舞踊の四代目西川扇蔵に師事します。
 文政11年、8歳の時に七代目市川團十郎に見込まれて役者の道に進みますが、天保10年(1839)に養父が亡くなり、養母の面倒を見るために役者の道を断念。再び西川扇藏の許に戻り、西川芳次郎と名乗り舞踊家の道へ進んでいます。
 かつての師匠・七代目市川團十郎が市川海老蔵を襲名し「勧進帳」の初演が行われますが、芳次郎は扇藏の助手として振り付けに関わり評価が高まります。
 芳次郎は西川流後継者の有力候補となりますが、弘化2年(1845)に扇藏が急死すると兄弟子の間で跡目争いが起き、讒言により芳次郎は西川流を破門されてしまいます。
 破門された芳次郎は、子供の頃暮らした吉原に戻り、吉原の遊女屋の主人・玉屋山三郎の支援で再出発しています。この頃より、玉屋山三郎の雅号「花柳園清喜」から名前をもらい「花柳芳次郎」と名乗っています。
 歌舞伎の振付師に戻った芳次郎は、玉屋から紹介された十二代目市村羽左衛門、四代目中村歌右衛門らに評価され「市村座」の立振付師に抜擢されています。
 更に「天保の改革」により江戸追放となっていた七代目市川團十郎が江戸に戻ると、その支援を受け、江戸三座全を受け持つ人気振付師となりました。そして、團十郎の俳号「壽海老人」から一字が贈られ「花柳壽助」と名乗るようになります。後に「助」も「輔」に改められ「花柳寿輔」となります。
 明治以降も、維新により時代が変わる中、「かっぽれ」の振りを舞踊に取り入れるなど舞踊の改革を行い「花柳流」を確立。明治36年(1903)に83歳で亡くなっています。

初代花柳壽輔句碑
初代花柳壽輔句碑


東京都台東区浅草2丁目3-1
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