烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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将軍後継候補だった津山藩主 松平斉民

 谷中霊園の徳川慶喜の墓の近くは徳川家や大名の墓がたくさんあります。その中に「文定院殿成誉寂然確堂大居士」と刻まれた大きな墓石を見つけました。調べてみると11代将軍徳川家斉の十四男で、美作国津山藩の第8代藩主・松平斉民の墓である事が分かりました。
 文化11年(1814)に生まれた斉民は文化14年(1817)に津山藩主松平斉孝の養嗣子となります。父の家斉は男子26人・女子27人の子供を儲け、成年まで生きたのは28名だけですが多くは他家の養子となっています。
 松平斉民は天保2年(1831)1に、養父斉孝の隠居により家督を相続すると、藩の財政再建や教育の普及などに力を注ぎます。人望も厚く家臣や幕府からも高く評価されますが、安政2年(1855)に養父斉孝の息子・慶倫に家督を譲って隠居します。
 甥にあたる13代将軍徳川家定は病弱で、当初から将軍後継問題が発生し、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派と一橋慶喜を推す一橋派が対立した事は有名ですが、この時、一部では斉民を次期将軍に推す動きもありました。しかし、一度徳川家から離れている事や南紀派・一橋派と比べると大勢力ではなかったことから実現はしませんでした。
 明治維新後は徳川宗家を継いだ家達の後見人を務めるなど徳川一族の重鎮として活躍し、明治24年(1891)に78歳で亡くなっています。

津山藩主 松平斉民


東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地。
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| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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