烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

「新派」の創始者 川上音二郎の銅像台座

 谷中霊園の一画に、かつて、この場所に建立されていた「新派」の創始者・川上音二郎の銅像の台座がありました。
 音二郎は福岡藩の豪商・川上専蔵の子として文久4年(1864)に博多で生まれます。
 やがて、家をとびだし東京に出ると、職を転々としていましたが、福沢諭吉と出合い慶應義塾で学僕・書生として学び、その後、自由党の壮士として自由民権運動に身を投じ、政治団体「玄洋社」の結成にも参加しています。
 音二郎は「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府を攻撃する演説を行い、度々検挙されます。そこで、講談師の鑑札を取得し明治20年(1887)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行います。政府批判の演説は取り締まられていたため、音二郎は代わりに世情を風刺した「オッペケペー節」を寄席で歌い大ヒット。海外公演も行われ人気を博します。
 アメリカ公演の途中、女形の俳優が急死したため急遽、音二郎の妻・貞奴が舞台に立ち絶賛されます。これが日本初の女優だと言われています。
 また、「オッペケペー節」のような政治的な演説を歌に託した演説歌は略して「演歌」と呼ばれ、現在の「演歌」のルーツとなっています。
 そして、音二郎の一座が始めた演劇は、やがて「新派」と呼ばれ、その流れは現在まで引き継がれています。
 戦前には谷中霊園に銅像がありましたが、戦時中に金属供出で撤去され、現在は台座のみ残されているそうです。

川上音二郎銅像台座
川上音二郎銅像台座

川上音二郎銅像台座説明板
川上音二郎銅像台座説明板

東京都台東区谷中 谷中霊園 甲2号 3側
スポンサーサイト

| 明治・大正時代 | 08:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。