烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

本行寺の墓

 西日暮里の本行寺の墓所には著名人の墓が数多くあります。

永井尚志(ながいなおゆき)は江戸時代後期の幕府官僚で明治政府でも官吏を務めました。
文化13年(1816)に三河奥殿藩主・松平乗尹(のりただ)の子として生まれた尚志は25歳で旗本永井尚徳の養子となり嘉永6年(1853)に海防掛目付に選抜されます。
 安政2年(1855)に創設された長崎海軍伝習所を統監し、その後、初の外国奉行、更に軍艦奉行に就任しますが安政の大獄で失脚します。文久2年(1862)に軍艦操練所御用掛として復職すると、京都町奉行を経て慶応3年(1868)に若年寄格となり将軍徳川慶喜を補佐、大政奉還の上表文起草を行います。
 その後、戊辰戦争で函館まで逃れますが、明治5年に赦されて明治政府の開拓御用掛に就任、左院少議官、元老院権大書記を歴任しました。

永井尚志の墓
永井尚志の墓

 市河寛斎は江戸時代後期の儒学者、漢詩人です。書家・市河蘭台の子として寛延2年(1749)に上野国(群馬県)に生まれた寛斎は、江戸へ出て昌平坂学問所で学び、その後、江湖詩社を設立して多くの門人を輩出します。
 寛政3年より越中富山藩藩校広徳館の教授を20年間務め、文政3年(1820)に72歳で亡くなっています。
 なお、墓碑銘は寛斎の子で書家の市河米庵によるものです。

市河寛斎の墓
市河寛斎の墓

 市河寛斎の子で書家の市河米庵は安永8年(1779)に江戸京橋桶町に生まれます。
 父・寛斎らに書を学ぶ一方、長崎にて明・清の書画に影響をを受けた米庵は、趣味的なものを排除し格調高い書を目指します。
 寛政11年(1799)に小山林堂を開くと門人は5千人に及んだといいます。また、父の跡を継いで越中富山藩藩校広徳館の教授を務めています。
 巻菱湖、貫名海屋と並んで「幕末の三筆」と称された米庵ですが、安政5年(1858)にコレラのために79歳で亡くなっています。

市河米庵の墓
市河米庵の墓

 墓地の一画に初代金原亭伯楽と刻まれた墓石がありました。金原亭 伯楽は、神奈川県横浜市出身の落語家で本名は津野 良弘。落語協会所属に所属しておられ、まだご健在です。墓は生前墓で建立者もご本人の名前です。

金原亭伯楽の墓(生前墓)
金原亭伯楽の墓(生前墓)


荒川区西日暮里3-1-3
スポンサーサイト

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。