烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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善性寺 双葉山の墓

 丁度一年ほど前に東日暮里五丁目にある善性寺の第55代内閣総理大臣・石橋湛山の墓を紹介しました。その時、境内にある名横綱双葉山の墓の場所が分からなかったために紹介出来なかったため今回、久しぶりに善性寺を訪れました。

善性寺山門
善性寺山門

 前回は石橋湛山の墓を目的に訪れ、双葉山についてはほとんど下調べをしていなかったために分からなかったのですが、双葉山の墓は山門の隣りという実に分かりやすい場所にありました。本名の「穐吉家」と刻まれた墓石でした。
 前人未到の69連勝で知られる昭和の大横綱「双葉山」定次は、明治45年(1912)に、現在の大分県宇佐市下庄で生まれます。
 双葉山は子供の頃より海運業を営む父の仕事を手伝うことで強靱な足腰とバランス感覚を身につけたと言われていますが、5歳の頃、事故により右目を失明、11歳の頃には、右手小指の一部をウィンチに巻き込みつぶしてしまうという二つの大きなハンディを負います。しかし、それを、誰にも悟られぬよう人一倍稽古に励み大記録を達成したのです。
 70連勝をかけて臨んだ昭和14年一月場所四日目、ついに安芸ノ海によって黒星を喫した双葉山は、その日の夜、知人宛てに打った電報で「われ未だ木鶏たりえず」と語っています。
 「木鶏」とは中国の故事に由来し、木彫りの鶏のように全く動じることのない闘鶏における最強の状態をさします。無心の境地に至れなかった自分を戒めた発言ですが、双葉山はその後も精進を重ね、連勝記録がストップした後も3度の全勝優勝を含む7度もの優勝を達成しています。
 引退後は、時津風親方として弟子の指導にあたり、晩年、相撲協会の理事長としても活躍し、昭和43年(1963)56歳で亡くなっています。
 ところで、双葉山は囲碁の呉清源と知り合いだったそうです。しかも、二人が絡んだ「璽光尊事件」で双葉山は逮捕されています。
 第二次世界大戦中におこった新興宗教団体「璽宇」は終末思想を説き信者を増やしていました。引退間もない双葉山は悩むことが多かったのか「璽宇」の信者となります。 一方、呉清源は中国の道教系新興宗教「世界紅卍字会」の信者でしたが日本のグループが「璽宇」に合流したため、その信者となっていました。そして、双葉山と呉清源は教団の広告塔として利用されていました。
 GHQや警察は終末思想を説く「璽宇」の活動を危険視します。昭和22年(1947)に、石川県警察部が金沢市で教団本部を食糧管理法違反の容疑(統制物資の米を大量に所持していたため)で急襲しますが、この時、双葉山は警察隊の侵入阻止のために暴れたため、教祖の璽光尊(長岡良子)と共に逮捕されます。
 逮捕後、周囲の説得で我を取り戻した双葉山は、その後双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉に耳を貸さず「璽宇」を離脱します。また、しばらく教団に残っていた呉清源も、やがて離脱していき「璽光尊事件」を契機に教団は衰退していきました。なお、大騒動となった「璽光尊事件」では双葉山も含めて誰も厳罰されなかったことから、これは有名人の双葉山や呉清源を、「邪教」から救出する意図があったとも言われています。
 なお、日中の囲碁界に多大な功績をした呉清源氏は今年の11月30日に100歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

双葉山の墓
双葉山の墓

墓石に刻まれた戒名
墓石に刻まれた戒名

 この他、善性寺は上野戦争においては彰義隊の屯所になっていた関係からか墓地には彰義隊士の墓もありました。

彰義隊士の墓
彰義隊士の墓

関連記事 : 石橋湛山の墓 善性寺

荒川区東日暮里五丁目41番14号
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