烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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海晏寺 松平春嶽と岩倉具視の墓

 品川区南品川にある海晏寺は建長3年(1251)に鎌倉時代幕府5代執権北条時頼により創建された寺院と伝えられています。本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、この辺りの地名「鮫洲」の由来となっています。
 海晏寺境内の墓地には非公開ですが幕末から明治維新にかけて活躍した松平春嶽や岩倉具視の墓があります。塀の外からですが、なんとか松平春嶽の墓と岩倉具視の墓の前の鳥居を見ることが出来ましたので紹介します。

海晏寺
海晏寺

 幕末四賢侯の一人、越前福井藩主・松平春嶽は田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男で将軍・徳川家慶の従弟にあたります。春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)といいます。
 11歳の時に越前福井藩主・松平斉善の急死により養子となり第16代藩主に就任。由利公正、橋本左内ら有能な家臣を登用し藩政改革に取り組みます。
 嘉永6年(1853)にアメリカのペリー提督が来航して日本へ通商を求めると春嶽は、当初、徳川斉昭や島津斉彬と共に攘夷を主張しますが、老中の阿部正弘らと交流により、やがて開国派に転じています。
 また、13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、一橋慶喜を推す「一橋派」に属しますが、紀州家の徳川慶福(家茂)を推す「南紀派」で彦根藩主の井伊直弼が大老となると、将軍世子は慶福に決定します。
 幕府の実権を握った井伊直弼は朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印。登城して抗議した春嶽や徳川斉昭らを、不時登城の罪で強制的に隠居させ謹慎とします。
 春嶽の謹慎生活は5年にも及びますが、安政7年に井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると春嶽は復権し文久2年(1862)に幕政へ復帰。政事総裁職に就任します。政事総裁職は大老と同等のポストで、大老は親藩以外から選ぶという慣例があった事から春嶽の為に新しく造られた役職だそうです。
 幕政に復帰した春嶽は公武合体政策を推進し朝廷との融和を目指します。しかし幕府の強化を目指す一橋慶喜ら保守派の幕閣と対立。一方、台頭してきた長州藩を中心とする尊王攘夷派が幕府に攘夷決行の期日を迫ると慶喜はその受託に傾きますが、これに反対であった春嶽は政事総裁職を辞任します。
 文久3年(1863)の「八月十八日の政変」により朝廷より尊王攘夷派が一掃されると有力大名による「参与会議」が開かれ春嶽も参加しますが一橋慶喜が春嶽らを非難し体制は崩壊。
 続いて慶応3年(1867)に春獄と島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽による「四侯会議」が開かれ、一橋慶喜らを加え兵庫開港や長州藩の処分について話し合いが行われます。春獄は長州征伐に最後まで反対しましたが、慶喜の巧みな交渉術により征伐が決定してしまいます。この決定を受けて反発した薩摩藩は討幕派へと傾いていきました。
 その後、長州征伐で劣勢のまま将軍家茂が亡くなったことにより慶喜が15代将軍に就任したものの「大政奉還」そして「王政復古の大号令」により新政府が樹立されます。新政府で薩長は慶喜排除のため領地没収などを画策しますが春獄はこれに反対。しかし、「鳥羽伏見の戦い」勃発により慶喜の政権復帰の道は閉ざされます。
 春獄は維新後の新政府で内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任。明治3年(1870)に全ての政務を退き、明治23年(1890)に小石川の自邸で死去します。、享年63歳でした。

松平春嶽の墓
松平春嶽の墓

 岩倉具視の墓は見えませんでしたが、墓の前の鳥居だけ拝見することが出来ました。
 岩倉具視は公卿・堀河康親の次男で師匠の儒学者・伏原宣明の推薦により中級の公家・岩倉家へ養子に入ります。
 岩倉は孝明天皇の近習として公武合体政策を推進。皇女和宮の降嫁にも協力しています。岩倉はあくまで朝廷の権威高揚のために行動していましたが、朝廷内で長州藩を中心とする尊王攘夷派が台頭してくると佐幕派の公家であると糾弾されて失脚。幽閉生活を送ることとなります。
 「八月十八日の政変」および翌年の「禁門の変」により尊王攘夷派の公家や長州藩が京より一掃されると岩倉は復権。薩摩藩との結びつきを深めます。この頃、岩倉は討幕派へと転じていて朝敵となった長州藩への征伐に薩摩藩とともに反対的立場をとります。
 幕府に対して理解のあった孝明天皇が崩御すると15歳の明治天皇が即位し徳川慶喜は大政奉還を行います。
 岩倉は王政復古の大号令案を奏上し、新政府を樹立。自らは大久保利通と共に参与となり、その後、皇族、大名と同等の議定に就任します。行政官の長である輔相も兼務し新政府の実質的トップとして活躍しました。
 外務卿となった岩倉は明治4年(1871)から1年10ヶ月にわたり、不平等条約解消を目指し欧米諸国への使節団を組織すると団長として各国を歴訪します(岩倉使節団)。帰国後に巻き起こっていた「征韓論争」では大久保利通と共に反対の立場をとり、後に野に下った西郷隆盛を担いだ「西南戦争」へと繋がっていきます。
 その後、伊藤博文らを使い憲法制定や国会開設に尽力しますが「大日本帝国憲法」制定(明治23年施行)を見ることなく明治16年(1883)に病のために亡くなります。享年59歳。

岩倉具視の墓
岩倉具視の墓


東京都品川区南品川5丁目16-22
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