烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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浪曲の聖地 天妙国寺

 南品川の天妙国寺は顕本法華宗の別格山で鳳凰山と号します。弘安8年(1285)に日蓮の弟子・天目により創建され、江戸時代には、南品川本光寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺でした。

天妙国寺山門
天妙国寺山門

天妙国寺境内
天妙国寺境内

 天妙国寺には15世紀中頃に五重塔が建立されていました。しかし、慶長19年(1614)の大風により倒壊。寛永年間に修復されますが元禄15年(1702)に四谷塩町で発生した大火により焼失しています。現在、礎石が残されていますが、後世に移動したとの事で五重塔があった正確な場所は分かっていません。

天妙国寺五重塔礎石
天妙国寺五重塔礎石

 天妙国寺は浪曲の聖地と呼ばれています。境内墓地に明治、大正時代に活躍した浪曲師・桃中軒雲右衛門の墓があります。
 桃中軒雲右衛門(本名 岡本峰吉)は旅回りの祭文語り、吉川繁吉の次男として、明治6年(1873)に生まれます。
 9歳頃から父親の興行に同行し、12歳で一座の看板主となり二代目吉川繁吉を名乗り、寄席への進出も果たしています。
その後、中京節の三河家梅車の弟子となりますが、 明治35年(1902)に師匠とのトラブルから関東の寄席から閉め出され、名古屋、京都、大阪へと下っています。この頃、桃中軒雲右衛門と改名しています。
 関西へ移った事により従来の関東節に加えて、関西節や、九州で流行っていた三味線を伴奏に入れた軍談を取り入れ、独特の雲右衛門節(雲調・雲節)を生み出し人気を博します。
 明治36年(1903)に弟子の宮崎滔天の勧めで福岡に行き、滔天の旧友の玄洋社・頭山満の後援で九州全域での興行を成功。明治40年(1907)、34歳で東京本郷座の舞台にも進出します。
 当時、レコードが普及し始め雲右衛門のレコードは大ヒットしたといいます。余談ですが、余りの人気のためレコードの模倣盤が出回り発売元が裁判を起こしています。これが日本初の著作権訴訟だと言われています。
 このように絶大な人気を誇り、浪花節中興の祖と呼ばれた雲右衛門ですが、大正2年(1913)頃から、肺結核にかかり、何度か入院をしますが元気になるとすぐに巡業に出てしまったそうです。発熱があっても「頼まれた以上は」と出演を続けたそうで、最後は実子の西岡稲太郎宅で療養しますが大正5年(1916)に43歳で亡くなっています。

桃中軒雲右衛門の墓
桃中軒雲右衛門の墓

 天妙国寺の墓所に梵鐘型の墓石がありますが、これは、歌舞伎や落語で知られるお祭り佐七の墓であると言われています。
 久留米藩士の飯島佐七郎は、あまりにいい男だったので女達が騒ぎ、その妬みから城を追い出され、親からも勘当されてしまいます。江戸の火消「め組」の鳶頭・清五郎の居候となった佐七郎は、やがて火消になりますが、木遣りがうまく、男前でもあったので、祭となると方々から声が掛かり「お祭佐七」と呼ばれるようになったという話です。なお、「お祭佐七」は物語の登場人物で実在したかは定かではありません。

鳶頭のお祭り佐七の墓
お祭り佐七の墓



東京都品川区南品川2-8-23
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