烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

 源頼朝の墓の東側に大江広元・島津忠久などの墓があります。頼朝の墓の上り口を右に曲がりしばらく歩くと左手に墓の入口があります。しばらく寂しい道を歩いていき不安になりますが、やがて石段があり、上っていくと三つの墓があります。
 中央にあるのが大江広元の墓、左にその息子で毛利家の祖である毛利季光の墓、右に島津氏の祖である島津忠久の墓があります。
 なお、墓へ上がる石段に向かう途中、やぐら(墓)を見かけましたが、そのまま通り過ぎてしまいました。後で調べてみると「宝治合戦」で滅亡した有力御家人・三浦一族の墓所だったそうです。

大江広元・島津忠久の墓への入口
大江広元・島津忠久の墓への入口

 大江広元は、朝廷にて太政官の書記をしていた下級貴族でしたが、元暦元年(1184)に源頼朝に乞われて鎌倉入りします。
 鎌倉幕府の政所初代長官として、守護・地頭の設置を行うなど幕府の土台造りに深く関わっています。
頼朝の死後は、北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与します。広元の官位は義時よりも高く幕府において将軍に次ぐ地位を占めていました。
 広元は嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)に亡くなりますが、その一月後に北条政子も亡くなくなり、ここから執権・北条義時による幕府の支配が始まることとなります。
 現在の墓は江戸時代に頼朝の墓を整備した島津氏(薩摩藩)や広元の子孫・毛利氏(長州藩)が整備したものと言われ、この場祖以外にも十二所の明王院の裏山にも大江広元の墓といわれているものがあります。

大江広元の墓
大江広元の墓

大江広元の碑
大江広元の碑

 毛利季光は鎌倉幕府の御家人で大江広元の四男です。季光は父の所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続して毛利氏を名乗るようになります。また「承久の乱」の活躍により、安芸国吉田荘の地頭職を与えられています。
 大江広元や北条政子の死後、執権北条得宗家による政治の独占に不満を募らせた勢力は前将軍・藤原頼経の元、北条得宗家を排斥しようと画策します。その動きを察知した、五代執権・北条時頼は頼経を京都へ送還し、将軍派であった御家人達を処分します。
 頼経を失った反執権勢力は、北条氏に対抗し得る有力御家人・三浦氏の元に結集し北条得宗家との対立を深めていきます。その中の一人に毛利季光もいました。
 両勢力は和解の道を探り話し合いを続けていましたが、宝治元年(1247)に執権側の強硬派である安達景盛が三浦氏の屋敷を急襲。「宝治合戦」と呼ばれる内乱が勃発します。
 合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ混乱を極めます。三浦氏は屋敷周辺に火をかけられると頼朝の墓である法華堂へ移動。劣勢にたたされ自刃し三浦氏は滅亡します。
 毛利季光の一族は、ほぼこの時に亡くなっていますが、越後国にいた四男の経光だけが唯一生き残ったと言われています。その子孫が後に中国地方の覇者となる毛利元就です。

毛利季光の墓
毛利季光の墓

 島津忠久は、鎌倉幕府御家人で島津氏の祖です。元々摂関家に仕える武士でしたが、祖母(比企氏)が源頼朝の乳母であったことから頼朝に重用されるようになります。
摂関家の領地であった日向国島津荘の地頭となり島津姓を名乗るようになったそうです。その後、日向国・大隅国・薩摩国の守護に任じられ九州に地盤を造って行きます。
 ところが、頼朝死後の建仁3年(1203)に「比企の乱」により比企氏が北条氏に滅ぼされると縁者である忠久も領地を没収されてしまいます。やがて、三代将軍源実朝に仕え、薩摩国地頭職を務めるなど復権を果たしています。
 島津家では、忠久の母は源頼朝の側室で忠久は頼朝の落胤であったと伝わっています。これは、後の世に造られた話で史実ではないと考えられていますが、そういった経緯から江戸時代に島津家が頼朝の墓を整備しています。


島津忠久の墓
島津忠久の墓

神奈川県鎌倉市西御門2丁目7−9付近
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