烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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聚楽第と囲碁

 天下人となった豊臣秀吉は大阪城にて政務を行っていましたが、関白に就任し九州征伐を行った後に、京都に新たな政庁兼邸宅である「聚楽第」を建設します。
 一年半を費やし、天正15年(1587)に完成した聚楽第は平安京大内裏跡に建築され、規模は現在の二条城より大きかったそうです。
 金箔瓦が使われるなど絢爛豪華な屋敷では天正16年(1588)に後陽成天皇の行幸が行われるなど、正に豊臣政権絶頂期に秀吉が過ごしていた場所でした。
 囲碁好きの秀吉ですから聚楽第でも当然、碁会が催されています。天正16年に上洛した毛利輝元は聚楽第に秀吉を訪ねると碁会を観戦するよう秀吉に言われ観戦後、同席していた豊臣秀長と徳川家康の案内で聚楽第の座敷から台所まで残らず見学して廻った事が家臣の記録に残されています。なお、この碁会には本因坊算砂や利玄も参加しています。

 天正19年(1591)に秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となります。
 秀次も囲碁や将棋が好きで、算砂とも親しかったといい、引き続き聚楽第でも碁会が行われていたようです。
 しかし、秀吉に息子の秀頼が生まれると、秀吉は文禄4年(1595)に秀次が謀反を企てたとして高野山に追放し切腹させます。秀次の居城であった聚楽第も解体され、僅か8年でその役目を終えたのでした。

 聚楽第の遺構は僅か8年で破却されたためほとんど残っていません。下記写真は2011年6月12日付のブログで紹介した写真で、京都市立・正親小学校北東角の一角に建てられた碑で聚楽第の本丸西内濠あたりに当たる場所だそうです。



関連記事 : 二条城周辺(聚楽第跡)

京都府京都市上京区浄福寺通中立売下る菱丸町173 正親小学校校門近く
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