烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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平将門の首塚と囲碁 原田甲斐

 過去に紹介したブログの中で囲碁について触れていなかった話題を紹介します。
 東京駅の近く、大手町の一画にある「平将門の首塚」については2012年2月のブログで紹介しましたが、ここは、江戸時代は、大名の酒井家上屋敷であった事も紹介していました。
 そして、酒井家上屋敷は「伊達騒動」の舞台となった場所でもあります。
 伊達政宗を初代とする仙台藩第三代藩主伊達綱宗は遊興放蕩三昧のため親族大名たちにより21歳にして強制的に隠居させられます。後を継いだ息子の綱村は幼少であったため綱宗を隠居に追込んだ叔父の一関藩主伊達宗勝が後見役となり、その一派の家老原田甲斐(宗輔)たちがが藩政の実権を握ぎります。
 原田達に冷遇されていた伊達一門の伊達安芸宗重は伊達藩改易の恐れがあるにも関わらず幕府へ宗勝派の横暴を訴え出ます。そして、寛文11年(1671)3月27日に当時の老中・酒井忠清の上屋敷で宗重や原田が集まり審問が行われます。しかし、自分の立場が不利である事を知った原田は宗重に斬りかかり斬殺。原田も周りの人々に斬り殺されてしまいました。これが世に言う「伊達騒動」です。
 この事件により原田家は断絶。一関藩も改易となりましたが、当事者が死んでしまったため当初の審問は中止され伊達藩はお咎めなしとなっています。
 「伊達騒動」は歌舞伎「伽羅先代萩」の題材となり原田は悪人として描かれてきましたが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では汚名を一身に受け宗重斬殺により仙台藩を救った人物として描かれています。

 そして、この原田甲斐こそ、囲碁が縁で生まれた人物なのです。原田甲斐は元和5年(1619) 仙台藩の重臣・原田宗資の長男として生まれます。母親は元豊臣秀吉の側室で、のちに伊達政宗に仕えた重臣・鬼庭綱元の側室となった香の前の娘です。
 文禄2年(1593)秀吉による文禄の役で伊達政宗は朝鮮半島に渡りますが、鬼庭綱元は名護屋城留守居役として秀吉との折衝役を務めます。この時、綱元を気に入った秀吉は囲碁の勝負を挑み、自分が勝ったら家臣として召し抱え、負けたら、お気に入りの側室・香の前を与えると言い出します。結果は綱元が勝利し香の前は綱元に与えられました。
 しかし、日本へ帰ってきた政宗はこの話を聞き、綱元が裏切るのではないかと疑い、綱元に隠居を迫ります。
 激怒した綱元は香の前を連れて伊達家を出奔します。徳川家康が召し抱えようとしますが政宗の反対で実現せず、同情した家康は資金援助しています。2年後に綱元は伊達家へ復帰しますが、この時、香の前は政宗に取り上げられ、数年後に再び綱元に下げ渡されています。
 香の前は二人の子を産んでいますが、この事から二人とも政宗の子供という説があります。つまり、「伊達騒動」の原田甲斐は伊達政宗の孫かもしれないという事です。


「平将門の首塚」入口

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現地案内板


関連記事:将門の首塚

千代田区大手町1-2-1
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