烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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瀬越憲作先生像

 「石谷広策寿蔵碑」を見学した後、タクシーで高田港へと向かいます。ここには瀬越憲作の像があります。「石谷広策寿蔵碑」にしても瀬越憲作の像にしても、詳しい場所を説明しなくてもタクシーの運転手の方がよく知っていたりします。
 なお、高田港にもフェリーが寄りますので、像を見学後、ここから広島港へと帰りました。
 瀬越憲作は、大正から昭和にかけて活躍した囲碁棋士で、方円社に所属し日本棋院設立にも尽力します。
 昭和20年に弟子の第二期本因坊・橋本宇太郎に岩本薫7段が挑戦する第三期本因坊戦が開催される事になりますが、東京大空襲で日本棋院が焼失したため、瀬越が疎開している郷土広島での開催に奔走しています。
 瀬越は本因坊戦の立会人を務めますが、ここで原爆投下に遭遇します。会場は爆心地から10kmも離れていましたが窓ガラスが粉々になるなど大きな被害を受け、対局者の橋本宇太郎は庭にうずくまり、岩本薫は盤上にうつ伏せとなる状態でした。しかし、瀬越だけは平然と正座したままだったといい、人々はその冷静さを称えましたが後に瀬越は腰が抜けて動けなかったと語っています。なお、瀬越の三男と甥は原爆投下により亡くなっています。
 終戦後は岩本薫らと共に日本棋院の再建に尽力し、昭和21年(1946)から二年間、日本棋院初代理事長に就任します。
 昭和30年(1955)に引退すると、名誉九段に推され、1958年には棋士で初の紫綬褒章、1966年には勲二等瑞宝章を受章しました。しかし、昭和47年(1972)に体の衰えを苦に自ら命を絶っています。享年83歳
 能美島の像は1983年にその功績を讃えて建立されたものです。また、2009年には囲碁殿堂入りを果たしています。

瀬越憲作先生像
瀬越憲作先生像

広島県江田島市能美町高田1429−5 JA呉高田支店のとなり
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