烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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石谷広策寿蔵碑

 広島滞在の最終日、早朝より広島(宇品)港フェリー乗場へ行き、能美島へ渡りました。
 能美島は囲碁会においては、本因坊秀策の兄弟弟子の石谷広策と、本因坊昭宇(橋本宇太郎)の師匠で昭和21年(1946)に、日本棋院初代理事長に就任し、戦後の日本棋院再建に尽力した瀬越憲作の出身地です。
 能美島は現在は車でも呉から島伝いに橋を渡って行けますが、広島市内からは遠回りになるのでフェリーで行くこととしました。能美島といっても、現在の島の形は東能美島、西能美島、江田島と三つの島が陸地でつながる一つの島で江田島市を形成しています。中世までは、それぞれ独立した島だったそうですが、やがて埋め立てられるなどして一つの島となったそうです。

広島(宇品)港フェリー乗場
広島(宇品)港フェリー乗場

 フェリーに乗り能美島の中町港に到着すると、そこからはタクシーで移動しました。まず、目指したのは「石谷広策寿蔵碑」です。
 石谷広策は文政元年(1818)に能美島の中村(現在の中町)に生まれ、本名は広二と言いました。
子供の頃から優れた棋力を持っていたそうで、天保13年(1842)江戸に登り、本因坊丈策の門人となって後継者秀和・秀策に師事します。
 秀策は兄弟子ですが同郷で十一歳年下であり、広二は秀策に物心ともに迷惑をかけることが多く、秀策が国許へ送った書簡には、もし広二が訪ねてきても彼の話を信じるなと書き記しています。
 しかし、広策の後半生は秀策顕彰活動にささげ、打碁集「敲玉余韵」を発行するなど秀策の名声を高めています。前聖道策に対する後聖丈和が秀策に取って代わられたのは石谷に負うところが大きいそうです。
 慶応3年(1867)に以前紹介した三原の糸崎神社境内に、秀策の顕彰碑を建立し、秀和から「策」の一字を許されて広策と名乗るようになります。
 寿蔵碑は後進を育成し、多くの棋士を輩出した広策が70歳の時に門人たちにより、その功績を称え、存命中にと広島市西区草津南町に建てられたものです。その後、広電宮島線開設による工事のため、故郷である現在地に移設されています。
 なお、能美島には石谷広策の墓もありますが、こちらは民家の敷地内にあるそうで非公開です。

能美島
能美島



石谷広策寿蔵碑
石谷広策寿蔵碑

江田島市能美町中町3374-20 中町駐在所の隣


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