烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2016年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年02月

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お菊塚 平塚市

 神奈川県平塚市の紅谷町公園にある「お菊塚」は、怪談「番町皿屋敷」のお菊の墓と伝えられています。
 伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていたところ、主人が大切にしていた南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまったとして怒りを買い、屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまったといいます。
 その後、お菊の遺体は引き上げられ、平塚宿まで送り返されますが、実際は、お菊が皿を無くしたのではなく、言い寄って来た家来を突っぱねたために皿を隠されたという無実の罪で亡くなったそうで、青山主膳の屋敷ではお菊が投げ込まれた井戸で、怨みを抱いたお菊の幽霊が現れたという噂が流れたことが物語が出来た経緯だそうです。
 お菊は眞壁家の墓所に葬られますが、罪人として扱われたため墓石が作られず、その代わりに栴檀の木が植えられたと言われ、昭和27年に戦後復興のために墓地が移転た際に、伝承通り焼けた栴檀の木の下から遺骨が発見されたと言われています。
 そして、その跡地は紅谷町公園の一部となり、お菊塚が建立されています。

入口
入口

お菊塚
お菊塚

お菊塚
お菊塚

説明板
説明板

神奈川県平塚市紅谷町15
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| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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平塚駅 囲碁のまちひらつか記念塔

 神奈川県平塚市へやってきました。近代囲碁に大きな功績を残した木谷實九段は、平塚に居を構え、全国の才能豊かな子どもたちを自宅に預かり育てています。
 「木谷道場」と呼ばれた、その家で暮らした弟子は70人近くにもなり、その多くが現代の囲碁界を代表する棋士になっています。
 そのような縁から、平塚市は囲碁を貴重な文化資源として位置付け、囲碁文化の普及・振興を推進しています。

平塚駅
平塚駅

 平塚駅北口付近にある「囲碁のまちひらつか」記念塔は木谷實九段生誕100年を記念して平成21年(2009)に設置されたもので、詰碁の問題が掲示されています。なお、この問題は定期的に変更されているそうです。

囲碁のまちひらつか記念塔
囲碁のまちひらつか記念塔

平塚市宝町 平塚駅北口

| 囲碁のある風景 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第6期初台碁聖戦本戦大会

1月9日に私の主宰する初台碁聖戦の本戦大会を行いました。参加人数は36人、クラスも4クラスにわかれました。一番上のクラスは県代表クラスから下のクラスは一般のアマ五、六段まで。
今回で6回目となりましたが、現在2連覇中の元アマ本因坊の瀧澤雄太さんが欠場だったのが残念でしたが大いに盛り上がりました。
一番上のクラスだけ結果を掲載します。

優勝 福嶌秀渉(初優勝)
2位 稲葉一宇(第2期・3期優勝)
3位 青木裕孝
4位 伊瀬英介
5位 金井洋龍
6位 山根紹平
7位 林隆羽
8位 茂呂有紗

これからもみなさんに楽しんでいただけるようにしたいです。

囲碁界では囲碁AIのMasterの話題で盛り上がっています。私の周囲でもAIの打った手にいろんな意見を言っている方々がいます。今年は人類とAIの話題がいろいろ出てきそうですね。

| 囲碁あれこれ | 17:42 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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東京大学のルーツ「蕃書調所跡」

 九段下の昭和館の隣りに「蕃書調所跡」の説明板があります。ペリー来航により設立された洋学研究機関で、天文台蛮書和解御用掛を拡充して当初、小川町に「洋学所」として開設されますが、その直後に「安政の大地震」が発生し焼失したため、安政3年(1856)に「蕃書調所」と改称して説明板のある辺りに移転したそうです。
 蕃書調所は古賀謹一郎を頭取とし、先日紹介した箕作阮甫らが教授を務め、幕臣の子を対象に、蘭学や英学などの教育を行う一方、翻訳事業や欧米諸国との外交も担当していましたが、井伊直弼が大老となると洋学が軽視され規模縮小と共に移転。その後政権が変わり護持院原(現神田錦町)に移転し開成学校と改称、これが現在の東京大学のルーツとなっています。

案内図
九段下交差点近くにあった案内図

昭和館と蕃書調所跡
昭和館と蕃書調所跡

説明板
説明板

千代田区九段南1-6

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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九段会館

 神田神保町から九段下まで歩いてきましたが、交差点から九段会館が見えました。
 九段会館は旧軍人会館で、昭和天皇の即位の礼を記念する事業の一環として昭和9年(1934)に竣工。鉄筋コンクリート造で洋風建築の上に和風の大きな瓦屋根を載せた「帝冠様式」の代表作の一つとされています。
 戦前は主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に使用され、「二・二六事件」勃発時には戒厳司令部が置かれた場所で、終戦後にGHQに接収され進駐軍宿舎として使用された後、国へ返還されると、日本遺族会に対し無償払い下げが行われ、宿泊・結婚式場・貸しホール等として活用されてきました。
 しかし、平成23年(2011)に発生した東日本大震災により、ホールの天井版が崩落し死傷者が出たことから廃業。現在は閉鎖されています。
 今後、高層ビルに建て直されるそうですが、昭和初期の雰囲気を伝える歴史的建造物を、どのように残していくか現在検討されています。

九段会館
九段会館

千代田区九段南1丁目6−5

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中央工学校開校の地

 地下鉄新宿線の神保町駅 A1出口から南に200mほど行ったところにある日本教育会館(一ツ橋ホール)前の歩道上に「中央工学校開校の地」の碑があります。
 中央工学校は、工業技術者育成のために設立された私立の専門学校で、明治42年(1909)に この場所に開校。
 戦争により焼失したため、昭和37年(1962)に 北区王子に校舎を新築し移転しています。
 卒業生の中には、昨年ブームとなった田中角栄元首相がいます。
 碑は、平成21年(2009)に 開校100周年を記念して建立されたものだそうです。

中央工学校開校の地
中央公学校開校の地

碑


千代田区一ツ橋2丁目6−3 一ツ橋ホールとなりの一ツ橋ビル前の歩道

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社の新会館

 明治12年(1879)に設立された方円社は神田区表神保町にありましたが、明治26年(1893)に神田区錦町三丁目へ新築移転し披露会が開催されています。
 明治19年(1986)10月14日に初代社長・本因坊門秀甫が亡くなり、中川亀三郎が二代目社長となっていますが、方円社の経営は実質的に小林鉄次郎が行っていて安定していました。表神保町の住所は寄留となっていて借家のようでしたので、念願の自社ビルを建築したのでしょう。
 場所は現在の学士会館の南側で、神田税務署の西側となります。この場所は学士会館と同じ、東京大学があった場所で、大学が本郷に移転したことにより土地が分譲されたと思われます。

大正元年の地図
大正元年の地図

 秀甫が本因坊門となり新会館が出来るなど、正にこの頃の方円社は絶頂期を迎えますが、移転から数ヶ月後に小林鉄次郎が亡くなると、その繁栄も次第にかげりを見せ始め、数年後には会館を手放すことになります。
 その後、方円社は以前紹介した末廣町へ移転していますが、そこは亀三郎が借りた普通の民家に看板をかけただけの質素なものだったと言われています

方円社跡
方円社跡

神田区錦町三丁目十五番地
 現住所:千代田区神田錦町3丁目5−1、9、7-2あたり

【関連記事】
 明治20年代後半の方円社跡地

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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新島襄先生生誕之地碑

 神田錦町の学士会館の建物の南側に、同志社大学の創立者として知られる新島襄の生誕之地碑があります。平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、綾瀬はるか演じる新島八重の夫としてオダギリジョーが演じたことで一躍有名とあった人物です。
 新島襄は、上野(群馬)安中藩三万石、板倉伊予守の家臣の子として藩上屋敷で生まれますが、それが神田錦町の学士会館付近だったそうです。
 その後、藩士となり蘭学を修め、元治元年(1864)には脱藩して密航し米国に渡っています。米国で洗礼を受け、アーモスト大学を卒業。明治維新後、岩倉具視遣外使節に随行し、各国の教育制度を調査し帰国すると、京都を拠点に伝道活動に励み、明治8年(1875)同志社英学校、同10年(1877)に同志社女学校を創立します。そして大学設立を目指し尽力する最中の明治23年(1890)にその生涯を閉じています。

新島襄先生生誕之地碑
新島襄先生生誕之地碑

説明板
説明板

千代田区神田錦町3-28

| 明治・大正時代 | 07:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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東京大学発祥の地 学士会館

 千代田区神田錦町の「学士会館」正面玄関の前に「東京大学発祥の地」の碑が建立されています。説明版は「我が国の大学発祥地」と表記されていて、東京大学発祥地がイコール我が国大学の発祥地であることを示しています。学士会館については以前、建物の北側にある「日本野球発祥の地」の碑について紹介しています。
  この辺りは元々、護持院という寺院があったことに由来する「護持ケ原」と呼ばれる「火除地」があり、将軍の猟場として使用されてきました。
 その護持ケ原に文久2年(1862)、洋学調所(蕃書調所)が移転してきて、明治2年(1869)には大学南校となります。その後、名称が何度か変わり、明治10年「東京開成学校」の時に、当時、加賀前田屋敷跡にあった東京医学校と合併し、 東京大学が創立されました。 
  護持院ケ原は、東京大学のほか、東京外国語大学、学習院、一橋大学の発祥の地であり、その影響で神保町の書店街が形成されていったそうです。

学士会館
学士会館

 学士会は、明治19年(1886)に帝国大学(現在の東京大学)の同窓会組織として創立。帝国大学は現在、東京大学、京都大学、名古屋大学などに分かれたため、一つの大学の枠を超えた組織となっています。
 現在の学士会館は、昭和3年(1928)に関東大震災の復興建物として完成。現在は宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する施設ですが、昭和11年(1936)に勃発した「2・26事件」では第14師団東京警備隊司令部が置かれ、太平洋戦争時は屋上に高射機関銃を設置。戦後はGHQに接収され高級将校の宿舎や将校倶楽部として活用されるなど様々な歴史を刻んでいます。

東京大学発祥の地碑
東京大学発祥の地碑

説明板
説明板

千代田区神田錦町3−28

【関連記事】 日本野球発祥の地

| 明治・大正時代 | 07:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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文房堂

 方円社があった、かつての「神田区表神保町2番地」の区画に現在「文房堂」という画材店があります。
 文房堂は明治20年(1887)に神田区小川町で創業。当初は創業者池田治朗吉の遠縁にあたる丸善の創業者・早矢仕有的が経営していた書店の一部を借りてのスタートだったそうです。
 池田は福沢諭吉の門下生で、その影響により西洋美術(画材)や文具を輸入販売。その後、国産のオリジナル商品を取り扱うようになっていきます。
 現在の神田すずらん通りに店舗を新築したのは明治39年(1906)のことで、大正11年(1922)に改築。当時まだ珍しかった鉄筋造りの建物であったため、翌年発生した関東大震災でも倒壊を免れています。
 平成元年(1990)に千代田区より「都市景観賞」を受賞。同年建物は建替えられますが区の要請で特殊工法を用い外壁のみを保存し背面の建物を建て替えています。

文房堂
文房堂

文房堂入口
文房堂入口

都市景観賞のプレート
都市景観賞のプレート

千代田区神田神保町1-21-1

| 明治・大正時代 | 07:38 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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