烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2016年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年01月

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明治33年の中川亀三郎邸跡について

 以前、明治33年1月に発行された方円社の「囲碁段級人名録」に記載された中川亀三郎の住所について「東京市神田区五軒町2番地」と記載されていて、現在の文化芸術施設「アーツ千代田 3331」(練成中学校)のすぐ南側であることを紹介しましたが、今回改めて訪れて見ると、そこは「練成公園」として整備されていることが分かりました。前回は建物側から眺めていたので気づかなかったようです

練成中学校跡
練成中学校跡

練成公園
練成公園

練成公園
練成公園

練成公園 :  東京都千代田区外神田6-11-19

【関連記事】 明治33年の中川亀三郎邸跡へ行く

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| 方円社 | 07:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大沢銀次郎邸の跡

 湯島、外神田近辺には、明治時代に多くの棋士たちが住んでいました。明治33年に方円社が刊行した「囲碁段級人名録」によると、当時五段の大沢銀次郎と石井千治(二代目中川亀三郎)は「本郷区湯島三組町80番地」に住んでいたと記載があります。石井はもともと茨城県に住んでいましたので、東京に出て大沢邸で同居していたということでしょうか?
 大沢銀次郎は、9歳のときに病のため耳が不自由になり、しゃべる方にも影響にも影響していましたが、そんなハンディに負けず安井算知の門下に入り頭角を現すと、明治20年に安井家、方円社双方から五段の免状を受けています。

囲碁段級人名録(明治33年)
囲碁段級人名録(明治33年)

 大正元年の地図で場所を調べてみると湯島三組町は現在の湯島3丁目。屋敷があった番地は南東の端、五軒町との境界にあったようです。この町の境界は、現在そのまま湯島3丁目と外神田6丁目の境界となっていて場所を特定することが出来ました。

大沢銀次郎邸の住所
大沢銀次郎邸の住所

大沢銀次郎邸跡
大沢銀次郎邸跡

本郷区湯島三組町80番地(現:文京区湯島3丁目8−1、9−3、9−5)

| 方円社 | 09:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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本因坊秀栄邸跡 西黒門町

 以前紹介した湯島天神の近くにある本因坊秀栄が晩年を過ごした屋敷跡を久しぶりに訪れました。秀栄の支援者であった高田商会の高田槙蔵・民子夫妻より提供されたもので、高田邸もすぐ近くにありました。

高田槙蔵夫妻より提供された秀栄邸跡
高田槙蔵夫妻より提供された秀栄邸跡

 秀栄の支援者であった高田慎蔵の屋敷跡については、すでに紹介したと思っていたらまだのようでした。
 一代で高田財閥を作り上げた高田慎蔵は明治21年(1888)貿易商社「高田商会」を設立。機械輸入販売を手掛けた高田商会は日清・日露戦争で、海軍省御用となり軍需品を納め急成長しています。
 慎蔵の屋敷は、湯島三組町に明治33年に竣工。コンドルの設計で、写真は残っていないものの、設計図面によるとルネサンス様式で鉄骨造のベランダが特徴の洋館で、暖房設備も完備されていたそうです。
 高田慎蔵、民子夫妻は囲碁が趣味で秀栄を支援。高田邸では三段以上を参加資格とした研究会「四象会」が定例的に開かれています。ただ、102回続いた四象会は明治37年(1904)に突然終止符が打たれます。原因は秀栄の弟子の野沢竹朝が高田民子に暴言を吐いたためで、民子は秀栄に抗議しますが、秀栄は竹朝をかばい、以降高田の援助を断ったそうです。
 その高田邸があった場所を調べてみると、現在の東都文京病院敷地内であることが分かりました。2014年に設立された同病院の前身は日立製作所が昭和35年(1960)に創業50周年記念事業として開設された「小平記念東京日立病院」です。この場所は日立製作所創業者の小平浪平の屋敷跡だったそうですが、高田邸跡を買い取ったということなのでしょう。

高田邸跡
高田邸跡

 ところで、本因坊秀栄が高田慎蔵から屋敷を提供される前に住んでいた場所が西黒門町(上野1丁目)にあったことが分かり行ってみました。湯島天神町(湯島3丁目)の屋敷跡から200mほど離れた場所です。
 明治以降、方円社の勢いに押されていた坊門もこの時期、徐々に勢いを取り戻し、やがて秀栄は名人の道へと進むこととなるのです。 

西黒門町の地図
大正元年の西黒門町の地図

秀栄邸跡
秀栄邸跡

本因坊秀栄邸跡1 : 湯島天神町1丁目77( 現住所:湯島3丁目22-5 シルクマンション野口)
高田慎蔵邸跡 : 本郷湯島三組町五八(東京都文京区湯島3丁目5−7 東都文京病院)
本因坊秀栄邸跡2 : 下谷区上野西黒門町19(東京都台東区上野1丁目7)

【関連記事】
 本因坊秀栄の屋敷跡


| 本因坊家 | 09:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社発祥の地「相生亭」の場所について

 先日「囲碁史会」のメンバーと、都内で方円社の足跡をたどる機会があり、以前紹介した囲碁研究会「方円社」の発会の地「相生亭」があった神田区花田町の跡地を案内しました。
 村瀬秀甫(本因坊秀甫)や中川亀三郎らが中心となり設立された「方円社」には各家元の当主クラスも参加し、明治12年(1879)4月20日に「相生亭」にて発会式が行われますが、やがて実力第一主義で家元の格式を認めない運営方針に家元側が反発し5ヶ月後に脱退。方円社は秀甫を社長とする組織に再編され、以降、日本棋院設立まで囲碁界の一翼を担っていくこととなるのです。

 「相生亭」の詳細については不明ですが、花田町については以前の調査で、現在の秋葉原駅近くの千代田区外神田「ソフマップ秋葉原本店」から道路を挟んだ愛三ビルにかけてがその区域になることが判明しましたが、今回案内した一部のメンバーから、もっと南側ではという意見もあり、場所について再検証してみました。

 この辺りは時代とともに大きく変貌していますので、方円社の発会式が開かれた時期に近い地図を探し、明治16年の地図を入手しました。
 当時の地図を見ると、「花田町」は「鎮火社」のすぐ北側にあった事が分かります。その東隣りが「相生町」ですので、「相生亭」の名称はここから来ているのかもしれません。
 ちなみに、「鎮火社」は明治2年(1870)の大火を受けて設けられた火除地で、宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して「鎮火社」が創建されます。その火防の神・秋葉大権現から人々が火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、秋葉原の地名が誕生したそうです。
 また、「鎮火社」境内は、「花岡町」という地名でしたが、明治23年に上野駅より鉄道が延伸されて貨物駅として開発されます。この「秋葉原駅」が誕生した際に、「花田町」の南側の一部が「花岡町」に編入され「花田町」の区域は縮小しています。

明治期の花田町
明治16年当時の花田町

 地図を見ると、花田町の西側の道を南下すると「昌平橋」に至りますが、この「昌平橋」は現在の「万世橋」だそうです。
 さらに、花田町から西側に伸びて、湯島聖堂北側に至る道の形は、現在も変わっていないことが、現在の地図と照合してみると分かります。さらに、花田町という地名は残っていませんが、神田相生町という地名があり、花田町の隣りにあった「相生町」であると考えられることから、これらの位置関係を見ると、やはり花田町は千代田区外神田の「ソフマップ秋葉原本店」の辺りと考えるのが妥当と思われます。

花田町周辺
花田町周辺

現在の地図
現在の地図

現在の花田町
現在の花田町跡

旧東京神田・花田町跡(ソフマップ秋葉原本店付近 千代田区外神田4-1-1)

【関連記事】 囲碁界の新しい波「方円社」発祥の地は秋葉原

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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棋匠 吉田悦子の墓碑

 谷中霊園には、中川亀三郎を初めとする囲碁関係者の墓がいくつかありますが、その一画に幕末から明治にかけて活躍した本因坊門下の女流棋士、吉田悦子の墓碑がある事が分かり調査しました。
 吉田悦子については詳細は不明ですが、明治13年発行の「囲碁段付」(井上因碩著)において本因坊秀悦門下二段「吉田悦 女(尾張国)」の名を見る事が出来ます。大正6年に亡くなるまでに四段に昇段しているようです。

吉田家の墓所
吉田家の墓所

 吉田悦子は、嘉永五年に尾張国中島郡中島村で生まれ、幼い頃より囲碁が強く、その名が近隣の村々に知れ渡ります。
 大垣藩家老の戸田三彌に出合った際、良い師に就いて学ぶ必要があると説かれ、江戸へ出て、本因坊秀和の門人となると6年で二段に、その後、女性としては数少ない四段まで昇段しています。
 慶応3年、故郷に帰りますが、翌年、戸田三彌に従い大阪へ出ると、大久保利通ら諸公と出合い京都に同行。京では岩倉具視、西郷隆盛、後藤象二郎らとも出会って度々囲碁の対局を行ったそうです。
 吉田が大阪に出向いた慶応4年は、途中から明治に改元した年であり、吉田を見出した戸田三彌は、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍に属していた大垣藩を、新政府への恭順へと方針転換させています
 戸田は、吉田を同行させて、囲碁を通じて新政府要人と接触を図っていたのかもしれません。目まぐるしく変わる政局の合間に、大久保や西郷らは囲碁の対局をしながら情勢を探っていた事が窺えます。

吉田悦子の墓碑
吉田悦子の墓碑

碑に刻まれた本因坊秀和の名
碑に刻まれた本因坊秀和の名

 吉田は晩年、鎌倉に移り住み建長寺、円覚寺の僧侶と交遊しながら亡くなるまで囲碁や禅に勤しみ、風雅に暮らしていたそうです。
 墓碑は妹の妙子により建立され、当時の前円覚寺管長宮路宗海撰、現建長寺管長菅原時保書。
 碑を建立した妙子の墓が碑の隣りにありましたが、吉田悦子の墓はありませんでした。

囲碁段附(明治13)に2段で掲載
囲碁段附(明治13)に2段で掲載

谷中霊園甲9号15側

| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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津山藩歴代藩主の墓

 ペリー艦隊来航時に、米大統領国書の翻訳にあたり、「お玉ケ池種痘所」設立にも関わった蘭学者、箕作阮甫の出身である美作国津山藩(津山市)については、以前、谷中霊園にある11代将軍徳川家斉の十四男で、津山藩の第8代藩主となった松平斉民の墓を紹介したことがありますが、松平斉民の墓の脇にある新しい墓石が、歴代藩主のの墓である事が分かり、今回紹介させていただきます。
 墓石が新しかったため、前回気が付きませんでしたが、墓誌によると平成23年に墓域が整理され一つにまとめられたそうです。

松平家先祖代々の墓
松平家先祖代々の墓

 岡山県の山あいにある津山藩が立藩されたのは慶長8年(1603)のことで、最初の藩主は「本能寺の変」で亡くなった森蘭丸の兄である森忠政(森可成の六男)でした。
 元禄11年(1698)に森氏に代わって入ったのが、家康の次男である結城秀康を祖とする越前松平家宗家の松平宣富で、以後廃藩置県まで松平氏が津山藩を治めています。
 墓誌に刻また最初の名は三代・光長となっていますが、光長は初代藩主・松平宣富の養父で、結城秀康の孫にあたり、越後高田藩主でした。宣富は陸奥白河藩主松平直矩の三男で秀康のひ孫にあたり、光長の養子となっています。
 宣富の後を継いだ嫡男・松平浅五郎は僅か11歳で亡くなり嗣子が無かったため本来、御家断絶、改易となるはずでしたが、結城秀康の家系であることが考慮され、従兄弟の松平長煕(白河新田藩主・松平知清の三男)を末期養子として迎えることが特別にゆるされましたが、領地は10万石から5万石に半減、官位も冷遇されることとなります。津山藩が再び10万石に復活するのは、以前紹介した将軍家斉の14男松平斉民を第8代藩主として迎えた時です。
 墓誌には津山藩最後の藩主・松平慶倫の名もありました。慶倫は7代藩主松平斉孝の四男で、松平斉民の養子となっています。

墓誌に刻まれた歴代藩主の名
墓誌に刻まれた歴代藩主の名

東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地

【関連記事】 将軍後継候補だった津山藩主 松平斉民

| 江戸時代 | 07:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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箕作秋坪の墓 谷中霊園

 先日、多磨霊園にある幕末の蘭学者、箕作阮甫の墓を紹介しましたが、谷中霊園には、阮甫の婿養子で、幕末から明治時代にかけて蘭学者、教育者として活躍した箕作秋坪の墓があります。

箕作家の墓所
箕作家の墓所

 箕作秋坪は、備中国(岡山県)の儒者菊池文理の次男として生まれ、江戸に出て箕作阮甫の門人になり、さらに緒方洪庵の適塾に入門しています。その後、阮甫の養子となり、幕府天文台で翻訳に従事、蕃書調所の教授手伝となります。
 文久元年(1861)幕府による文久遣欧使節に福沢諭吉らとともに加わりヨーロッパを視察、また、慶応2年(1866)には国境交渉の使節としてロシアへ派遣されるなど、幕末の外交交渉に活躍しています。
 明治維新後は東京に福沢諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾「三叉学舎」を開き、東郷平八郎、原敬らを輩出。明六社にも参加するなど啓蒙思想家としても活躍しています。

箕作秋坪の墓
箕作秋坪の墓

 箕作秋坪の墓の隣りには、次男の菊池大麓の墓があります。大麓は秋坪の実家である菊池家を継いでいます。
 菊池大麓は蕃書調所で英語を学び、慶応3年(1867)と明治3年(1870)の2度、イギリスへ留学し、ケンブリッジ大学で数学と物理学を学び学位を取得します。
 明治10年(1877)には東京大学理学部教授となり、その後、東京大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任。明治35年(1902)に男爵を授爵されます。
 一方、政治家としても活躍し、明治23年(1890)に貴族院勅選議員に勅任され、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣で文部次官に就任。明治34年(1901)には第1次桂内閣で文部大臣を拝命しています。

菊池大麓の墓
菊池大麓の墓

谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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武蔵の里の施設

 宮本武蔵生家跡から1kmほど離れたところに、智頭急行智頭鉄道「宮本武蔵駅」があります。全国的にも珍しい人名の駅です。
 駅前には幼少時代の武蔵・お通・又八の三体像がありました。

宮本武蔵駅
宮本武蔵駅

駅前の像
駅前の像

 「宮本武蔵顕彰武蔵武道館」は、「武蔵の里」のシンボルとして建てられ、剣道の試合などが行われています。
 建物の独特のデザインは、武蔵が作った刀の鍔「海鼠透鍔(なまこすかしつば)をモチーフとしていて景観との調和を図っています。

宮本武蔵顕彰武蔵武道館
宮本武蔵顕彰武蔵武道館

 宮本武蔵生家跡から3kmほど離れた、因幡街道(県道5号線)の吉野川に架かる「淀橋」に宮本武蔵像があります。剣の道を究め、剣聖と呼ばれた晩年の姿の像です。

淀橋
淀橋

宮本武蔵像
宮本武蔵像

宮本武蔵駅 : 岡山県美作市今岡
宮本武蔵顕彰武蔵武道館 : 岡山県美作市今岡754−1
宮本武蔵像 : 岡山県美作市下庄町 因幡街道(県道5号線)の吉野川に架かる「淀橋」

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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竹山城跡

  宮本武蔵の父、平田無二が家老として仕えた新免氏の居城、竹山城の城跡へ行ってみました。標高430mの山頂にあり登山道が整備されていますが、電波塔もあり、細くて急な道ですが車で行くこともできます。

竹山城跡
竹山城跡(山頂)

登山道入口
登山道入口

看板
看板

 竹山城の築城時期は不明ですが、南北朝時代に山名時氏が美作に侵攻した際に攻略し、支配下に置いたという記録があります。しかし、応仁元年(1467)に勃発した「応仁の乱」(山名宗全が西軍総大将)の混乱に乗じ、赤松政則が美作に侵攻、竹山城を赤松氏の一族宇野入道が拠点としています。
 その後、明応2年(1493)に同族の新免貞重が竹山城に入城し、その支配下に置かれていましたが、天文年間に、出雲の尼子氏が備中・美作に侵入し、激しい攻防の末、新免氏は領地を失ってしまいます。
 永禄3年(1560)、尼子晴久の死去により尼子氏が衰退すると、代わりに台頭してきた毛利勢や中国地方進出を狙う織田勢などにより激しい攻防戦が繰り広げられていますが、当時の当主、 新免宗貫は、羽柴秀吉に協力した宇喜多直家に仕え領地を奪回。武蔵の父、平田無二が家老として仕えていたのはこの頃でしょうか。
 その後、豊臣政権では宇喜多秀家に従い朝鮮出兵に出陣するなど活躍した新免氏ですが、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦」で宇喜多氏は西軍に与したため改易となり、新免氏も所領を没収。その後、新免氏は福岡黒田藩に迎えられ、黒田藩の家臣として明治維新まで存続しています。

竹山城跡
竹山城跡

竹山城跡から眺める武蔵の里
竹山城跡から眺める武蔵の里

岡山県美作市下町

| 戦国時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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武蔵ゆかりの人物の墓

 武蔵神社前から山の方に向かって行く道は、江戸時代には鳥取藩池田公が参勤交代のために通った旧因幡街道で、ずっと進んでいくと現在も舗装されていない「釜坂峠」があります。(行っていませんが。)

因州街道
因州街道

 旧因幡街道で武蔵神社を更に進んでいくと、道の脇に「森岩彦兵衛の墓」という石碑があります。そこから山へ少し上がると彦兵衛の墓があります。
 森岩彦兵衛は、宮本武蔵の竹馬の友で武者修行へ旅立つ武蔵を「釜坂峠」まで見送り別れを惜しんだと言われています。

森脇彦兵衛の墓の説明板
森脇彦兵衛の墓の説明板

森脇彦兵衛の墓
森脇彦兵衛の墓

 旧因幡街道沿いの森岩彦兵衛の墓を通り過ぎ、しばらく行った所に「本位田外記之助の墓」の碑があります。そこを上がった所に本位田外記之助という人物の墓があります。
 吉川英治の小説「宮本武蔵」の登場人物に、幼馴染のお通と本位田又八がいますが両者とも架空の人物です。しかし、本位田家は実在の一族であり吉川英治は、それをヒントに又八を創作したのでしょう。

本位田外記之助の墓の入口
本位田外記之助の墓の入口

 美作国竹山城主新免伊賀守の次席家老で小房城を預かっていた本位田外記は、同じ家老で武蔵の父親である平田無二の槍術の弟子でもありました。
 天正年間、中国地方進出を狙う織田軍は、羽柴秀吉が交渉し新免氏と友好関係を結んでいますが、人質交換などで新免氏側の交渉相手が本位田外記だったそうです。
 しかし、竹山城主新免伊賀守は、外記がやがて謀反を起こすのではないかと疑い、平田無二に上意討ちを命じます。無二は再三にわたり辞退しますが主命には逆らえず、ついに本位田外記を討ち果たしています。平田無二は外記を丁重に葬りますが上意討ちであったため墓石には文字が刻まれなかったそうです。

本位田外記之助の墓の説明板
本位田外記之助の墓の説明板

 ところで、吉川英治が「宮本武蔵」の連載を始めたとき、本位田家の末裔の東京帝国大学教授・本位田祥男氏が学生たちに又八とあだ名されたことから、「自分の先祖に又八という人物などいない」と新聞に投書し、これに対し吉川英治が「小説と史実を混同しないでほしい」と反論するなど論争が巻き起こっています。歴史物の小説やドラマで子孫の方がクレームをつけることは現在でもよくある事だそうです

本位田外記之助の墓
本位田外記之助の墓

岡山県美作市宮本

| 戦国時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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