烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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大中寺 沼津

 静岡県沼津市にある臨済宗妙心寺派の寺院、大中寺は鎌倉時代末期の正和2年(1313)の創建で、禅寺としては珍しく、不動明王を本尊としています。それは、大中寺創建以前にこの地にあった真言宗の寺院の名残ではないかとも考えられています。
 愛鷹山の裾野に位置する大中寺は、ほとんど自然のままの森に覆われた寺院で、特に梅の名所として知られています。

 大中寺の山門は、天保12年(1841)に建立されたものといわれ、木造、瓦葺、入母屋造りの2層の楼門で、上層は鐘楼となっています。

山門
山門

 大中寺の建物の中は観光客には一般公開されていませんが、今回アポなしでしたが、ご住職に無理をいって見学させていただきました。急な話にもかかわらず、対応していただきありがとうございました。

本堂
本堂

仏足
仏足

 大中寺は、皇室とゆかり深い寺院として知られています。沼津には、かつて沼津御用邸があった関係で度々、皇室の方々が大中寺にも訪問されたそうです。明治30年(1897)に皇太子時代の大正天皇がはじめて立寄られた他、昭憲皇太后、貞明皇后、昭和天皇が複数回訪問され、その皇室の方々のために梅園が整備されています。
 境内にある「恩香殿」は、皇室の方々の休憩所として明治42年(1909)に建立、一部にアール・ヌーボーの特徴が残る、貴重な明治期の木造建築物として登録有形文化財に指定されています。

恩香殿
恩香殿と通玄橋

皇室が使われた部屋
皇室が使われた部屋

 恩香殿の中には徳川慶喜の後に徳川宗家を継いだ徳川家達の書がありました。

徳川家達の書
徳川家達の書

静岡県沼津市中沢田457
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白隠禅師誕生地

 「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と歌われた臨済宗中興の祖、白隠禅師が住職を務めた「松陰寺」の近くに「白隠禅師誕生地」の碑が建立されています。
 白隠禅師は貞享2年(1686) 、原宿の長澤家の三男として生まれます。
 15才の時に松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として出家。19才から32才まで修行のため全国を巡り、33才で松蔭寺住職となると84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めています。
 碑のある場所は、旧東海道沿いに位置し、母の生家・味噌屋(みそや)があった場所で、後に父親が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗ったそうです。現地には禅師が生まれた時に使用したという「産湯の井戸」が残されていました。

白隠禅師誕生地の碑
白隠禅師誕生地の碑

説明プレート
説明プレート

白隠禅師誕生地
白隠禅師誕生地

産湯の井戸
産湯の井戸

静岡県沼津市原909-2

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白隠禅師の墓 松陰寺

 沼津市原にある「松陰寺」は、鎌倉時代中期の弘安2年(1279)に創建。一時、衰退しますが、江戸時代前期に大瑞宗育により中興されます。松陰寺は、臨済宗中興の祖である白隠禅師が住職を務めた寺として知られています。

松陰寺参道
松陰寺参道

参道脇の石蔵
参道脇の石蔵

 松陰寺に着いたのは夕方で、門前にある仏壇店のご主人が店じまいをしておられましたが、私たちを見かけ、松陰寺について色々説明して下さいました。
 山門の瓦は石で出来ていて、その数は煩悩と同じ108枚あるそうです。

石瓦の山門
石瓦の山門

 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」といわれた白隠慧鶴は、元禄12年(1699)に松蔭寺で得度すると諸国を行脚し修行。享保2年(1717)に帰郷して松蔭寺住職となると、富士山宝永大噴火で荒廃した寺の復興を図ります。
 白隠禅師は禅の民衆化・革新に尽力し松蔭寺には多くの門弟が集ったと伝えられています。白隠禅師の活躍で当時衰退していた臨済宗は勢いを取り戻したことから、白隠は「中興の祖」と呼ばれています。
 白隠禅師は、明和5年(1768)に松蔭寺にて亡くなり葬られています。

松陰寺本堂
松陰寺本堂

 白隠禅師は、禅を広く民衆に広めるため、その教えを表した絵や書が多く残されています。その独特の表現法は現在でも高く評価されています。
 白隠禅師は囲碁の愛好家だったそうで、囲碁を打つ自画像も描かれています。「囲碁をする白隠自画像」では碁盤に線がなく、碁石も持っていません。見えない碁石で、見えない線に碁を打つ姿は、禅の教えを表現しているのでしょうか。

白隠禅師の墓
白隠禅師の墓

 白隠禅師の墓の近くに「白隠禅師塔所」と刻まれた巨大な碑が建立されています。本堂から背を向ける形で立っていますが、これは墓所に接している東海道本線の電車の窓から見えるように配置されたもので、白隠禅師の墓がここにある事を広く知らせるために、真珠王として知られる御木本幸吉が寄贈したものと伝えられています。

「白隠禅師塔所」の碑
「白隠禅師塔所」の碑

静岡県沼津市原128番地

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久能山東照宮 家康公の神廟

 久能山東照宮の社殿の脇を抜けると、家康公が葬られていた御神廟へとつづく参道があります。参道の両脇には家康公に仕えた大名たちが奉納した石灯籠が据えられています。

神廟へと続く参道
神廟へと続く参道

 「神廟」は徳川家康公の遺骸が埋葬された場所に立つ廟で、当初は小さな祠だったそうですが、その後、三代将軍徳川家光公により現在の石塔が建てられたそうです。家康公の遺命により、西国ににらみをきかすため西向きに建てられています。

神廟
神廟

神廟
神廟

 神廟のすぐ近くには、家康公愛馬の墓もありました。

家康公愛馬の墓
家康公愛馬の墓

静岡県静岡市駿河区根古屋390

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久能山東照宮2

 久能東照宮の唐門は元和3年(1617)に建てられたもので、社殿の前に繋がり極彩色の漆塗りが施されています。
 青色の塗りが特徴ですが、この色は「ラピスラズリ(瑠璃色)」と言い、薬師如来の放つ光の色と言われています。
 唐門は国の重要文化財に指定されています。

唐門
唐門

 久能山東照宮の社殿は、本殿・石ノ間・拝殿で構成された「権現造」で、元和3年(1617)の落成。家康公が亡くなってから1年7ヶ月という短期間で建てられた社殿は、その後建造される日光東照宮を始めとする全国の東照宮の原型とされています。
 江戸時代初期の最高の建築技術・芸術が結集した社殿は、国宝に指定されています。

拝殿
拝殿

唐門前にある唐銅燈籠は唐門の附属として、一緒に重要文化財に指定されています。

 唐門前の唐銅燈籠

唐門前の唐銅燈籠
唐門前の唐銅燈籠

 境内にある「日枝神社」は、元は薬師如来像を安置した薬師堂でしたが、明治時代に神仏分離令で仏像を移し、山中にあった山王社の御神体を納めたと伝えられています。

日枝神社
日枝神社

 境内に家康公の手形が展示されていました。家康公は身長155cm、体重60kgだったそうです。

家康公の手形
家康公の手形

 静岡には玩具メーカー「バンダイ」の工場があり、そこで「ガンダムシリーズ」のプラモデル(ガンプラ)が製造されています。
 平成22年に開催された「静岡ホビーフェア」では、等身大のガンダムが展示されるなど話題を呼びましたが、この時、久能山東照宮に奉納されたのが、家康公の鎧をモチーフとした特別仕様のガンプラです。
 一つは家康公が初陣で着用したと言われる「金陀美具足」をモチーフとした「武者ガンダム」。もう一つは関ヶ原の戦いで着用したと言われる「歯朶具足」をモチーフとしたSDガンダムです。

奉納された徳川家康公型ガンダム
奉納された徳川家康公型ガンダム

静岡県静岡市駿河区根古屋390

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久能山東照宮1

 静岡市駿河区根古屋、久能山の山頂にある「久能山東照宮」は、晩年を駿府で過ごした徳川家康公が元和2年(1616)に亡くなった後、遺命により、最初に埋葬された場所です。
 久能山(標高216m)には、もともと久能寺という寺院がありましたが、永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄により、この地に久能城が築かれます。その後、駿河を支配下に治めた徳川家康公も、久能城を重要視していて、死後、西国ににらみをきかすために自らを祀らせたと考えられています。
 家康公の遺命は久能山への埋葬と日光山への神社造営であり、2代将軍・秀忠公は家康公を葬った久能山に東照社(現・久能山東照宮)の社殿を造営するのとほぼ同時に東照社(現・日光東照宮)の造営を始めています。やがて、家康公の遺骸は日光へ改葬され、東照社は3代将軍・家光公による大改築で、現在のような豪華絢爛な建物となります。当時、家光公は久能山の整備も命じ、この時に社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、楼門などが増築されています。
本殿、石の間、拝殿は平成22年(2010年)に、国宝に指定されています。

楼門
楼門

 勅額御門とも呼ばれている楼門には、後水尾天皇の宸筆である「東照大権現」の扁額が掲げられています。

後水尾天皇による扁額
後水尾天皇による扁額

 楼門から唐門にかけての境内には、かつて久能山東照宮のシンボルとも言える五重塔がありましたが、明治時代の神仏分離令を受けて取壊され、現在、礎石のみが残されています。

境内
境内

葵の御紋の水桶
葵の御紋の水桶

 「鼓楼」はもともと鐘を突く鐘楼でしたが、明治時代の神仏分離により仏教施設である釣鐘が撤去され、中身が太鼓へと替えられました。「鼓楼」の太鼓は江戸城にあったものを奉納したと伝えられています。

鼓楼
鼓楼

静岡県静岡市駿河区根古屋390

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日本平ロープウェイ

 静岡に来たら、ここは外せないと「久能山東照宮」へと向かいました。東照宮は久能山にありますが、お参りするには海側(南側)の山下から1159段の石段を約20分かけて登る方法と、北側の「日本平ロープウェイ」を利用する方法がありますが、今回はロープウェイを利用しました。

日本平ロープウェイのりば
日本平ロープウェイのりば

 日本平ロープウェイは、静岡鉄道が運営するロープウェイで、静岡市清水区草薙の日本平山頂の西側にある日本平駅と、駿河区根古屋の久能山山上の久能山駅との間、約1kmを5分で結んでいます。

前方に見える久能山
前方に見える久能山

 日本平ロープウェイでは、殿様の駕籠をイメージした「あおい号」と、お姫様の駕籠をイメージした「たちばな号」が、交互に行き来しています。
 駕籠のラッピングのロープウェイは開業時から5代目のデザインで、平成2年より運行してます。あおい葵の御門が分かれてドアが開き中に入りますが、江戸時代なら「将軍家の家紋を割るとは何事か!!」と言われるなと考えてしまいました。

ロープウェイ
ロープウェイ

ロープウェイ内部天井
ロープウェイ内部天井

久能山駅
久能山駅

久能山
久能山

日本平駅 : 静岡県静岡市清水区草薙597−8(日本平山頂)
久能山駅 : 静岡県静岡市駿河区根古屋

| 旅行記 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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昨日の鳥取県の地震について

 昨日、鳥取県中部を震源に、震度6弱の大きな地震がありました。
 被災した倉吉市については、以前ブログで紹介した事がありますが、今回、知り合いから現地の様子がメールで送られてきました。
 窓ガラスが割れ、被災した「倉吉市役所」の庁舎が度々テレビに登場していましたが、この建物は「東京都庁」やお台場の「フジテレビ」を設計した故・丹下健三氏の初期の作品で、傾斜地を利用して全体を低く見せながら、日本の伝統的表現をコンクリート造で表現した作品だそうです。1957年に日本建築学会賞を受賞しています

倉吉市役所
倉吉市役所

 本日、早朝より、市役所駐車場でブルーシートが市民に配布され、多くの人々が集まっていたとのことです。

集まった市民
集まった市民

 分かりにくいですが、前方突き当りの家は屋根瓦が崩れています。

市内の様子
市内の様子

 市内には屋根の瓦が崩れた家が多数あるそうです。

崩れた瓦
崩れた瓦

倉吉市役所 : 鳥取県倉吉市葵町722

【関連記事】
 打吹公園(倉吉市)
 
倉吉白壁土蔵群(国重要伝統的建造物群保存地区)

| 日記・エッセイ・コラム | 14:16 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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由比正雪の首塚 菩提樹院

 静岡市葵区沓谷にある臨済宗 妙心寺派の「菩提樹院」は、養老5年(721)に北側辺に創建された寺院で、後に駿河国分尼寺国分尼寺の法灯を受け継いだ後継寺院でもあったと伝えられています。
 寺伝によると、菩提樹院は武田氏の駿河侵攻で焼失。そして天正年間(1573~1592)に寺町(現在の常磐公園付近)に再建(駿府城築城のための移転という話も)されますが、昭和15年(1940)の大火で焼失し、現在地に再移転しています。

菩提樹院
菩提樹院

 菩提樹院の境内には「伝駿河国分寺の塔心礎」があります。
 石に刻まれた銘文によれば、明和8年(1771)に、当時の駿府城代武田越前守信村により三ノ丸の城代屋敷内にあった社の手水鉢として転用、奉納されたそうで、その際に、水溜めにするため円形の孔を現在の楕円形の大きさに拡げたそうです。
 昭和5年(1930)に、三ノ丸跡に建てられた日本赤十字社静岡支部の庭(現県総合福祉会館)で発見され、昭和28年に菩提樹院へ寄進されています。

駿河国分寺の塔心礎
駿河国分寺の塔心礎

 菩提樹院の境内に、由比正雪の首塚と伝わる五輪塔があります。
 由比正雪は慶長10年(1605)、駿河国由井(静岡市清水区由比)の紺屋の家に生まれ(諸説あり)、江戸で楠木正成の子孫を称する楠木正虎の子、楠木不伝に軍学を学び、その婿養子となると、軍学塾「張孔堂」を開き、3000人もの門弟に軍学を教えています。
 当時、多くの大名家が幕府により取り潰され、浪人の増大が大きな社会問題となっていましたが、正雪は、幕府の政策を批判し、慶安4年(1651)、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍となると、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に浪人を集め各地で挙兵し、幕府を転覆する計画を立てます。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃しています。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれています。
 斬首された正雪の首は安倍川の河原で、さらし首とされていましたが、縁者により密かに運び出され菩提樹院に葬ったと言われています。

由比正雪の首塚
由比正雪の首塚

 由比正雪の計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと言われていますが、後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立てて裏切ったという話もあります。

由比正雪像
由比正雪像

 首塚の脇には、正雪の辞世の句碑が建立されています。

 「秋はただ なれし世にさえもの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」

辞世の句碑
辞世の句碑

静岡県静岡市葵区沓谷1344−4

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西郷・山岡会見の地

 ペガサート静岡というショッピングビルの前に「西郷・山岡会見の地」の碑があります。
 慶応4年(1868)、江戸に向け駿府まで進軍してきた有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀、西郷隆盛 と、勝海舟の命を受けた幕臣の山岡鉄太郎 (鉄舟)の会見が、ここで行われたそうです。この場所は伝馬町の桐油合羽製造・度量衡販売業であった松崎屋源兵衛宅だったそうです。
 勝海舟は当初、この交渉を、徳川慶喜の信頼厚い高橋泥舟に依頼しますが、泥舟は慶喜の側を離れる訳にはいかず辞退。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦したそうです。
 この会見で、将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡などが基本合意され、後の勝海舟と西郷隆盛との会談により正式決定。江戸城の無血開城が実現しています。

西郷・山岡会見の地
西郷・山岡会見の地

碑


説明プレート
説明プレート

静岡市葵区御幸町3番地の21

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