烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2016年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年10月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

浜松城 天守台と天守門

 徳川家康により築城された浜松城は、土造りの城で、石垣や瓦葺の建物は無かったと考えられています。
 石垣などを整備したのは、家康が江戸へ移った後、秀吉の命により二代目城主となった堀尾吉晴の時代で、天守閣が建造されたのもこの時だと考えられています。
 堀尾吉晴は豊臣政権では、五大老と五奉行との意見が合わないときに仲裁する三中老の一人で、息子の代も含めて浜松城に11年間在城。吉晴はその後、関ケ原の戦いで家康に協力した功績により出雲国富田への移封となり、昨年国宝へ指定された松江城を築城しています。
 なお、浜松城の天守台は江戸時代中期の絵図には描かれていません。江戸城と同じように火災で焼失した後、再建されなかったようです。
 現在の天守台は、残されていた石垣の上に昭和33年に再建されたもので、3重4階、鉄筋コンクリート造の模擬天守閣で、内部は資料館と展望台として整備されています。

天守台
天守台

 浜松城の天守台の特徴として、地下に井戸が掘られている点があげられます。籠城の際の水源であり、この時代の城にはよく造られていたそうで、堀尾が築城した現存する松江城にも地下に井戸が残されていました。

天守台の井戸
天守台の井戸

 天守門は天守曲輪の大手につくられた門で、浜松城を代表する建物でしたが明治6年(1873)に取り壊されます。
 平成21年(2009)からの発掘調査で見つかった礎石や、19世紀に描かれた絵図などをもとに、平成26年(2014)に復元され、一般公開されています。

天守門
天守門

静岡県浜松市中区元城町100−2
スポンサーサイト

| 戦国時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

出世城「浜松城」

 名古屋から浜松市へ移動しました。浜松市のシンボルとも言える浜松城は、
 元亀元年(1570)に徳川家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を岡崎城から遠江国曳馬にあった曳馬城に移します。そして曳馬城を拡張する形で築城されたのが浜松城です。
 家康が信玄に大敗した三方ケ原の戦いも浜松城の時代の話です。元亀3年(1573)、上洛を目指して侵攻する武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するように行軍。その挑発にのった家康は浜松城から打って出ますが、武田軍の巧妙な反撃に遭い敗走。家康は討ち死に寸前まで追い詰められましたが、ようやく浜松城まで逃げ帰ります。家康は全ての城門を開いて武田軍に警戒心を抱かせ難を逃れたといいます。
 家康が浜松城に居たのは29歳から45歳までの17年間。その後、武田の滅亡にともない拠点は駿府城へ移された後、豊臣秀吉により家康は関東へ移封となり江戸へ拠点を移しています。

浜松城公園案内図
浜松城公園案内図

 江戸時代、浜松城には譜代大名各家が次々に入り、その多くが後に老中など幕府の要職を歴任。そのため浜松城は「出世城」と呼ばれています。天保の改革で知られる水野忠邦も城主を務めています。

浜松城(復元)
浜松城(復元)

若き日の徳川家康公
若き日の徳川家康公

 浜松城の城跡は、現在「浜松城公園」として整備され、天守閣は鉄筋コンクリート造りで復元されています。
 また、城の石垣は戦国時代の特徴をよく表す自然石をくみあわして組み合わせて造る野面積です。

野面積みの石垣
野面積みの石垣

野面積みの説明板
野面積みの説明板

静岡県浜松市中区元城町100−2

| 戦国時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

徳川家康の八男・松平仙千代の墓

 名古屋市の平和公園には、以前紹介した徳川宗春のように歴史上有名な人物の墓もあります。
 今回お参りしたのは、徳川家康の八男・松平仙千代のお墓です。仙千代は、文禄4年(1595) 伏見で生まれ、4歳まで伏見で暮らしています。徳川十六神将の一人、平岩親吉に嗣子がいないことを憂慮した家康は仙千代を親吉の養嗣子としますが、僅か6歳で亡くなっています。平岩親吉はその後、仙千代の同母弟である尾張徳川家始祖徳川義直の御附家老となったため名古屋に墓が建立されているのです。

松平仙千代の墓
松平仙千代の墓

愛知県名古屋市千種区平和公園 高岳院墓地

| 戦国時代 | 06:42 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

方円社初段 赤堀秀時。再訪問

 今回、久しぶりに名古屋市千種区の平和公園にある明治期の碁打ち、赤堀秀時の墓にもお参りしました。
 尾張藩士で、幕末は国事に奔走し、晩年は囲碁や俳句を楽しみながら余生を送ったと言われています。
 秀時の名は、方円社が明治27年に発行した「囲碁段級人名録」に、初段として記載されています。
 亡くなったのは明治39年(1906)で、墓石には「棋楽亭社中有志者建之」と刻まれていました。
 秀時の墓の隣りには、長男・秀堅の墓がありましたが、囲碁と関係あったかは分かりませんが、亡くなったのは明治31年で享年37歳。秀時より先に亡くなり墓は秀時が建立したと記されていました。

赤堀秀時の墓
赤堀秀時の墓

戒名は『秀林院響玉日時居士』
戒名は『秀林院響玉日時居士』

棋楽亭社中有志者建之
棋楽亭社中有志者建之

囲碁段級人名録(明治27年)・初段
囲碁段級人名録(明治27年)・初段

秀時の長男、秀堅の墓
秀時の長男、秀堅の墓

愛知県名古屋市千種区平和公園 長栄寺墓地

【関連記事】 明治期の碁打ち 赤堀秀時

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

大林寺 伊藤子元の墓

 3年ぶりに、名古屋の大林寺にある伊藤子元の墓へお参りしました。
 本因坊烈元門下で、伊藤松和や加藤隆和など、後の世に名を残す棋士を育て上げた人物です。

大林寺山門
大林寺山門

 墓石にはヒビが見られますので、このままだと、お墓は良く管理されていますが、いずれ表面が剥離してしまうかもしれません。あちこち囲碁史に関わるお墓にお参りしていますが、あくまで子孫の方の所有物ですので、無縁墓となったり、先祖代々の墓として整理され、無くなってしまった事が良くあります。貴重な史跡を次世代につなげることの難しさを感じます。

伊藤子元の墓
伊藤子元の墓

ヒビが入った様子
ヒビが入った様子

 ところで、伊藤子元が眠る大林寺は、名古屋城築城の普請奉行を務め、その後、徳川家康により尾張藩の初代藩主・徳川義直を補佐する年寄となった瀧川忠征が、寛永5年(1628)に一族の菩提寺として建立した寺院です。
 墓所には、忠征を初めとする瀧川家一族の墓があります。

瀧川家一族の墓
瀧川家一族の墓

大林寺:愛知県名古屋市千種区城山町1-3

【関連記事】 伊藤子元の墓

| 本因坊家 | 11:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

久しぶりに稲垣兼太郎の碑へ

 囲碁史の取材で、久しぶりに名古屋を訪れました。
 まず、稲垣兼太郎の碑がある八事山興正寺に行きました。
約3年ぶりの訪問ですが、当時は境内で大改修工事を行っていましたが、今回行ってみると、五重塔の前に大仏が建立されていて、墓所へ向かう石段の脇にはエスカレーターが設置されていました。
 今後、本堂も建て替わるそうです。

興正寺参道
興正寺参道

新しく建立された大仏
新しく建立された大仏

整備された墓道
整備された墓道

稲垣兼太郎の碑
稲垣兼太郎の碑

秀甫の文字
秀甫の文字

【関連記事】
 八事山 興正寺
 稲垣兼太郎碑 興正寺

愛知県名古屋市昭和区八事本町78

| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

再び、浅野内匠頭終焉へ

 虎ノ門ヒルズから、いわゆるマッカーサー道路を歩いて、以前も紹介した忠臣蔵で有名な浅野内匠頭終焉の地の碑のところへ行きました。ここが浅野内匠頭が切腹した陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷があった場所だそうです。

マッカーサー通り
マッカーサー道路

浅野内匠頭終焉之地碑
浅野内匠頭終焉之地碑

 以前、訪問したときは気づかなかったのですが、碑の前には碁盤店がありました。

碁盤店
碁盤店

 マッカーサー道路とも呼ばれる環状2号線は虎ノ門ヒルズの地下を通る珍しい道路で、虎ノ門では道路完成に合わせて再開発が進められています。現在、東京オリンピックへ間に合わそうと築地から豊洲にかけての工事が進められていますが、道路建設に連動する築地市場の移転先である豊洲新市場において環境対策である盛土が一部行われていなかったことが発覚して道路建設がずれ込む可能性が出ています。

虎ノ門ヒルズ
虎ノ門ヒルズ

【関連記事】 浅野内匠頭終焉の地

東京都港区新橋4-31付近

| 江戸時代 | 07:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

再び方円社跡である虎ノ門ヒルズへ

 愛宕町の旧方円社跡に続いて、以前紹介した愛宕町の次の跡地である虎ノ門ヒルズへやってきました。
 明治43年(1910)に、現在、虎ノ門ヒルズが建っている芝区桜川町2番地に方円社は移転していますが、その二年後に巌埼健造は引退を発表。後任の四代目社長に二代目中川亀三郎(千治)が選ばれています。
 桜川町2番地は、けっこう広い範囲となるので、その中のどこに方円社があったかは特定できていません。

虎ノ門ヒルズ
虎ノ門ヒルズ

虎ノ門ヒルズ
虎ノ門ヒルズ

大正元年の地図
大正元年の地図。赤枠の中が桜川町2番地。

虎ノ門ヒルズのテラス
桜川町2番地であった虎ノ門ヒルズの北側のテラス

東京都港区虎ノ門1丁目26

【関連記事】
 方円社の会館跡が東京の新しいランドマークに
 虎ノ門ヒルズは方円社跡

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

明治40年前後の方円社跡

 明治以降、囲碁界の一翼を担ってきた方円社ですが、その場所は、度々変わっています。
 明治32年(1899)、巌埼健造が3代目社長に就任すると方円社は下谷区徒町(台東区)に移転しています。その場所は巌埼が社長に就任する以前から巌埼の住所として段級録に記載されている事から、元々巌埼の碁会所だったと考えられます。
 その後、明治39年(1906)に方円社は芝区愛宕町二丁目5番地に移転し、披露会が浜町の「日本橋倶楽部」で行われたと記録されています。
 愛宕町二丁目5番地は、現在の西新橋の愛宕神社前交差点の近く、慈恵大学西新橋キャンパスの北側に位置します。大正元年の地図を見てみると5番地は3区画に分かれていて、北側は学校でしたので、方円社は南側の2区画のどちらかにあったと思われます。現在の場所で言うと、「ParkCube愛宕山タワー」というマンションの角の交差点付近か、その東側、現在、慈恵大学西新橋キャンパスの再整備で、新病院と新大学2号館が建設されている場所にあたります。

愛宕町2丁目(大正元年)
愛宕町2丁目(大正元年) ピンクのエリアが5番地。

 明治39年(1906)の方円社移転の披露会当日に巌埼健造は八段に昇段。その約一月後には、本因坊秀栄が九段(名人)となっています。巌埼は秀栄に争碁を申し込みますが、秀栄は田村保寿を代理に立てると申し出たため苦笑して撤回したそうです。
 この場所に方円社があったのは4年ほどで、その間、引き続き巌埼が社長を務め方円社の運営は安定していました。しかし、本因坊家では明治40年に秀栄が亡くなり、跡目争いが発生。秀元が再襲名し、翌年本因坊秀哉が家督を継承するなど、囲碁界全体としては大きく時代が変わっていった時期でした。

愛宕神社前交差点
愛宕神社前交差点

方円社跡付近
方円社跡付近。白い塀は新病院と新大学2号館の建設現場です。

東京都港区西新橋3丁目18付近

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

栄閑院 杉田玄白の墓

 港区虎ノ門にある栄閑院には、江戸中期の蘭方医で、『解体新書』などで知られる杉田玄白の墓があります。
 玄白は通称で、いみな名は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁と名乗っています。若狭国小浜藩の藩医杉田甫仙の子として江戸の藩邸で生まれますが、難産であったため、そのとき母を失います。
 漢学を宮瀬竜門に、医学を幕府医官西玄哲に学んだ玄白は、宝暦2年(1752)に小浜藩医となり、宝暦7年(1757)には江戸日本橋で開業し、町医者となっています。
 その後、家督を継ぎ藩の奥医師となった玄白は、江戸参府のオランダ商館を通じ、オランダ医書『ターヘル・アナトミア』を入手。明和8年(1771)に、前野良沢、中川淳庵らと江戸の小塚原の刑場で処刑された罪人の遺体解剖を実見し、本の内容が正確である事を確認します。その後、同志とともに翻訳作業に取りかかり、安永3年(1774)『解体新書』5巻を刊行。日本の医学界に多大な影響を与えています。
 安永5年(1776)、「天真楼」と呼ばれる医学塾を開き、多くの門人を育てた玄白は、文化14年(1817)に85歳で亡くなっています。

栄閑院入口
栄閑院入口

本堂
本堂

杉田玄白の墓
杉田玄白の墓

 ところで、杉田玄白の墓がある「栄閑院」は、通称「猿寺」と呼ばれています。昔猿回しに扮した泥棒が逃げ込んできましたが、住職に諭され改心し、諸国行脚に旅立っていきます。その際、連れていた猿を寺で預かりましたが、猿が境内で芸を見せたりして人気者になったことが由来だそうです。境内には猿塚や猿の彫刻がありました。

猿塚
猿塚

猿の彫刻
猿の彫刻

港区虎ノ門3-10-10

【関連記事】 小塚原回向院(南千住回向院)

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。