烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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方円社解散の宴が開かれた『松泉閣』を再訪

 囲碁史の取材で久しぶりに五反田にあった料理旅館「松泉閣」の跡地を訪れました。
 明治以降、囲碁界をけん引してきた方円社が、関東大震災を契機に家元側と合流し「日本棋院」が設立される事となったため、大正13年(1924)4月22日に「松泉閣」にて元社長、中川亀三郎(二代目)ら23名が記念の宴を開いたそうです。
 なお、先日、ありし日の松泉閣の写真を手に入れました。松泉閣は大正時代に開業した料理旅館で、庭が自慢だったようで絵葉書が販売されています。

かつての松泉閣
かつての松泉閣

現在の松泉閣跡
現在の松泉閣跡

【関連記事】 方円社終焉の地は五反田

「松泉閣」跡地:品川区東五反田2丁目9 ブラウドタワー東五反田
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| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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勤皇の志士 谷干城の墓

 土佐藩士の谷干城は武市瑞山の影響で尊王攘夷運動に参加。慶応2年(1866)の長崎視察の際に後藤象二郎や坂本龍馬と交わり薩土討幕密盟にも関わったと言われています。
 谷は土佐藩の上士の身分でありながら、下士出身の坂本龍馬を尊敬していたと言われ、慶応3年(1867)に龍馬が暗殺され際に、真っ先に駆けつけ、まだ息のあった中岡慎太郎から経緯を聞きだしたと言われています。谷は暗殺犯は新選組ではないかと考えていたため戊辰戦争の際に新撰組局長・近藤勇が捕えられると反対意見も多い中、谷の主張により斬首刑が執行されています。
 戊辰戦争では大軍監として東北に転戦した谷は、陸軍に入り、明治,6~8年には熊本鎮台司令長官として佐賀の乱の鎮定に当たっています。台湾出兵の際には台湾蕃地事務参謀として西郷従道を補佐。帰国後、熊本鎮台司令長官に再任され西南戦争(1877)で熊本城に籠城し城を死守します。西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長などを歴任した谷ですが,薩長専制を批判し、次第に陸軍反主流派としての立場を強めていきます。明治18年第1次伊藤博文内閣では農商務大臣に就任していますが、内閣の欧化政策を批判し、井上馨外相が進める不平等条約改正の内容にも反対して大臣を辞職。その後、貴族院議員となり土佐派の重鎮として地租増徴への反対や、日露戦争開戦に反対するなど活躍しています。
 谷干城は明治44年(1911)に75歳で亡くなり、谷中霊園に葬られています。

谷干城の墓

谷中霊園 乙9号11側

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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浅田飴を処方した浅田宗伯の墓

 のど飴の代名詞とも言える「浅田飴」は株式会社浅田飴が発売する、のど薬ですが、その歴史は古く、創業者の堀内伊三郎が明治20年(1887) に水飴タイプを発売した事に始まります。
 薬は幕末から明治にかけて活躍した漢方医、浅田宗伯が処方したもので、堀内は浅田のもとで働いていた人物だったそうです。
 浅田宗伯は、現在の長野県松本市出身で、医学の道を志し京都や江戸で漢方医学を学ぶ一方、頼山陽らから経書・儒学・歴史学等を学んでいます。また、大坂では大塩平八郎の門人となり陽明学を学んでいたそうです。
 幕医・本康宗円の知遇を得て頭角を現した宗伯は将軍家の典医となり、天璋院が徳川慶喜の助命を求めた書状を西郷隆盛に届けるなど活躍。維新後には宮内省侍医医師となり政府の漢方廃止政策に反対し、漢方保存に尽力するなど活躍しています。
 宗伯の墓は谷中霊園にあります。

浅田宗伯の墓
浅田宗伯の墓

谷中霊園 乙 8号 10側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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初代式守伊之助の墓

 式守伊之助は大相撲の立行司の名跡で、木村庄之助に次ぐ2番目の地位にあたります。当代は40代ですが、その初代の墓が谷中霊園にあります。
 初代式守伊之助は、現在の静岡県賀茂郡南伊豆町出身で、初代伊勢ノ海の門人。明和4年(1767)より式守伊之助を名乗り、安永3年(1774)にはNo2の地位に就いています。寛政5年(1793)には現役を退き、式守蝸牛を名乗ったことから谷中霊園には「蝸牛墓」と刻まれています。

初代式守伊之助の墓
初代式守伊之助の墓

 全くの余談ですが、初代式守伊之助の墓の裏にあった墓の文字は勝海舟の書とあり、興味を惹かれ調べてみました。
 墓石に刻まれた 「増田数之助」という人物については幕末に活躍した川口の鋳物師・増田安次郎の実弟にその名を見ることが出来ます。増田兄弟は後に砲術奉行となる高島秋帆と協力して、日本では製造不可能と言われていた18ポンドカノン砲を完成。全国各地に配備されます。パリのアンバリッド軍事博物館には下関戦争勝利により英仏軍が戦利品として持ち去った長州藩の大砲が展示されていますが、その大砲にも「増田安次郎」の銘があるそうです。

勝海舟書の墓
勝海舟書の墓

初代式守伊之助の墓 : 谷中霊園 乙8号5側

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第31代横綱 常の花出(羽海秀光)

 第31代横綱常ノ花寛市(本名:山野辺 寛一)、後の第2代日本相撲協会理事長、7代出羽海秀光の墓も谷中霊園にあります。
 常ノ花寛市は、岡山県出身で出羽ノ海部屋に入門し明治43年(1910 )に初土俵。軽量であり当初はあまり期待されていませんでしたが厳しい稽古を繰り返し、大正9年(1920)に大関に昇進。その後、当時は横綱が複数いたため十分な実績にも関わらず横綱昇進が見送られ苦労しましたが大正13年(1924)に、ついに第31代横綱となり、大関時代も含め幕内最高優勝10回の実績を残しています。なお、前回紹介した同門の先輩横綱栃木山守也が大正14年(1925)に3連覇を果たしながら翌場所直前に突然引退したのは、優勝しながら常の花が正横綱のままで栃木山が張出に据え置かれた事への反発とも言われています。
 昭和5年(1930)に常の花は突然引退を発表し年寄・藤島を襲名。昭和7年(1932)に協会改革を訴え発生した春秋園事件では、協会の使者として力士側との折衝にあたり、事件収拾に尽力。その後、事件の引責辞任で協会幹部が退くと、春日野・立浪・錦島と共に取締に就任しています。
 昭和19年(1944)には元力士としては初の相撲協会理事長に就任。後に出羽海を襲名し部屋を継承しています。
 蔵前国技館建設など、戦後の大相撲復興の基盤を築いた出羽海ですが、昭和32年(1957)に国会で日本相撲協会の在り方が追及され、その対応に神経をすり減らしたのか自殺未遂を起こして理事長を退任します。
 この後も協会で隠然たる影響力を保ちながら部屋の力士の育成に力を注いでいた出羽海でしたが、昭和35年(1960)九州場所(11月場所)千秋楽翌日に滞在していた旅館で胃潰瘍のため急死しています。
 谷中霊園の墓に刻まれた戒名には、「国技院釈常花居士」と刻まれています。

常の花の墓
常の花の墓

出羽海秀光之碑
出羽海秀光之碑

谷中霊園乙13号右4側

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第27代横綱 栃木山の墓

 大相撲の名門、春日野部屋は出羽海一門の相撲部屋で、大正14年(1925)に現役を引退した出羽海部屋所属の第27代横綱・栃木山が、自身の養父である行司・木村宗四郎が所有していた年寄名跡を継承し、8代春日野を襲名して創設されています。当時出羽海部屋では「分家独立を許さず」の不文律がありましたが、栃木山を評価していた師匠の出羽海が例外的に許可したものだったそうです。

栃木山の墓
栃木山の墓

 栃木山守也は栃木県出身で、石を人力トロッコで運ぶ仕事に従事していた事から強健な体を手に入れたと言われています。
 明治44年(1911)に序ノ口で初土俵を踏むと連勝を重ね、大正4年(1915)に初入幕。大正6年(1917)5月場所で大関に昇進すると、大正7年(1918)5月場所の横綱昇進を挟み5連覇を達成しています。
 しかし、大正14年(1925)に3連覇を果たした翌場所直前に突然引退を発表。鮮やかな引き際は現在でも横綱のあるべき姿としてよく例に挙げられています。
 春日野部屋創立当初は、弟子が育たず苦労しますが、後に横綱栃錦を育て上げています。
 還暦の際に赤い綱を締めて土俵入りをしたのは春日野親方が初めてで、露払いに藤島、太刀持ちに現役横綱・羽黒山政司を従えていたそうです。昭和34年(1959)に67歳で亡くなると、政府より相撲界初となる勲四等瑞宝章が追贈されたそうです。

春日野剛史之碑
春日野剛史之碑

谷中霊園甲4号7側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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本居宣長の(義理の)子孫 本居豊穎、本居長世

 江戸時代後期の国学者で、「古事記伝」などを著した本居宣長は、実子の本居春庭が失明したために家督を養子の本居大平に譲ります。
 ただ、春庭も国学者、国語学者として活躍し、本居家は二つの家系に分かれています。
 本居宣長に家督を譲られた大平は、宣長が一時、紀州家に仕えていた事もあり紀州徳川家に仕える事となります。本居大平は実子が相次いで早世したため本居内遠を養子として迎えます。
 本居内遠の息子で宣長から四代目の当主、本居豊穎は紀州藩の藩学古学館の教授を務めた後、明治維新後は国学者として東京帝国大学・国学院・東京女子高等師範学校などの講師として活躍。皇太子(大正天皇)の東宮侍講も勤め、明治42年(1909)に文学博士号が授与されています。大正2年(1913)に脳溢血で亡くなり谷中霊園に葬られています。

本居豊穎の墓
本居豊穎の墓

 谷中霊園にある本居豊穎の墓の脇にある「本居家之墓」に豊穎の孫で、六代目当主の本居長世の名が刻まれています。
 長世は祖父に育てられたものの国学者の道は選ばず、音楽家を志し、明治41年(1908)に東京音楽学校本科を首席で卒業。同校でピアノ科助教授などを務める一方、宮城道雄らと共に新日本音楽運動に参加し、洋楽と邦楽の融合を模索します。
 当時、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、「童謡」という新しいジャンルが確立され、長世も斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』などに作品を発表。野口雨情等と組んで、『七つの子』『青い眼の人形』『赤い靴』など、現在でも歌い継がれている名局を世に送り出しています。

本居家之墓
本居家之墓

 「本居家之墓」には本居長世以外に詩人の菱山修三の名も刻まれています。修三は長世の娘婿で本名は本居雷章。フランスの詩人ヴァレリーの影響をうけ,昭和6年に第1詩集「懸崖(けんがい)」を刊行。「ヴァレリー全詩集」などの翻訳なども手掛けています。

本居長世、菱山修三の名
本居長世、菱山修三の名

谷中霊園乙10号左4側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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清水組歴代社長

 谷中霊園にスーパーゼネコンの一つ、清水建設の前身である「清水組」2代目社長・二代清水喜助、3代目社長・初代清水満之助の墓所と、別の場所に5代目社長・清水釘吉の墓があります。
 清水組は文化元年(1804)に越中富山の大工であった初代清水喜助が「清水屋」として江戸の神田で創業。焼失した江戸城西の丸の再建工事に参加したのが縁で彦根藩などの御用達となり名字帯刀を許されます。そして横浜の外国奉行所建設を請負い洋風建築技術を習得していきます。
 二代喜助は初代の弟子で、後にその娘婿となります。初代と共に横浜で外国人技術者より設計技術を学んだ二代喜助は、初代の死後、会社を引き継ぎ、明治元年(1868)に、わが国初の本格的洋風ホテル「築地ホテル」、明治5年(1872)には「三井組ハウス」(第一国立銀行)など擬洋風建築を数多く手掛け、これらの建物は文明開化の象徴として多くの見物客で賑ったといいます。
 なお、二代喜助が飛躍するきっかけとなった「三井組ハウス」の建設をはじめ、清水組は越後屋三井家から多くの工事を受注していますが、その始まりは、以前に囲碁の奇才・中山善吉の碑がある、三井家が庇護していた三囲神社の内社殿を造営したからだそうです。二代喜助は三井家の紹介で「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とも親交を深めています。
 二代清水喜助の墓所には、正面に喜助と並んで、清水満之助と清水武治の墓があります。満之助は二代喜助の嗣養子で3代目社長となり、武治は喜助の婿養子です。二代喜助の時代、満之助は二代喜助も任された横浜店を受け持ち、武治は東京を管理。喜助が全体を総括していたそうです。
 二代喜助の死後、商才に優れた清水満之助が跡を継ぎ、武治は分家として東京の店舗を経営します。満之助は横浜の開発による経験から土木事業にも手を広げる一方、社内では賞与制度の導入や会計制度の改革など、経営の近代化に取り組みましたが社長となって僅か6年で病死。跡を継いだ息子の二代目満之助は、父の遺言により渋沢栄一を相談役に迎え指導を仰ぎます。渋沢は東京帝国大学から優秀な人材を斡旋するなど会社の発展に大きく貢献したそうで、二代目満之助は、その感謝の念から、以前紹介した飛鳥山の渋沢栄一の別邸に西洋式木造茶席「晩香廬」を寄贈しています。

清水家墓所
清水家墓所(右から二代清水喜助、清水武治、初代清水満之助)

二代目・清水喜之助の墓
二代目・清水喜之助の墓

 二代目満之助の墓は谷中霊園では確認出来ませんでしたが、別の場所に清水組5代目社長・清水釘吉の墓があります。釘吉は二代目満之助の娘婿で義父の経営を支え清水組継承後は合資会社清水組を設立し、後に株式会社としています。墓は確認出来ませんでしたが釘吉の長男、康雄は義父の二代目満之助の養子となり清水組の社長を継承しています。

五代目・清水釘吉の墓
五代目・清水釘吉の墓

 清水釘吉の墓所にある釘吉の顕彰碑は、清水家とも関わりが深い渋沢栄一の後継者で孫の渋沢恵三によるものです。

清水釘吉翁の碑
清水釘吉翁の碑

谷中霊園
 二代清水喜助・初代清水満之助 : 甲3号4側。
 清水釘吉 : 甲9号13側 

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三遊亭圓遊の墓所

 谷中霊園の話題に戻りますが、霊園内に明治時代の噺家、初代三遊亭圓遊の墓があります。小石川小日向の紺屋「藤屋」清五郎の長男で、本名竹内金太郎。17歳で家業を継いだものの病で2年後に引退。以前から興味持っていた芸事の道に進み、明治元年に二代目五明楼玉輔に入門。「雀家志う雀」としてして活躍します。24歳の時に三遊亭朝門に移り「圓遊」を襲名し、明治13年(1880)に真打に昇進すると、滑稽なステテコ踊りと明治の風俗を取り入れた古典の改作で人気を誇り、近代落語の祖の一人と称されます。
 なお、「圓遊」の名は、以前に金原亭馬生・三遊亭新朝が名乗り、正式には三代目に当たりますが、普通は竹内金太郎が初代と呼ばれ、当代は五代目となります。

三遊亭圓遊の墓所
三遊亭圓遊の墓所

三遊亭圓遊の墓
三遊亭圓遊の墓

 谷中霊園の初代三遊亭圓遊の墓は、竹内家と若柳家合同の墓所となっています。
 日本舞踊の流派のひとつ「若柳流」の二世家元である初代若柳吉蔵は三遊亭圓遊の息子です。本名は竹内幸太郎と言い、父の門下として「三遊亭小圓遊」を名乗り活動していましたが、若柳流の創始者・初代若柳壽童の門人となり舞踊家へ転じています。
 壽童の跡を継いだ吉蔵は、若柳流を日本全国規模の勢力に拡大し、現在では日本舞踊における5大流派のひとつとして数えられています。

若柳吉蔵の墓
初代若柳吉蔵の墓

三遊派の碑
三遊派の碑

谷中霊園(天王寺墓地) さくら通り沿いに道標があります。

| 明治・大正時代 | 09:01 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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森鴎外記念館

 団子坂の坂上に「文京区立森鴎外記念館」があります。記念館が建っている場所は、鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、鴎外は明治25年(1892)から、亡くなる大正11年(1922)までここで過ごしています。
 観潮楼は鴎外の没後、借家となっていましたが火災により焼失。昭和25年(1950)に記念公園として整備され、 昭和37年(1962)、鴎外生誕100年を記念して「鴎外記念室」を併設した「文京区立鴎外記念本郷図書館」が開設されています。その後、図書館の移転に伴い、建物を改築。展示資料を充実させて平成24年(2012)に「文京区立森鴎外記念館」として開館しています。

森鴎外記念館
森鴎外記念館

説明板
説明板

観潮楼 平面図
観潮楼 平面図

東京都文京区千駄木1-23-4

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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