烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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全生庵の墓

 台東区谷中五丁目にある全生庵には、山岡鉄舟や三遊亭円朝の墓以外にも多くの著名人の墓や碑があります。

 全生庵の境内にはいくつかの碑がありますが、その中の一つに中国の革命家、孫文の書による「山田良政君碑」があります。
 山田良政は、弘前市出身。上京して、中国語を学び、日清戦争では陸軍通訳として従軍していた山田は、明治32 年(1899)に東京で孫文と出会うと二人は意気投合し、山田は革命運動への支援を約束します。
 明治33年(1900)に南京同文書院の教授兼幹事として赴任し、辛亥革命の一端である「恵州起義」( 中国広東省 ) が起こると孫文の命で現地に入ります。
 しかし、当初、革命軍への軍事援助を約束していた日本政府は、内閣交代により中国への内政不干渉へ方針転換。武装蜂起は失敗に終わり山田は戦死しています。一説には革命軍が撤退するときに捕らえられ、日本人と分からないまま殺されたとも言われています。
 碑は革命成功後に中華民国を建国した孫文が、大正2年(1913)に訪日した際に建立されてものだそうです。

山田良政君碑
山田良政君碑

 松本楓湖は幕末から大正時代にかけて活躍した日本画家です。天保11年(1840)、常陸国河内郡寺内村で生まれた松本は、江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨や、谷文晁の高弟、佐竹永海、歴史画集「前賢故実」の作者、菊池容斎に師事し絵師として活躍します。日本美術院創設に参加し文展審査員,帝国美術院会員となった松本は、安雅堂画塾を開くと、今村紫紅、速水御舟ら多くの門人を育て、大正12年に84歳で亡くなっています。歴史画を得意とし、代表作に「蒙古襲来・碧蹄館」「静女舞」などがあります。

画家 松本楓湖先生の墓
画家 松本楓湖先生の墓

 全生庵には、『春よこい』『靴が鳴る』などで知られる大正から昭和にかけて活躍した作曲家、弘田龍太郎の墓もあります。
 弘田龍太郎は、明治25年(1892)、高知県安芸市土居で生まれ、教育者である父の転任に従って、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校卒という経歴を経て東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学します。
 『七つの子』『赤い靴』などの作曲で知られる本居長世に師事し、卒業後は、母校の講師を経て教授に就任しています。
 宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加し、洋楽と邦楽の融合を模索していた弘田は、鈴木三重吉により児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、「赤い鳥運動」に参加。北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲しています。最初に紹介した作品以外にも『鯉のぼり』『金魚のひるね』『雀の学校』など、誰もが聞いたことのある作品を世に送り出しています。
 昭和27年(1952)に60歳で亡くなった弘田は、全生庵に葬られますが、その墓所には、彼の作品の一つ『叱られて』の楽譜が刻まれた曲碑が建立されていました。

作曲家 弘田龍太郎の墓
作曲家 弘田龍太郎の墓

曲碑「叱られて」
曲碑「叱られて」

台東区谷中5丁目4−7
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| 歴史あれこれ | 10:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三遊亭圓朝の墓

 山岡鉄舟により創建された台東区谷中五丁目にある全生庵には落語で名人とうたわれた初代三遊亭圓朝の墓もあります。鉄舟が圓朝の禅の師匠という縁からだそうです。
 幕末から明治時代にかけて活躍した初代圓朝は、歴代名人の中でも別格とされるほど落語が巧かったと言われ、多くの落語演目を創作。人情噺や怪談噺など、笑いが無く、講談に近い独自の世界感を築きあげていきます。二葉亭四迷は『浮雲』を書いた際、圓朝の話し方を参考にしたと言われ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼしています。
 なお、初代圓朝が数々の新作落語を発表した背景に、圓朝の師匠である2代目三遊亭圓生が、その才能に嫉妬して圓朝が演ずる予定の演目を先に演じてしまうという嫌がらせをしたため、他人が出来ないオリジナルの作品を造ったと言われています。その師匠を初め、歴代圓生の墓も圓朝の墓の隣りにありました。
 初代圓朝は怪談噺の参考にと幽霊画をコレクションしていた事で知られ、死後、全生庵に寄贈されています。毎年8月に開かれる谷中圓朝まつりでは、この幽霊画が一般公開されているそうです。

三遊亭円朝の墓
三遊亭円朝の墓

全生庵入口付近にある円朝の墓碑
全生庵入口付近にある円朝の墓碑

三遊亭円生の墓
三遊亭円生の墓

円生の墓誌
円生の墓誌

台東区谷中5-4-7

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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全生庵 山岡鉄舟の墓

 台東区谷中五丁目にある全生庵は、臨済宗国泰寺派の寺院で、「幕末の三舟」のひとり山岡鉄舟が、明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年(1883)に創建しています。
 墓所には鉄舟の墓もあります。

全生庵入口
全生庵入口

 山岡鉄舟は幕末維新期に活躍した政治家です。名は高歩,通称鉄太郎と言い、旗本小野朝右衛門の子として江戸に生まれ、剣を北辰一刀流千葉周作に,、槍を刃心流山岡静山に学び,ます。そして山岡静山の妹と結婚し山岡家を継ぎます。「幕末の三舟」のひとり高橋泥舟は義兄にあたります。剣豪として知られた鉄舟ですが、母方の先祖は戦国時代の剣豪、塚原卜伝と聞くと納得できるような気がします。
 ,文久2年(1862)には、後に新選組となる浪士組の取締役を拝命するなどし、明治1年(1868)には,精鋭隊頭として徳川慶喜の警護に当たっていた鉄舟は、義兄高橋泥舟の推薦により勝海舟より官軍の西郷隆盛との折衝を依頼され、勝海舟と西郷隆盛の会談を実現。徳川家救済と江戸開城に尽力します。
 維新後は静岡藩権大参事,伊万里県知事などを歴任し明治21年(1888)に53歳で亡くなった鉄舟の葬儀では、明治天皇の意向があり、四谷の自邸を出た葬列が皇居前で10分ほど止まり、天皇が高殿から目送されたと伝わっています。

山岡鉄舟の墓
山岡鉄舟の墓

境内にある顕彰碑
境内にある顕彰碑。書は勝海舟によるものです。

東京都台東区谷中5-4-7

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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赤穂浪士の供養塔 観音寺

 谷中の観音寺は、慶長年間(1596-1615)に神田北寺町に創建され、延宝8年(1680)に現在地へ移転したと伝えられています。当初長福寺と称していましたが、享保元年(1716)に観音寺と改称しています。

観音寺山門
観音寺山門

本堂
本堂

 観音寺は、赤穂浪士ゆかりの寺として知られています。赤穂浪士の一人、近松勘六行重と、その異母弟・奥田貞右衛門行高の兄弟、文良(後の観音寺6世・朝山大和尚)が修行していた関係で、度々、浪士達の密談がここで行われていたそうです。
 本堂に向かって右側に「四十七士慰霊塔」と伝えられる宝篋印塔があります。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山と刻まれています。

赤穂浪士の供養塔
赤穂浪士の供養塔

 観音寺の南面の塀は、「築地塀」と呼ばれる土と瓦を交互に積み重ねてつくられた土塀です。この築地塀は国登録有形文化財(建築物)に指定され、平成4年には台東区の「台東区まちかど賞」を受賞するなど、寺町である谷中の代表的な風景として地元の方々にも愛されています。

築地塀
築地塀

台東区谷中5-8-28

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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長安寺 狩野芳崖の墓と板碑

 谷中にある長安寺に、幕末から明治期に活躍した日本画家・狩野芳崖の墓があります。日本絵画最大の流派「狩野派」の一派である長府藩狩野派の御用絵師、狩野晴皐の長男として下関で生まれ、19歳の時に江戸へ出ると狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦と共に勝川院門下の龍虎とうたわれます。
 明治維新後、西洋画が日本へ流入すると、日本画の人気は凋落し、芳崖は生活に困窮しますが、アメリカの美術史家フェノロサや岡倉天心の日本画復興運動に参加。日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた独自の画風を確立し、当時の美術界を代表する画家となります。東京美術学校(後の東京藝術大学)設立にも尽力しますが、その開校直前の明治21年(1888)に病により亡くなっています。

長安寺入口
長安寺入口

狩野芳崖の墓(左)
狩野芳崖の墓(左)

狩野芳崖の碑
狩野芳崖の碑

 長安寺には、死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行うために建立される塔婆の一種「板碑」があります。
 長安寺には、鎌倉時代の板碑三基、室町時代の板碑一基があります。一つは弘安8年の年号が刻まれていますが、弘安とは元寇の時代になります。
 安寺の開基は、寛文9年(1696)ですが、板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年前のものであることから、長安寺開基以前、に、この地にあったとされる真言宗の寺と何らかの関連があったと考えられています。

板碑
板碑

台東区谷中5-2-22

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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旧吉田屋酒店

 谷中霊園から南に向かい、言問通りに交差する上野桜木交差点の角に「旧吉田屋酒店」があります。
 元は谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物で、明治時代の店舗の特徴を良く残す建物の寄贈を受けた区が昭和62年に現在地へ移築したそうです。
 明治43年に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出す出桁(だしげた)造で、正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸が設けられています。

旧吉田屋酒店
旧吉田屋酒店

 旧吉田屋酒店は現在、以前紹介した不忍池近くにある下町風俗資料館の付設展示場です。
 屋内には、秤、じょうご、樽や、宣伝用ポスター、看板などの資料が展示されています。

内部
内部

内部
内部

【関連記事】 下町風俗資料館

台東区上野桜木2丁目10番6号

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大雄寺 高橋泥舟の墓

 台東区谷中にある大雄寺に、勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と呼ばれた高橋泥舟の墓があります。
 高橋泥舟は天保六年、旗本・山岡正業の次男として生まれ母方の高橋家の養子となります。山岡家は槍の自得院流の名家で兄の山岡静山の下で修行した泥舟は、海内無双、神業に達したと評される達人となります。なお、山岡家は静山が早世したため門人の小野鉄太郎を婿養子に迎えますが、鉄太郎こそ三舟の一人、山岡鉄舟です。
 泥舟は、21歳で幕府講武所槍術教授方出役、槍術師範役を歴任し、文久3年(1863)に一橋慶喜に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任します。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の敗戦により江戸へ退却した将軍・慶喜に泥舟は恭順を説き、江戸城から上野東叡山へ退去する慶喜の護衛を務めます。幕府の全権を任された勝海舟は官軍の西郷隆盛への使者を、誠実剛毅な人柄を見込んで泥舟に依頼しようとしましたが、慶喜から親身に頼られていた泥舟は主君の側を離れるわけにはいかず、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦し、鉄舟がその大役を見事に果たしたそうです。
 慶喜が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務めた泥舟は、廃藩置県後に職を辞し東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送っています。明治新政府からは任官の誘いがあったものの慶喜が失脚しているのに自分が官職について出世する事は出来ないと拒否したと言われています。
 また、義弟の鉄舟が没した際、山岡家にはかなりの借金があったそうで、泥舟はその返済を引き受け、金貸しに借金を申し込みますが「担保は何か」と聞かれ、「わしの顔が担保だ」と返答したそうです。これに対して金貸しは「泥舟先生がおっしゃるなら」と借金の全額を引き受けたという逸話が残されています。
 高橋泥舟は明治36年(1903)に69歳の生涯を閉じ大雄寺に葬られています。

大雄寺入口
大雄寺入口

本堂
本堂

高橋泥舟の墓
高橋泥舟の墓

台東区谷中6-1-26

| 幕末・明治維新 | 09:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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愛染かつらゆかりの自性院

 谷中にある自性院は、慶長16年(1611)道意上人が神田に開山、慶安元年(1648)に現在地に移ったと伝えられています。
 自性院は、愛染堂に祀られた愛染明王像が有名で、文化文政の頃(1804-30)には愛染寺の名で知られるようになります。
 愛染明王は、特に縁結び、家庭円満にご利益があると言われ、昭和の初め、文豪川口松太郎は名作「愛染かつら」を、自性院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木をヒントに執筆したと言われています。「愛染かつら」は昭和13年に雑誌『婦人倶楽部』での連載が終了以降、何度か映画やテレビドラマ化されヒットしています。

自性院入口
自性院入口

本堂
本堂

桂の木
桂の木

説明板
説明板

台東区谷中6-2-8

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ヒマラヤ杉とみかどパン

 谷中1丁目にあるヒマラヤ杉とみかどパンは谷根千の象徴とも言える風景として人々に愛されてきました。
 約100年前にお店が出来た時に植えられたヒマラヤ杉を目印に、この辺りには多くの芸術家がアトリエを構えていたそうで、文豪・川端康成も住んでいたそうです。
 みかどパンは、かつては団子屋だったそうで、墓参りの客や、芸術家たちで賑っていたといいます。

ヒマラヤ杉とみかどパン
ヒマラヤ杉とみかどパン

現地説明板
現地説明板

台東区谷中1-6-15

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蓮華寺

 谷中にある日蓮宗の蓮華寺は古くから赤門の寺として知られる寺院です。中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始され、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630)に創建したと伝えられています。
 現在の本堂等は、文政年間の物と伝わる貴重な建造物で、境内には新内中興の祖富士松魯中の墓がありました。

蓮華寺山門
蓮華寺山門

本堂
本堂

富士松加賀太夫の墓
富士松加賀太夫の墓

台東区谷中4-3-1

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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