烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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谷中霊園 役者の墓

 以前紹介しましたが、谷中霊園には映画やテレビで二枚目俳優として活躍した長谷川一夫のお墓があります。建立したのは息子の長谷川寿(はせがわ ひさし)です。
 長谷川寿氏は「林 成年」(はやし なりとし)の名で活躍した俳優で昭和12年(1937)に大阪・歌舞伎座で初舞台を踏み、同年、父主演の映画「土屋主税」で映画にも初出演しています。以降、父の主演する映画などにたびたび出演し、昭和29年に慶応義塾大学を卒業すると大映に俳優として入社。昭和37年に東宝へ移籍すると舞台俳優として活動、父が率いる東宝歌舞伎にレギュラー出演しています。主な出演作品に「新・平家物語」、映画〈赤胴鈴之助〉シリーズや、「弥次喜多道中」「忠臣蔵」などがあります。
 平成20年(2008)に心不全のため76歳で死去。父・長谷川一夫のお墓の隣りに眠っています。

長谷川一夫(中央)、林成年(左)の墓
長谷川一夫(中央)、林成年(左)の墓

 谷中霊園には長谷川一夫以外にも、先日紹介した森繁久彌の様に、多くの俳優が葬られています。
 澤田正二郎は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者で、劇団新国劇を創設して座長を務めています。澤正(さわしょう)の愛称で親しまれましたが、昭和4年、、新橋演舞場に出演中に急性中耳炎により入院。大勢のファンが病院を囲む中、二ヶ月後に急性化膿性脳膜炎で亡くなっています。

澤田正二郎の墓
澤田正二郎の墓

 三代目 中村仲蔵は、幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者で、屋号は成雀屋、舞鶴屋です。
 明治以後は長老として後進の指導に当たり、明治19年(1886)、中村座新築の口上を最後に舞台を引退、間もなく亡くなっています。

3代目中村仲蔵の墓
3代目中村仲蔵の墓

【関連記事】 俳優 長谷川一夫の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園
 長谷川一夫・林 成年 : 甲9号 2側
 澤田正二郎 : 甲3号 1側
 中村仲蔵 : 甲1号 11側
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雲井龍雄の墓表と相馬大作の碑

 以前、谷中霊園にある「新派」の創始者・川上音二郎の銅像の台座について紹介しましたが、その隣りに幕末の志士・雲井龍雄の墓表と、江戸時代に発生した大名暗殺未遂事件「相馬大作事件」の首謀者、相馬大作の碑がありました。

 雲井瀧雄は米沢出身の幕末の志士で、桂小五郎らも門下生であった儒学者・安井息軒の私塾「三計塾」で塾頭を務めています。
 幕末の混乱期に大政奉還実現に向けて活躍しますが、戊辰戦争では薩長の横暴を非難する漢詩「討薩檄」を作成し米沢での謹慎処分を受けています。
 明治2年に新政府の立法機関である集議院議員に選ばれたものの、戊辰戦争時の行動を問題しされ辞職。
 その後、旧幕臣達の帰順を嘆願する活動を行いますが、それが政府転覆を企む謀反とみなされ逮捕。小伝馬町にて処刑されています。
 雲井は漢詩の才能にも恵まれ、その詩集は明治時代の自由民権運動の活動家達が愛読し、影響を与えています。
 雲井龍雄の首は、当初、小塚原回向院に葬られましたが、明治16年(1883)に、谷中の天王寺に改葬されます。墓表はその時のものと思われます。しかし、遺骨は昭和5年(1930)に故郷米沢の常安寺に再改葬されます。現在、墓は回向院、谷中霊園、常安寺の三ヶ所に存在しますが、遺骨があるのは常安寺の墓だけだそうです。

雲井龍雄の墓表
雲井龍雄の墓表

 相馬大作については以前、小塚原回向院の供養碑について紹介していますが、本名は下斗米秀之進といい剣の達人として知られた盛岡藩士でした。盛岡藩・南部氏と隣国の弘前藩・津軽氏は元は同族であったものの、戦国時代末期に津軽氏が南部氏の領内に侵攻し津軽地方を平定した事から立藩以来犬猿の仲だったそうです。
 文政3年(1821)に盛岡藩主南部利敬が39歳の若さで亡くなると、藩内では弘前藩に対する積年の鬱憤が原因だという話が広まります。また、跡を継いだ14歳の利用は無位無官であったのに対して、津軽寧親は従四位下侍従に叙任されていたため、不満を抱いた秀之進たちにより寧親の暗殺計画が練られます。
 計画は文政4年(1821)に参勤交代を終えて帰国する途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃するというものでしたが仲間の密告によって発覚。秀之進は「相馬大作」と名を変えて逃走しますが、江戸で幕府により捕らえられ翌年処刑されます。ただ、騒動により寧親は隠居に追い込まれ、結果的に秀之進の目的は達成されたとも言えます。
 事件は当時、赤穂浪士の再来として騒ぎ立てられ、講談や小説・映画などで採り上げられています。そして西郷隆盛や橋本左内の師である水戸藩の藤田東湖はその義烈をたたえ、吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕する等、幕末の尊王攘夷運動にも少なからず影響を与えています。
 谷中霊園の碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取り、明治15年(1882)に建立したものだそうです。

相馬大作の碑
相馬大作の招魂碑

雲井龍雄の墓表 : 谷中霊園甲2号4側
相馬大作の招魂碑 : 谷中霊園甲2号5側

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谷中霊園 文人の墓(色川武大と獅子文六)

 谷中霊園には多くの文人の墓もあります。
 色川武大(いろかわ-たけひろ)は、阿佐田哲也のペンネームで「麻雀放浪記」を発表するなど、昭和後期に活躍した小説家です。
 祖父は文部官僚、父は海軍大佐。親戚には衆院議員もいるといった家柄で生まれた武大ですが、戦時中で旧制中学(高校)在学中に同人誌を密かに発行していたことがばれ無期停学処分を受けたため進級も転校もできず、戦後中退して、かつぎ屋、闇屋、街頭の立ち売りや博徒などの職を転々とします。この時の経験が後の作品に生かされています。
 昭和28年(1953)に桃園書房に入社すると雑誌の編集者として藤原審爾や山田風太郎のサロンに出入し、会社退職後に「井上志摩夫」名義での娯楽小説を書きはじめた色川は昭和36年(1961)に執筆した『黒い布』が三島由紀夫らの賞賛を受け、第6回中央公論新人賞を受賞します。
 一方で得意の麻雀を活かし、昭和41年(1966)に『週刊大衆』に「雀風子」のペンネームで『マージャン講座』というコラムを執筆。その後同誌に「阿佐田哲也」のペンネームで麻雀小説を連載しています。特に昭和44年(1969)に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズは若い読者の圧倒的人気を得て映画化される等、麻雀ブームを引き起こしています。
 本名でも数々の作品を発表した色川は、昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞,53年「離婚」で直木賞,平成元年「狂人日記」で読売文学賞などを受賞。平成元年(1989)に60歳で亡くなっています。

色川家の墓
色川家の墓

色川武大の名
色川武大の名

 小説家,劇作家であった獅子文六(本名:岩田豊雄)はフランスに遊学して近代劇を研究、岸田国士らと共に劇団文学座を創立。 一方で小説家としても『自由学校』などユーモアと風刺に富んだ風俗小説を執筆し脚光を浴びます。昭和31年(1956)より『主婦之友』にて連載された『娘と私』は、現在も続く「NHK連続テレビ小説」の記念すべき第1作品目となっています。
 文六は、昭和44年(1969)に文化勲章を受章。同年76歳で亡くなっています。

獅子文六の墓(岩田家の墓)
獅子文六の墓(岩田家の墓)

谷中霊園 
 色川武大の墓 : 甲1号9側
 獅子文六の墓 : 甲9号22側

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蒸気機関車型の墓 今村清之助

 谷中霊園で蒸気機関車型の墓石を見つけました。墓石というより顕彰碑でその左右にあるのが墓石のようです。
 今村清之助は、幕末から明治にかけて活躍した実業家で、明治3年には横浜で両替屋を開き、東京株式取引所設立の発起人にも名を連ねています。明治21年(1888)には今村銀行を設立しています。
 明治16年(1883)から3年間、陸奥宗光と共に欧米を視察した今村は、米国の鉄道事業に強い興味を示し、帰国後、国内での鉄道事業振興に尽力しています。両毛鉄道をはじめ、九州・関西・参宮・山陽などの各鉄道建設に関わり、各鉄道会社の重役、大株主として日本鉄道界の中心人物として活躍していたそうです。

今村清之助の墓
今村清之助の墓

蒸気機関車型の墓石
蒸気機関車型の墓石

谷中霊園 甲3号1側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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俳優 森繁久彌の墓

 谷中霊園に、昭和、平成と俳優、歌手、コメディアンとして活躍した森繁久彌の墓があります。
 森繁久彌は大正2年(1913)に大阪府枚方市で生まれます。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、父・菅沼達吉は日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家で、久彌という名前は、父と親交が深かった三菱財閥3代目総帥・岩崎久彌(岩崎弥太郎の長男)からとったそうです。

森家の墓
森家の墓

 久彌は尋常小学校1年生の時に、母方の祖父の家を継ぎ森繁姓となり兵庫県西宮市で暮らします。早稲田大学商学部へ進学すると演劇研究部に所属した事から役者の道を進む事になります。
 大学の軍事教練を拒否し中退した久彌は、兄の紹介で東京宝塚劇場(東宝)に入社し下積み生活を過しますが、徴兵を避けるために昭和14年(1939)にNHKのアナウンサー試験を受けて合格。満州に赴任しアナウンサー業務や満洲映画協会製作の映画のナレーション等を手掛けます。
 戦後、帰国すると劇団を転々としながら舞台に上がり、ミュージカルでアドリブのギャグを混ぜて歌を歌うなど注目を浴び、徐々に頭角を表していきます。
 昭和25年(1950)にNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演し、主役の藤山一郎の相手役を演じ人気を呼んだ事から映画や舞台に次々と声が掛かるようになり人気俳優として成長。映画では昭和31年(1956)から始まった『社長シリーズ』、昭和33年(1958)から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支える大ヒットシリーズとなっています。
 テレビドラマでも『元禄太平記』『おやじのヒゲ』など数々の作品に出演。舞台ではミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてています。この他、自ら作詞作曲した『知床旅情』がヒットするなど多彩な才能を発揮した久彌は、平成3年(1991)に大衆芸能分野初の文化勲章を受章。平成21年(2009)に満96歳で亡くなっています。その葬儀告別式には、当時の小泉純一郎元首相を始め多くの芸能・政財界関係者が参列。その功績を讃えて国民栄誉賞が授与されています。

墓石に刻まれた森繁久彌の名
墓石に刻まれた森繁久彌の名

東京都台東区谷中 谷中霊園 乙10号10側付近、立体埋葬施設から向かいの坂を上った途中。

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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老中・阿部正弘の墓

 谷中霊園渋沢栄一墓の北側に、塀で囲まれた一画があり、入口の前に管理事務所がありますが、ここは寛永寺徳川家墓地で、入場時間以外は鍵がかかっています。その一番奥にあるのが備後福山藩・阿部家の墓所です。

阿部家の墓所
阿部家の墓所

 初代の阿部正邦は岩槻藩主・阿部定高の次男として生まれ、寛文11年(1671)、14歳の時に藩主となります。
 その後、天和元年(1681)に丹後宮津藩、元禄10年(1697)に下野宇都宮藩と度々領地が変わり、宝永7年(1710)53歳の時に、備後福山藩の藩主となります。旧領から遠く離れた移封に戸惑いながらも、領内の掌握と諸制度の整備に尽力した正邦は転封から5年後の正徳5年(1715)に亡くなりますが、以後、阿部氏は福山藩を廃藩置県まで10代161年間統治。西国の有力譜代大名として老中を4人、大坂城代を1人輩出しています。

初代・阿部正邦の墓
初代・阿部正邦の墓

 福山藩・阿部家の中で最も有名な藩主と言ったら、幕末の激動期に老中首座を務め、日米和親条約を締結した7代藩主・阿部正弘でしょう。
 阿部正弘は、天保14年(1843)、25歳で老中となっていますが、当時天保の改革が行き詰まり失脚した水野忠邦が江戸城本丸焼失や外交問題により老中首座に復権する事に反対。結局、水野は復帰しますが、「水野の三羽烏」と呼ばれた側近の鳥居耀蔵、後藤三右衛門、渋川敬直は改革失敗の責任を問われ処罰されます。この時、失脚した渋川敬直は二代目安井算哲こと初代天文方渋川春海を祖とする天文方・渋川家の9代目当主・渋川景佑の嫡男でした。
 その後、再び罷免された水野忠邦に変わり首座となった阿部正弘は、度重なる外国船の来航や「アヘン戦争」勃発など外交問題の深刻化を憂慮し、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭ら諸大名に幅広く意見を求める一方、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震ら有能な人材を登用しています。
 しかし、諸大名に幅広く意見を求めた事か諸大名の発言力を増す結果となり、ペリー艦隊来航による日米和親条約締結で攘夷派と開国派の融和を図るため老中首座を退いています。
 阿部正弘は安政4年(1857)に老中在任のまま39歳で急死していますが、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたと言われ、もしそのまま生きていたらその後の歴史も変わっていたかもしれません。

阿部正弘の墓
阿部正弘の墓

大正天皇がお参りされた記念碑
大正天皇がお参りされた記念碑

東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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再び、渋沢栄一の墓へ

 久しぶりに谷中霊園にある渋沢栄一のお墓へお参りしました。
 幕末から大正時代にかけて活躍した実業家で「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、明治以降の囲碁界の有力な支援者の一人でした。お墓へは、以前は塀で囲まれて近づくことが出来ませんでしたが、現在は塀が取り払われ近くまで行けるようになっています。
 以前も紹介しましたが、墓碑銘は、明治期の囲碁のトップ棋士であった杉山千和の息子で外務省官僚で書家としても有名だった杉山三郊(令吉)によるものです。
 日露戦争で旗艦三笠に掲げられたZ旗の「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」という有名な言葉は、一説によると杉山が発案したものの小笠原長生が自分の発案だと東郷司令長官に上申したという説があります。
 杉山千和は安政2年に本因坊秀和より5段の免許をうけ、明治以降は方円社にて活躍しています。 囲碁以外にも漢学者で書を極めた人物として知られ三郊は父より書を学んでいます。
 今回、墓へ近づくことが出来ましたので碑文に「杉山令吉」の名を確認する事が出来ました。

渋沢栄一の墓
渋沢栄一の墓

裏側の碑文
裏側の碑文

杉山令吉の名
杉山令吉の名

 渋沢栄一の墓の脇に渋沢家の墓があります。墓誌に刻まれた名前を見ると、栄一の息子で嫡男でありながら妻子を置いて新橋の芸者のもとへ転がり込んだため廃嫡となった篤二や、篤二の息子で栄一の後継者となり、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した敬三の名が刻まれていました。

渋沢家の墓
渋沢家の墓

【関連記事】 渋沢栄一の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園 乙11号1側

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芳野金陵の墓

 芳野金陵(よしの きんりょう)は、江戸時代後期の儒学者です。現在の千葉県柏市で、22歳の頃、儒学者・亀田鵬斎の息子、亀田綾瀬に師事します。文政9年(1826)から現在の台東区浅草橋で私塾を開き、弘化4年(1847)より駿河田中藩主・本多正寛に仕えた金陵は、ペリー艦隊が来航すると、老中・久世広周に国防策を建議し、以後、度々、諮問を受けています。久世広周は囲碁界にも影響力をもち、十二世井上節山因碩が門人を斬り殺し退隠した際に松本錦四郎を後継者に推挙した人物です。
 金陵は明治元年(1868)1に昌平学校教授となりますが、明治3年(1870)に廃校となった後、引退し77歳でなくなっています。

芳野金陵の墓
芳野金陵の墓

 谷中霊園の芳野金陵の墓所に、息子の芳野桜陰の墓碑がありました。芳野桜陰は安井息軒らに師事し,文久3年には昌平学校の助教となります。元治元年に天狗党の乱に参戦し幕府軍と戦いますが敗北。明治維新後は新政府に仕え、明治5年に29歳で亡くなっています。

芳野櫻陰墓碑
芳野櫻陰墓碑

東京都台東区谷中 谷中霊園 天王寺墓地

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将棋の駒の「菱湖書体」 巻菱湖の墓

 巻菱湖(まき りょうこ)は江戸時代後期に活躍した書家で、市河米庵、貫名菘翁と並び「幕末の三筆」と称されていました。菱湖の門下生は1万人を超えたと言われ、明治政府及び宮内庁が官用文字・欽定文字を菱湖流に改める等、後の世にも大きな影響を与えています。

巻菱湖の墓案内の標柱
巻菱湖の墓案内の標柱

 菱湖の生み出した「菱湖書体」は、現在でも将棋の駒の、銘駒と呼ばれる書体の1つとして使われ、タイトル戦などで使用される高級な駒によく用いられています。

巻菱湖の墓
巻菱湖の墓

巻菱湖の墓
巻菱湖の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園 甲9号14側を入った先。

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7代秀の山(小常陸 由太郎)

 谷中霊園にある五代目出羽海(第19代横綱・常陸山谷右エ門)の墓の隣りに、出羽海の墓の玉垣にも名前を残す、7代秀の山興四郎の墓があります。現役時代の四股名は小常陸 由太郎、出羽海部屋に所属し最高位は西関脇でした。
 五代目出羽海の養子となりますが、41歳の若さで亡くなっています。

秀の山の墓
秀の山の墓

側面
側面

東京都台東区谷中 谷中霊園  甲13号1側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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