烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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長谷川平蔵と本因坊元丈

 四谷(新宿区須賀町)にある戒行寺には、池波正太郎原作で中村吉右衛門がドラマで演じた「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養碑があります。

戒行寺
戒行寺

 長谷川平蔵は実在の人物で、本名は長谷川平蔵宣以(のぶため)、延享2年(1745)に400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれます。
 父の宣雄は火付盗賊改を経て安永元年(1772)に京都西町奉行に就任したため、一家は京都に赴きます。しかし、翌年に宣雄は亡くなり平蔵は江戸に戻って28歳で家督を継ぎます。
 安永3年(1774)に、31歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられると、天明4年(1784)に西の丸御徒士頭、天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられ、天明7年(1787)、42歳の時に火付盗賊改に任ぜられます。火付盗賊改とは江戸時代に放火、盗賊)、賭博など凶悪犯を取り締まった役職で、町奉行が非武装で治安維持を目的に活動していたのに対し、火盗改は武力制圧も許された組織だったそうです。
 平蔵は寛政の改革の一環として、罪人の更生施設である石川島人足寄場を設立するなど功績を挙げますが、設立にあたり予算増額を幕府が認めなかったため、公金を銭相場に投じ資金を調達したと言われ老中松平定信は平蔵の事を嫌っていたと言われます。そのため、小説のように江戸中を騒がした凶悪犯を次々逮捕するなど非常に有能であった平蔵ですが、それ以上出世する事なく、寛政7年(1795)、8年間勤め上げた火付盗賊改役を退き、その3ヵ月後に50歳で亡くなっています。

本堂
本堂

 長谷川家は戒行寺の檀家だったそうで、かつては墓所に長谷川平蔵の墓もあったそうです。現在、戒行寺の墓所は杉並区堀の内の共同墓地に移されていますが、その移転時に平蔵の墓は行方不明になっています。長谷川家が移転時に立ち会わなかったために無縁墓として処理されたのではないかと考えられています。
 その代わり、戒行寺境内には長谷川平蔵の供養碑が建立されていました。また、境内に長谷川家の墓がありましたが、これは明治以降に造られた平蔵の子孫の墓で杉並の墓所から再び移転されたものだそうです。

長谷川平蔵の供養碑
長谷川平蔵の供養碑

 ところで、長谷川平蔵が葬られた戒行寺についてですが、囲碁史とも関わりのある寺です。
 戒行寺は文禄4年(1595) に麹町で戒行庵として創草されますが、寛永11年(1634) 、江戸城の拡張にともない現在地へ移転します。この時、中興開基となったのが御家人の宮重作兵衛信秀という人物でした。この信秀の六代後の子孫、宮重楽山こそ11世本因坊元丈で、その子、岩之介が13世本因坊丈策です。
 元丈と長谷川平蔵は同時代の人物です。元丈が本因坊家の跡目となったのは平蔵が亡くなってから二年後の事ですので平蔵は元丈を知っていたかは分かりませんが、元丈の方は火盗改として大活躍していた長谷川平蔵を知っていた可能性はあります。
 なお、元丈の先祖、宮重作兵衛信秀の墓が移転した戒行寺の墓所にあり、そちらも取材しましたので、後日紹介します。

長谷川家の墓
長谷川家の墓

戒行寺:東京都新宿区須賀町9
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