烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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お岩様ゆかりの「於岩稲荷陽運寺」

 「東海道四谷怪談」で有名なお岩様を祀った四谷於岩稲荷田宮神社の道向には、同じくお岩様を祀った於岩稲荷陽運寺があります。
 日蓮宗寺院である陽運寺が創建されたのは昭和初期の事で、田宮家屋敷跡にあった田宮神社は移転してしまった後だったため、陽運寺では、お岩様ゆかりの地である境内に独自に稲荷を再建し供養します。本堂にはお岩様の木造が安置され、境内には「お岩様ゆかりの井戸」がありますが、確かな伝承がある訳ではなく、昔からあった井戸なので、きっとお岩様も使ったに違いないという事だそうです。
 「於岩稲荷陽運寺」が独自にお岩様を供養し、それが広く知られる事になったため、本家である於岩稲荷田宮神社が、自分達こそ本家である事を示すため、かつて神社のあった田宮家跡に分社を創建したと言われています。
 陽運寺には歌舞伎興行の際の安全と成功を願って役者等関係者が必ず参拝に訪れるそうで、その他、悪縁を除き、良縁を招く縁切り(縁結び)の寺として全国各地より多くの参拝者が訪れています。

陽運寺
陽運寺山門

於岩稲荷
本堂

於岩稲荷再建記念碑
於岩稲荷再建記念碑

お岩様ゆかりの井戸
お岩様ゆかりの井戸

東京都新宿区左門町18
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| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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於岩稲荷田宮神社

 四谷といえば「東海道四谷怪談」を思い出しますが、左門町にはお岩様を祀った稲荷が二ヶ所、道向にあります。最初に「於岩稲荷田宮神社」を訪れました。

道向にある於岩稲荷田宮神社と陽運寺
道向にある於岩稲荷田宮神社と陽運寺

 お岩様といえば四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」で恐ろしいイメージが染みついていますが、実は江戸時代初期に実在した人物で良妻として知られていました。お岩様は御家人の田宮又左衛門の娘で、養子となった田宮伊右衛門を支えるため奉公に出て、田宮家を盛り上げたそうです。お岩は生前、屋敷内にあった屋敷社を信仰していたそうで、死後、お岩も合祀され「お岩稲荷」として人々の信仰を受けることとなります。

於岩稲荷田宮神社
於岩稲荷田宮神社

 ところが岩の死後200年近くが経った江戸時代後期に鶴屋南北が歌舞伎「東海道四谷怪談」で、岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たすという話を作り上げたため、現在のイメージが形成されます。
 お岩稲荷神社には、祟りを恐れて「東海道四谷怪談」を演じる役者が参拝していましたが、明治12年に火災で焼失すると市川左団次の支援により芝居小屋近くの新川に「田宮神社」と改称して移転しています。
 しかし、元あった場所での復活を望む声もあり 昭和27年に分社として田宮家屋敷跡にも神社が建立されたそうです。
 なお、神社の神主はお岩様の子孫だそうです。

歌舞伎役者の名が刻まれた玉垣
歌舞伎役者の名が刻まれた玉垣

拝殿
拝殿

【関連記事】 四谷怪談 お岩様の墓

東京都新宿区左門町17

| 江戸時代 | 16:53 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩佐銈邸跡 最後の方円社

 方円社6代目社長で、方円社を解散し日本棋院設立を成し遂げた岩佐銈(いわさ けい)の屋敷は、四谷区南寺町38にありました。現在の住所は新宿区須賀町で近岡ビルという建物が建っています。
 岩佐は、明治28年(1895)に方円社へ入社、明治30年(1897)に初段となり明治34年(1901)には四段へ昇進しています。
 明治42年(1909)に方円社を離れ石井千治、野沢竹朝とともに囲碁同志会を結成しますが、大正元年(1912年)に石井が方円社社長に就任すると岩佐も方円社へ復帰しています。大正2年(1913)には六段に昇段しました。
 大正11年(1922)の裨聖会設立に危機感を抱いた方円社と本因坊秀哉ら坊門の間で合流の機運が高まり、病床の5代目社長、広瀬平治郎に代わり岩佐は方円社副社長格として交渉し、大正12年(1923)に中央棋院が設立されます。事務所は東京駅前の丸ビルに置かれましたが、中央棋院は設立後まもなく資金面で対立し再分裂、方円社側は「方円社」を復活させ坊門側を丸ビルから締め出してしまいました。そうした混乱の中、大正13年(1923)に関東大震災が発生、丸ビルは被災者救援の拠点として使われたため方円社は四谷の岩佐邸に移転します。
 大正13年(1924)に方円社社長に就任した岩佐は、震災を機に中央棋院、裨聖会、方円社の三派合流の機運が高まる中、方円社を解散し、ついに日本棋院設立を成し遂げます。日本棋院では審査員役を務めた岩佐は昭和13年(1938)に亡くなり、昭和17年(1942)に追贈八段が贈られています。
 激動の日々を送り、最後の方円社の場所となった岩佐邸跡に行ってみましたが、当時を偲ぶものは何も残されていませんでした。

岩佐ケイ邸跡
岩佐銈邸跡

岩佐ケイ邸跡
岩佐銈邸跡

新宿区須賀町 近岡ビル

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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闇坂(くらやみざか)

 新宿区須賀町の勝興寺近くで闇坂(くらやみざか)という坂を見つけました。かつて、この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったことからこう呼ばれたそうです。

闇坂(くらやみざか)
闇坂(くらやみざか)

標柱
標柱

東京都新宿区須賀町11と12の間

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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吉田松陰を処刑した、山田浅右衛門

 四谷の勝興寺に、以前、平河町の屋敷跡を紹介した公儀御様御用(こうぎおためしごよう)山田浅右衛門の6代目吉昌と7代目吉利の墓があります。
 御様御用とは刀剣の試し斬り役の事で、罪人の死刑執行人も兼ねていたため、山田浅右衛門は首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれています。
 斬首刑では、ただ首を切断するだけでは首が地面に落ちて傷ついてしまうため、首の皮一枚を残して切るという高等技術が必要であり、そのため歴代浅右衛門は門弟の中最も技量の優れた人物が後継者となってきました。

勝興寺本堂
勝興寺本堂

 6代目吉昌は下級幕臣で紅葉山御霊屋掃除役を務めていた遠藤次郎兵衛の息子で先代の跡目4人が次々と亡くなったため6代目に指名されています。吉昌は「浅右衛門」ではなく「朝右衛門」と名乗り、嘉永元年(1848)、62歳の誕生日に剃髪して松翁と名を改めています。

山田浅右衛門の墓
山田浅右衛門の墓

側面に刻まれた山田朝右衛門吉昌の名
側面に刻まれた山田朝右衛門吉昌の名

 7代目吉利は、備中新見藩士で山田家の門人であった後藤五左衛門の次男で6代目の養女と結婚し家督を相続、朝右衛門と改めます。
 吉利は試し斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、公儀腰物拝見役を拝命しています。公儀腰物拝見役は、幕府開幕以来本阿弥家が専任してきた役で異例の出世だったそうです。
 また当時は「安政の大獄」の真っただ中であり、七代目山田朝右衛門吉利は、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らを処刑した人物として知られています。明治2年(1869)に隠居。明治17年に72歳で亡くなっています。
 吉利の墓は勝興寺のほか港区白金2丁目の正源寺にもあります。吉利が遺言で葬式は勝興寺、遺体は実家の後藤家の菩提寺である正源寺に埋葬するようにと言残したためだそうです。

 ところで、七代目山田朝右衛門吉利は囲碁が趣味だったそうで、屋敷では度々碁会が開催され秀和や秀策が対局した記録が残されています。

七代目山田浅右衛門吉年(吉利)の名
側面に刻まれた七代目山田浅右衛門吉年(吉利)の名

山田吉昌が寄進した水桶
山田吉昌が寄進した水桶

【関連記事】 山田浅右衛門屋敷跡

勝興寺 : 東京都新宿区須賀町8

| 幕末・明治維新 | 07:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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戒行寺坂

 須賀町の戒行寺の南脇を東に下る坂は、「戒行寺坂」と呼ばれています。坂名は、その名の通り、坂上に戒行寺があったからです。
 戒行寺坂は別名油揚坂とも呼ばれていました。昔この坂の途中に豆腐屋があり、良質の油揚をつくっていたためこう呼ばれたと言われています。

戒行寺坂
戒行寺坂

標柱
標柱

東京都新宿区須賀町9

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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長谷川平蔵と本因坊元丈

 四谷(新宿区須賀町)にある戒行寺には、池波正太郎原作で中村吉右衛門がドラマで演じた「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養碑があります。

戒行寺
戒行寺

 長谷川平蔵は実在の人物で、本名は長谷川平蔵宣以(のぶため)、延享2年(1745)に400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれます。
 父の宣雄は火付盗賊改を経て安永元年(1772)に京都西町奉行に就任したため、一家は京都に赴きます。しかし、翌年に宣雄は亡くなり平蔵は江戸に戻って28歳で家督を継ぎます。
 安永3年(1774)に、31歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられると、天明4年(1784)に西の丸御徒士頭、天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられ、天明7年(1787)、42歳の時に火付盗賊改に任ぜられます。火付盗賊改とは江戸時代に放火、盗賊)、賭博など凶悪犯を取り締まった役職で、町奉行が非武装で治安維持を目的に活動していたのに対し、火盗改は武力制圧も許された組織だったそうです。
 平蔵は寛政の改革の一環として、罪人の更生施設である石川島人足寄場を設立するなど功績を挙げますが、設立にあたり予算増額を幕府が認めなかったため、公金を銭相場に投じ資金を調達したと言われ老中松平定信は平蔵の事を嫌っていたと言われます。そのため、小説のように江戸中を騒がした凶悪犯を次々逮捕するなど非常に有能であった平蔵ですが、それ以上出世する事なく、寛政7年(1795)、8年間勤め上げた火付盗賊改役を退き、その3ヵ月後に50歳で亡くなっています。

本堂
本堂

 長谷川家は戒行寺の檀家だったそうで、かつては墓所に長谷川平蔵の墓もあったそうです。現在、戒行寺の墓所は杉並区堀の内の共同墓地に移されていますが、その移転時に平蔵の墓は行方不明になっています。長谷川家が移転時に立ち会わなかったために無縁墓として処理されたのではないかと考えられています。
 その代わり、戒行寺境内には長谷川平蔵の供養碑が建立されていました。また、境内に長谷川家の墓がありましたが、これは明治以降に造られた平蔵の子孫の墓で杉並の墓所から再び移転されたものだそうです。

長谷川平蔵の供養碑
長谷川平蔵の供養碑

 ところで、長谷川平蔵が葬られた戒行寺についてですが、囲碁史とも関わりのある寺です。
 戒行寺は文禄4年(1595) に麹町で戒行庵として創草されますが、寛永11年(1634) 、江戸城の拡張にともない現在地へ移転します。この時、中興開基となったのが御家人の宮重作兵衛信秀という人物でした。この信秀の六代後の子孫、宮重楽山こそ11世本因坊元丈で、その子、岩之介が13世本因坊丈策です。
 元丈と長谷川平蔵は同時代の人物です。元丈が本因坊家の跡目となったのは平蔵が亡くなってから二年後の事ですので平蔵は元丈を知っていたかは分かりませんが、元丈の方は火盗改として大活躍していた長谷川平蔵を知っていた可能性はあります。
 なお、元丈の先祖、宮重作兵衛信秀の墓が移転した戒行寺の墓所にあり、そちらも取材しましたので、後日紹介します。

長谷川家の墓
長谷川家の墓

戒行寺:東京都新宿区須賀町9

| 本因坊家 | 12:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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井山七冠達成

井山さんがついに七冠達成です。
十段戦で伊田さんを倒しました。
これまで十段戦で挑戦権がとれなかったり、天元、王座と失ったりで応援している私は若干諦めてしまいそうでした。しかし、またまた来たチャンス。今度こそと思って応援していました。
おめでとうございますという言葉しかありませんが、世界戦での活躍も期待したいです。
アルファ碁の話題もありましたし、少しでも囲碁が注目されればいいなと思います。

| 囲碁トピックス | 17:40 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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鉄砲坂

 四谷で次の目的地へ向かう途中、鉄砲坂の標柱を見つけました。
 標柱の説明によると江戸時代には、このあたりに鉄砲組屋敷があったそうで、鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったためこう呼ばれるようになったそうです。
 また、それ以前は、この地に鈴降稲荷という稲荷社があったことから、稲荷坂とも呼ばれていたそうです。

鉄砲坂
鉄砲坂

鉄砲坂の標柱
鉄砲坂の標柱

東京都新宿区若葉3丁目~1丁目

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社 梅主長江邸跡

 明治33年に刊行された「方円社囲碁等級録」によると、方円社設立時のメンバーの一人、梅主長江が四谷に住んでいたことが分かりました。住所は「四谷区仲町3丁目26番地となっています。
 大正元年に刊行された地籍地図を基に、現在の地図と照合すると、新宿区若葉1丁目で、スマイルネットワークという会社がありました。場所は以前紹介した服部半蔵の墓がある西念寺のすぐ近くです。
 梅主長江(うめづちょうこう)は安井家門下で、元の名は白石喜三郎と言いました。、明治12年(1879)4月に囲碁研究会として発会した「方円社」に参加しますが、実力主義にこだわり家元の権威を認めない方円社の運営方針に反発した各家元が脱会し、門下の方円社社員の免状を剥奪したことに憤慨。自ら五段を返上して方円社に入社しています。方円社初期の主力メンバーとして社員の育成にあたっています。

方円社囲碁等級録(明治33)
方円社囲碁等級録(明治33)

大正元年当時の地図
大正元年当時の地図

現在の梅主長江邸跡
現在の梅主長江邸跡

【関連記事】 服部半蔵の墓

東京都新宿区若葉1丁目17

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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