烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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四谷木谷道場跡

 木谷実は若くして囲碁の天才と呼ばれ、中国から来た呉清源と「鎌倉十番碁」など数々の激戦を繰り広げると共に、協力して「新布石」を発表するなど囲碁界に大きな影響を与えています。
 木谷は棋士の育成に力を注いでいて、自宅に「木谷道場」を開き多くの門下生を育て上げます。大竹英雄、石田芳夫、趙治勲、小林光一など、後に囲碁界をリードする数多くの棋士が「木谷道場」で育っています。
 その「木谷道場」は、神奈川県平塚市にあった事で知られていますが、晩年、木谷は四谷三栄町の自宅に道場を開設しています。
 その詳細な場所は今回特定できませんでしたが、記録によると、木谷家の前に「日鉄四谷コーポ」というマンションがあって、その会議室が、アマチュア愛好家のための会場として使われていたそうです。
 さっそく、新宿区三栄町にある「日鉄四谷コーポ」へ行ってみました。しかし、マンション前のどこに木谷家があったのかまでは分かりませんでした。今回、一緒に取材の同行をしていただいた囲碁史会の南氏によると、近くに木谷家も買っていた豆腐屋があったそうで、そこで情報収集しようと探してみましたが見つけることが出来ませんでした。廃業されたのかもしれません。

日鉄四谷コーポ
日鉄四谷コーポ

日鉄四谷コーポ前
日鉄四谷コーポ前

日鉄四谷コーポ : 東京都新宿区三栄町10

| 日本棋院 | 07:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岡本太郎の像 持田製薬本社前

 四ツ谷駅近くにある持田製薬本社の正面玄関横に岡本太郎の作品が設置されています。
 「歓び」と名付けられた像は、1978年に創業65周年を迎えた持田製薬の社長が学生時代から岡本太郎と親交があり、その縁で記念碑として制作されたそうです。

持田製薬本社
持田製薬本社

岡本太郎の像「歓び」
岡本太郎の像「歓び」

持田製薬本社 : 新宿区四谷1-7

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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福羽美静の碑 四ツ谷駅

 JR 四ツ谷駅は、明治27 年(1894) に甲武鉄道の駅として開業。後に旧国鉄が買収しています。四ツ谷駅周辺はかつて江戸城外壕のあった所で、駅は四谷見附跡付近に造られ、線路(現中央線)は外壕に沿って築堤下に敷かれています。

四ツ谷駅入口
四ツ谷駅入口

 四ツ谷駅の入口に目立ちませんが小さな石碑があります。明治 33年 (1900) に建立された碑は「四谷停車場桜植樹記念碑」だそうで、現存していませんが、明治29年に駅前から築堤にかけて桜の木が植樹され、その4年後に碑が建立されたそうです。
 建立したのは、先日向島の「三囲神社」にある棋士・中山善吉の碑の撰文として紹介した子爵福羽美静で、和歌が添えられています。

   『たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや』

 福羽美静は、国学者、歌人としても知られ、子爵として貴族院議員を務めた政治家でもありました。

福羽美静の碑
福羽美静の碑

福羽美静の書
福羽美静の書

新宿区四谷 1-5-25 JR 東日本四ツ谷駅前

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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四谷見附橋

 四谷見附橋は、JR中央線四谷駅のホームをまたぐ新宿通りが通っている橋です。江戸時代には、ここに四谷見附門があり、甲州街道へつながっていました。
 現在の橋は2代目で、昭和62年(1987)から架け替え工事が行われ、片側3車線の広い橋となりましたが、初代の橋は大正2年(1913)に完成した都内最古の陸橋で、高欄や橋灯などは隣接している迎賓館との調和をとり、ネオバロック様式の装飾が施されていました。架け替えにあたり初代の橋は解体される予定でしたが、保存を望む声も多く、八王子市の多摩ニュータウン長池公園を跨ぐ長池見附橋として移設されたそうです。二代目の橋も初代のイメージを踏襲したデザインとなっています。

四谷見附橋
四谷見附橋

橋の装飾
橋の装飾(橋灯)

橋のプレート
初代の橋のプレートが残されています。

千代田区六番町~新宿区四ツ谷一丁目

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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四谷見附

 JR四ツ谷駅の前にある四谷駅前交差点付近に、江戸城三十六見附の一つ「四谷見附」の石垣が残されています。
 見附とは枡形の城門の外側に面する部分の事で江戸時代は見張りの番兵が置かれていました。現在でも四谷見附・赤坂見附・牛込見附などの地名が残されています。
 四谷見附は半蔵門から甲州街道へ通じる要衝で、有事の際には将軍が甲府城へ向かうための通路でした。
 ちょうど四谷駅前交差点の所にあり、江戸時代には暮れ六ツ(午後6時)に扉が閉められ、夜間は通行出来なかったそうです。

四谷見附
四谷見附跡

四谷駅前交差点付近 (四谷駅は新宿区四谷一丁目、石垣は千代田区六番町)

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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将棋名人 木村義雄生誕の地

 墨田区東駒形で、将棋の十四世名人木村義雄生誕の地の説明板を見つけました。
 木村義雄は、明治38年(1905)に本所区表町39番地(東駒形1-18)に生まれています。
 子どもの頃から将棋や囲碁が強かった木村は、大正5年(1916)に十三世名人関根金次郎の下に入門し、「常勝将軍」として名を轟かせます。昭和13年(1938)に第一期実力制名人となり4期連続で名人位を防衛した木村は、昭和22年(1947)に塚田八段に敗れますが、昭和24年(1949)に再び名人となると、通算8期10年の間、その地位を守り続けます。昭和27年(1952)に大山八段に敗れた後は現役を退き十四世永世名人を襲位しました。
 なお、木村義雄は囲碁も大変強く、本因坊秀哉と打った棋譜が残されています。また、昭和13年(1938)に行われた本因坊秀哉の引退碁(木谷実と対局)では碁盤の前で対局を見つめる木村名人の姿が写真に残されています。

木村義雄生誕の地
木村義雄生誕の地

説明板
説明板

 墨田区東駒形1-18

| 囲碁史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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数拳の名手 野崎車応追悼碑

 向島の三囲神社境内で、江戸時代の文人、蜀山人(太田南畝)の漢詩が刻まれた碑を見つけました。蜀山人については上野恩賜公園に囲碁と関わりのある句碑がある事を以前紹介しています。
 三囲神社の碑は文化9年(1812)に建立された野崎車応という江戸時代の数拳の名手の追悼碑で、蜀山人が詠んだ数拳の詩を引用しただけで、蜀山人と野崎は直接関係あるわけではないようです。
 数拳とは2人が互いに片手の指で数を示すと同時に双方の出した数の合計を言い、当たった方が勝ちというゲームで中国がルーツであると言われています。長崎から入ってきた遊びなので長崎拳・崎陽拳とも呼ばれ、18世紀初頭には日本に広まっていたようです。この他、拳遊びには「三すくみ拳」というゲームもありました。江戸時代には様々な流派が存在していたそうで家元制度が導入されています。現在の「じゃんけん」は数拳の手の形に三すくみ拳のルールを取り入れ考案されたと考えられています。
  碑の漢詩は「ひらく手の五ゥは勝なり梅のはな」と詠まれてていますが、「五ゥ」の「ゥ」は「五」の読みを示すふり仮名であり「うっ(打っ)」の意味だそうです。

野崎車応追悼碑
野崎車応追悼碑

説明板
説明板

【関連記事】 囲碁を題材にした蜀山人の碑(上野公園)

三囲神社:東京都墨田区向島2-5-17

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中山善吉の書の師 小林一菴の碑

 墨田区向島の三囲神社にある「奇才子中山善吉氏之碑」の斜め前に、小林一菴という人物の碑があります。詳細は分かりませんが、明治期に活躍した書家だったようで「和歌筆道教訓百首」(明17.5)、「筆道三伝」(明12.10)などの著書も見受けられます。
 囲碁の奇才であった中山善吉について調べていたところ、善吉は二人の兄と共に、小林一菴に師事していたそうです。

小林一菴の碑
小林一菴の碑

 碑は明治29年に建立されていますが、篆額は榎本武揚、書丹は中山善吉の兄である一亭渡邊智道です。
 さらに、碑建立の発起人の中に中山善吉の兄、中山一槐の名を見ることが出来ました。

uvs160409-001.jpg
篆額は榎本武揚

碑建立発起人の一人、中山一槐
碑建立発起人の一人、中山一槐

東京都墨田区向島2-5-17

| 幕末・明治維新 | 09:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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囲碁の奇才、中山善吉の碑

 囲碁史の取材で久しぶりに墨田区向島の三囲神社にある「奇才子中山善吉氏之碑」を訪れました。
 以前も紹介しましたが、中山善吉については本因坊秀栄や田村保寿(本因坊秀哉)との棋譜が残されているものの、14歳と若くして亡くなったため、どういった人物であったか余り知られていませんでした。
 碑文によると、横浜方円社に通っていたようで、その実力を村瀬秀甫(本因坊秀甫)に絶賛されています。その後、土屋秀元(本因坊秀元)の門人となり頭角を現していきますが病により、明治26年に亡くなっています。
 本因坊家では亡くなった善吉に三段の特別昇段を贈っていますが、僅か14歳で亡くなった少年にこの様な立派な碑が建立された事からも、善吉に対していかに期待していたかが分かります。

三囲神社の鳥居
三囲神社の鳥居

三囲神社
三囲神社

奇才子中山善吉氏之碑
奇才子中山善吉氏之碑

 以前紹介した通り、碑の題額は福岡藩最後の藩主 黒田長知によるものです。黒田公は度々碁会を開催するなど、明治期の囲碁界を支えた人物の一人です。
 和文撰は福羽美静となっています。子爵であり貴族院議員であった福羽美静は、国学者、歌人としても知られています。
 書は、一亭渡邊智通で善吉の実兄だそうですが、詳細は分かりませんでした。

題額:黒田長知、和文撰:福羽美静
題額:黒田長知、和文撰:福羽美静

 今回訪れた中で、最大の収穫は碑の建立の賛同者の中に「岩田周作」の名を見つけた事です。岩田周作は李氏朝鮮末期の革命家、金玉均が日本亡命中に名乗っていた名前で、金玉均は本因坊秀栄の親友で、対立していた囲碁家元と方円社の和解に尽力し本因坊秀甫誕生に貢献するなど、囲碁界と大変関わり深い人物です。
 特に注目されるのが碑が建立された時期で、中山善吉が亡くなったのは明治26年。碑が建立されたのが明治27年9月10日となっています。金玉均は明治27年3月28日に上海で暗殺されていますので、碑建立に賛同した金玉均ですが、その完成を見ることなくこの世を去ったことになります。

岩田周作(金玉均)の名
岩田周作(金玉均)の名

【関連記事】 囲碁の奇才子 中山善吉の碑

東京都墨田区向島2-5-17

| 本因坊家 | 09:46 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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高村光雲、光太郎

 染井霊園の一画にある高村家の墓、それは高名な彫刻家・高村光雲と、その息子で詩人としても知られる高村光太郎の墓です。
嘉永5年(1852)に江戸下谷で生まれた光雲は、本名を中島幸吉といいましたが、仏師高村東雲に師事し後に東雲の姉の養子となった事から高村姓となります。西洋彫刻の写実性を取り入れ彫刻の近代化に尽した光雲は、東美校教授となり多くの後進を育成しています。代表作に上野恩賜公園の西郷隆盛像、皇居前広場の楠公像(頭部を担当)などがあります。

高村家の墓
高村家の墓

 高村光雲の子、高村光太郎は彫刻家として活躍する一方、詩人としても活動、第一詩集『道程』を刊行します。その後、妻智恵子を病で亡くし、『智恵子抄』を発表しますが、太平洋戦争を聖戦として戦争協力詩・愛国詩を発表した事に責任を感じ、戦後岩手県花巻郊外に粗末な小屋を建てて、そこで7年間移り住んでいます。光太郎は昭和31年(1956)に73歳で亡くなっています。

側面に刻まれた戒名
側面に刻まれた戒名

 染井霊園の高村家の墓の側面には戒名が刻まれていますが、調べてみると、高村光雲、光太郎親子の他に光太郎の妻、智恵子の戒名もありました。

高村光雲 : 善照院心誉勲徹光雲大居士
高村光太郎 : 光珠院殿顕誉智照居士
高村智恵子 : 遍照院念誉智光大姉

墓所の碑
墓所の碑


染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1  1種ロ6号1側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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