烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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反骨のジャーナリスト 宮武外骨の墓

 染井霊園に眠る「宮武外骨」、その名前はなんとなく聞いたことがあったので、お墓を見かけたあと、どんな人物であったか調べてみました。
 宮武外骨は、明治・大正期に活躍したジャーナリストで、新聞記者、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家など、様々な顔をもった人物です。
 「外骨」という名前は号ではなく本名だそうで、慶応3年(1867)に香川県の庄屋の家に生まれ、幼名は亀四郎と言ったそうですが、亀が「外骨内肉」の動物であるとして17歳の時に本名を「外骨」 に改めています。しかし役所や図書館の窓口などで名前を記入しても本名を書くように言われる事が多かったため、「是本名也」と彫った印鑑を持ち歩いていたそうです。このエピソードから分かるように、かなり変わった人物で反骨精神に富んだジャーナリストだったそうです。
 明治22年(1889)に自ら発行した「頓智協会雑誌」で大日本帝国憲法発布をパロディ化し不敬罪に問われ禁錮3年の実刑を受けたのを初め、反権力の精神を貫いた外骨は、戦後もGHQが検閲や発禁処分を繰り返したたため「何が言論の自由か」と憤り、戦前の日本政府と大して差が無いと批判を展開しています。

宮武外骨の墓
宮武外骨の墓

名刺受
名刺受

染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1
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| 明治・大正時代 | 07:07 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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高田早苗の墓

 染井霊園にある、教育家で政治家でもあった高田早苗の墓にお参りしました。
 安政7年1860年(1860)、江戸の深川で生まれた高田は、明治15年(1882)に東京大学を卒業すると、知り合いの法学者、小野梓の紹介で大隈重信と出合い「立憲改進党」に参加します。
 大隈が設立した東京専門学校(早稲田大学)にも参加し講師を務め、明治40年(1907)に校長・学監制をが廃止されし、総長・学長制が採用されると高田が初代学長に就任しています(初代総長は大隈重信)。
 明治20年(1887)から三年間、読売新聞の主筆を務めた高田は明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙で当選し政治家へ転身。大正4年(1915)に貴族院議員に勅撰されると第2次大隈内閣では文部大臣に就任しています。
 現在、早稲田大学には高田の功績をたたえて名づけられた「高田早苗記念研究図書館」があります。

高田早苗
高田早苗の墓

顕彰碑
顕彰碑

染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1 1種イ3号23側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第25・28代内閣総理大臣 若槻礼次郎

 東京都豊島区駒込にある「染井霊園」を訪れました。都立霊園の中で最も規模が小さい霊園ですが、数多くの著名人も眠っています。
 染井霊園の中にある若槻礼次郎のお墓にお参りしました。 島根県出身の若槻は、明治25年(1892)帝国大学法科大学を卒業し大蔵省に出仕すると、主税局長、大蔵事務次官を歴任します。
 明治44年(1911)貴族院議員に転ずると、第3次桂内閣、第2次大隈内閣で大蔵大臣に就任しています。大正13年(1924)加藤高明内閣では内務大臣に就任し、普通選挙法と治安維持法の成立に尽力しています。
 大正15年(1926)に加藤首相が急死したため、若槻は内閣総理大臣臨時代理を経て、第1次若槻内閣を組閣します。昭和金融恐慌勃発による混乱の中退陣しましたが、昭和5年(1930)に開催されたロンドン海軍軍縮会議首席全権を経て、昭和6年(1931)に再び首相に就任。景気回復のため満州へ進出しようという機運に否定的な若槻でしたが、満州事変勃発によりに軍部や国民の理解が得られず退任、日米開戦後は和平工作を行い、ポツダム宣言受諾などにも大きく関わります。
 戦後、「戦前を代表する平和主義者」として東京裁判の首席検察官を務めたジョセフ・キーナンに称えられた若槻ですが、昭和24年(1949)に84歳で亡くなっています。

若槻礼次郎の墓
若槻礼次郎の墓

染井霊園:東京都豊島区駒込5-5-1 1種イ8号1側

| 明治・大正時代 | 15:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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俳人・夏目成美 囲碁の句

 駒込の蓮華寺に、江戸時代後期の俳人、夏目成美の墓があります。
 夏目は蔵前札差夏目八郎右衛門宗成の五男で、後に父親の跡を継ぎます。父の影響で幼い頃より俳諧を学び、江戸四大家の一人と称された夏目は、文化13年(1816)に68才で亡くなっています。

蓮華寺
蓮華寺

 ところで、夏目は囲碁に関する句も詠んでいます。

 「夕立や打さしの碁を崩しける」

  夏の日の情景が目に浮かぶような良い句だと思います。

夏目成美の墓
夏目成美の墓

豊島区駒込7-2-14

| 囲碁史あれこれ | 23:57 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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備中浅尾藩蒔田家の墓

 駒込の勝林で田沼意次の墓へお参りした際、近くに「華族蒔田家歴世之墓」と刻まれた墓石があり、おそらく大名クラスの墓であろうと思い後で調べてみました。
 蒔田家は、現在の岡山県総社市にあった備中浅尾藩の藩主です。初代藩主、蒔田広定は、豊臣秀吉の小姓頭を務めていた伊勢雲出1万石の大名でしたが、関ヶ原の戦いで西軍に属していたため改易となります。その後、浅野長政らの働きかけで罪を許され、備中浅尾に1万石の領地を与えられて浅尾藩を立藩しています。
 広定の跡を継いだ二代定正は、父の遺言により3000石を弟の長広に分与したため、大名では亡くなり8316石の旗本となっています。以降、蒔田家は寄合旗本として浅尾を治めてきましたが、幕末の最後の藩主、蒔田広孝は江戸市中警備の功績により、再び1万石の大名に復活しています。広孝は明治以降、子爵に叙され、初代総社町長などを歴任しています。

華族蒔田家歴世の墓
華族蒔田家歴世の墓

備中浅尾藩初代 蒔田広定の墓
蒔田広定の墓

豊島区駒込7-4-14

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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田沼意次の墓 勝林寺

 駒込にある勝林寺には将軍徳川家重、家治に重用され、権勢をほしいままにした老中田沼意次の墓があります。
 田沼の父で紀州藩の足軽であった田沼意行は紀州藩主、徳川吉宗が将軍に就任した事により江戸に出て旗本となります。
 意次は吉宗の後継者である家重の小姓として仕え、家重が将軍に就任すると御側御用取次として頭角を現し相良1万石の大名に取り立てられます。家重の次の家治も田沼を重用し老中に昇進するとともに、領地も加増され5万7,000石の大名となります。
 田沼が幕府の実権を掌握し、様々な幕政改革を行った時期は「田沼時代」と呼ばれています。その政策は悪化する幕府の財政赤字を食い止めるための重商主義で、株仲間の結成、銅座などの専売制、鉱山の開発などを行っています。
 田沼の政策は現在の資本主義にも通じる先進的なものでしたが、金銭中心の社会では贈収賄が横行することとなり、農村では、利益の薄い農業を農民が放棄し、都市部へ流入するという事態を招きます。
 都市部の治安の悪化や、一揆の発生、一方で江戸商人への優遇により、次第に田沼政治への批判が集まっていく中、天明4年(1784)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺されたことを契機に権勢が衰え始め、天明6年(1786)に将軍家治が亡くなった直後に失脚。厳封の上、財産の一部が没収され、孫で後継者の田沼意明は陸奥下村藩1万石に減移封となるなど徹底した粛清を受け失意のうち、天明8年(1788)に死去。享年70でした。

勝林寺
勝林寺

田沼意次の墓
田沼意次の墓

 田沼意次の墓の隣りには、田沼家累代の墓がありますが、意次の父である田沼意行以降の墓のようです。
 女性の墓は意行や意次の夫人の名前もあるようです。

田沼家累代の墓
田沼家累代の墓

田沼家の女性の墓
田沼家の女性の墓

豊島区駒込7-4-14

| 江戸時代 | 06:51 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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妖怪天井絵 円流院

 鳥取県西部の大山にある円流院は、大山寺の支院の一つです。
 円流院の天井には、「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる水木しげる氏による妖怪画が描かれています。
 108もの妖怪の絵は圧巻で、寝そべって眺める事ができます。鬼太郎ファミリーはもちろん、水木先生が、円流院のために書き下ろした大山に伝わる妖怪「カラス天狗」も見る事ができます。

円流院境内
円流院境内

円流院
円流院

妖怪の天井絵
妖怪の天井絵

鬼太郎の絵
鬼太郎の絵

カラス天狗
カラス天狗

鳥取県西伯郡大山町大山58

| 旅行記 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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境港駅から水木しげるロードへ

 JR境線の境港駅については先日紹介しましたが、駅前から本町アーケードの約800メートルの間は、山陰地方を代表する観光地「水木しげるロード」と呼ばれています。百数十体の妖怪のブロンズ像が並び連日大勢の人々で賑っています。

みなとさかい交流館
みなとさかい交流館

境港駅前の鬼太郎ポスト
境港駅前の鬼太郎ポスト

水木しげるロード
水木しげるロード

ぬらりひょん
ぬらりひょん

死神
死神

| 旅行記 | 08:21 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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キジムナー駅(馬場﨑町駅)

 馬場崎町駅(ばばさきちょうえき)は、JR西日本の境線の駅で終点の境港駅の隣りの駅です。妖怪の名前である「キジムナー駅」の愛称で呼ばれています。
 キジムナーは沖縄に伝わる妖怪で、樹木の精霊であると言われています。
 体中、あるいは赤、または顔」が真っ赤な子供の姿で現れると言われていますが、その他、手が木の枝のように伸び、、一見老人のように見える妖怪であるとも言われています。
 人間の船に同乗し、一緒に漁を行い褒美にご馳走をいただいたとか、夕食時にかまどの火を借りに来たなど、人間に身近な存在として伝承されています。

馬場﨑町駅
馬場﨑町駅

駅ホーム
駅ホーム

説明板
説明板


鳥取県境港市馬場崎町303

| 旅行記 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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一反木綿駅(上道駅)

 JR西日本、境線の上道駅(あがりみちえき)には「ゲゲゲの鬼太郎」の人気キャラクター「一反木綿駅」の愛称が付いています。
 一反木綿は、鹿児島県の現在の肝付町に伝わる妖怪で、約一反(長さ約10.6メートル、幅約30センチメートル)の白い布のようなものが夕暮れ時にヒラヒラと飛んで、人を襲うとされています。
 昔、子供が遅くなるまで遊んでいると「一反木綿が出るよ」と言って戒めていたと言われています。
 水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場してからは広く名が知られるようになり人気キャラクターとして活躍しています。

上道駅
上道駅

説明板
説明板

鳥取県境港市中野町字下駒ケ坪1643

| 旅行記 | 13:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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