烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2016年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年03月

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松竹大船撮影所跡

 鎌倉市大船といえば、映画会社・松竹の大船撮影所があった事でも知られています。
 もともと松竹は東京都大田区の蒲田撮影所で撮影をしていましたが、町工場の多い蒲田では撮影中に騒音を拾ってしまうため、昭和11年(1936)に撮影所を大船へ移転。以来、『男はつらいよ』シリーズなど、数多くの名作がここで撮影されました。
 渥美清の死後、『男はつらいよ』シリーズも終了し、大船撮影所も平成12年(2000)に閉鎖。現在はイトーヨーカ堂大船店や鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスになっていますが、周辺の信号や橋などに、現在でも松竹の名を見ることが出来ます。

松竹前交差点
松竹前交差点

松竹第二号橋
松竹第二号橋

松竹大船撮影所落成記念の桜贈呈の碑
松竹大船撮影所落成記念の桜贈呈の碑

松竹大船撮影所落成記念の桜贈呈の碑
松竹大船撮影所落成記念の桜贈呈の碑

イトーヨーカドー 大船店 : 神奈川県鎌倉市大船6丁目1−1
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| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大船観音

 鎌倉への玄関口であるJR大船駅の近くに巨大な観音像が見えます。曹洞宗の「大船観音寺」にある大船観音像です。
 大船観音寺は大本山總持寺の直末寺で、ここに、金子堅太郎氏、頭山満ら有志が巨大観音像を造ろうと昭和2年に「護国大観音建立会」が組織され寄付金が集められます。
 昭和4年に工事が着手され、当初は奈良東大寺の大仏の2倍の高さがある立像が建立される予定でしたが、建立予定地が崩れやすい地層であったことから、胸像に変更されたといわれています。
 しかし、世界恐慌による資金難で昭和9年に工事が中断され、観音像は未完成のままの状態で23年間放置。戦後の好景気に推されて工事が再開され、昭和35年に落慶式が行われています。

大船駅から臨む大船観音寺
大船駅から臨む大船観音寺

大船観音
大船観音

神奈川県鎌倉市岡本1丁目5−3

| 旅行記 | 07:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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北条時頼と囲碁

 鎌倉の明月院に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の墓があります。時頼は晩年、出家して、この地に「最明寺」を建立し暮らしていたそうです。
 有力御家人、三浦泰村一族を滅ぼすなど、北条氏による執権政治を強固にした時頼は、数々の善政を行った名君でもあったと言われています。
 鎌倉幕府は、大事件が起こると諸国の武士を鎌倉によび集めていましたが、「鉢木」という謡曲(能の曲)では「いざ鎌倉」という言葉が使われています。
 謡曲「鉢木」は北条時頼が執権を退いた後、僧となって諸国を回ったという伝説から生まれたもので、次のような物語です。
 上野国 (群馬県)の佐野(高崎市内)に、佐野源左衛門常世という貧しい武士が住んでいました。
 ある雪の夜に常世の家に旅の僧がやってきて一晩泊めてくださいとたのまれます。常世は僧を泊めることとし、粟のご飯でもてなし、マキがなくなると、大切な鉢植えの梅・松・桜の木を囲炉裏にくべ暖をとったそうです。常世は僧に、一族に領地を取られ、今は落ちぶれてしまったが、「いざ鎌倉」というときには鎌倉に一番にかけつけて戦う覚悟だと語りました。
 その後、鎌倉幕府から、集まれという連らくが来たので、常世は、やせ馬に乗って、鎌倉に駆け付けますが、そこには、雪の夜に泊めた旅の僧がいて、前執権・北条時頼であったとわかりました。時頼は、常世の言葉に嘘がなかった褒美として、奪われた領地を取りもどし、大切な木をくべたもてなしのお礼として、梅田・松井田・桜井の三ヶ所の土地が更に与えられたと言われています。

北条時頼廟
北条時頼廟

 ところで、北条時頼は囲碁の愛好家であったと言われています。当時、博打を行う武士が多かったため時頼は武士による博打の禁止令を出します。この時、「但し囲碁・将棋者は非制限」とした事から、武士の間で囲碁が更に広まっていったそうです。

北条時頼公の墓
北条時頼公の墓

神奈川県鎌倉市山ノ内189

| 本因坊登場以前の囲碁界 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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明月院 鎌倉

 臨済宗建長寺派に属する明月院は、永暦元年(1160)に平治の乱で戦死した首藤俊道の供養のため息子の首藤経俊が創建した「明月庵」が始まりであると伝えられています。
 その後、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が執権を退いた後、出家してこの場所に「最明寺」を建立し晩年を暮らし、時頼の子・八代執権・北条時宗が禅興寺として再興しています。
 室町時代に入ると、康暦2年(1380)に山内上杉家当主で関東官領の上杉憲方が禅興寺を中興、塔頭の明月院を創建しますが、明治に入り禅興寺は廃寺となり、明月院だけが現在残っています。

明月院
明月院入口

方丈
方丈

庭園
庭園

 「やぐら」は鎌倉時代に、この辺りのみで建造されていた洞窟墳墓です。中でも、明月院やぐらは県内最大級で、祀られているのは中興開基の関東官領・上杉憲方であると言われています。

明月院やぐら
明月院やぐら(上杉憲方の墓)

 江戸時代に水質の良くなかった鎌倉において、特に良質の水が湧いた10ヶ所の井戸を「鎌倉十井」と呼びました。
 「瓶の井」は「鎌倉十井」の中でも現在も使用できる数少ない井戸で、岩盤を垂直に貫いて造られ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから、その名があります。

瓶の井
瓶の井

神奈川県鎌倉市山ノ内189

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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正力松太郎の墓

 呉清源と木谷実による「鎌倉十番碁」の舞台となった円覚寺を久しぶりに訪れました。
 円覚寺には元読売新聞社社主で日本テレビ放送網などを経営し、プロ野球・読売ジャイアンツを創立、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父とも呼ばれた正力松太郎の墓があります。

円覚寺入口
円覚寺入口

 正力松太郎は、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省を経て、警視庁警務部長になりますが、大正12年(1923)、当時の皇太子(昭和天皇)が狙撃された「虎の門事件」の警備責任から引責辞職します。
 翌年、経営難にあった読売新聞を買収し社長に就任した正力は、政財界に影響力を持っていく一方、昭和9年(1934)にベーブ・ルースらアメリカ大リーグ選抜チームを招聘、大日本東京野球倶楽部(読売ジャイアンツ)を創立します。
  その後、大政翼賛会総務に就任するなどしたため、戦後GHQにより公職追放され、復帰後は 日本テレビ初代社長に就任する一方、政界にも進出。昭和30年(1955)の第27回衆議院議員総選挙で当選すると、 原子力委員会の初代委員長、初代科学技術庁長官などを歴任し、昭和44年(1969)10月9日、満84歳で亡くなっています。亡くなった当日は奇しくも、自ら創設した、読売ジャイアンツがセントラルリーグを制覇した日だったそうです。

 ところで、正力松太郎は囲碁界とも関わり深い人物でした。正力は買収した読売新聞で、スポーツや囲碁将棋欄を拡充、創設間もない「日本棋院」が、脱退したメンバーで創設された「棋正社」と対立すると、正力は「院社対抗戦」を企画し、その様子を新聞に掲載します。対抗戦ではかつて本因坊家継承を争った本因坊秀哉と雁金準一の対局が話題となり、読売新聞の売上げは一挙三倍に増えたそうです。日本棋院が選定する「囲碁殿堂表彰」でも2014年度以降、候補者としてノミネートされています。

正力松太郎の墓
正力松太郎の墓

 なお、墓誌を見てみると、正力松太郎の隣りに、平成23年(2011)に92歳で亡くなった松太郎の長男、正力亨の名も見ることが出来ます。
 正力亨氏は、読売新聞グループ本社社主。読売ジャイアンツオーナーなどを歴任。ジャイアンツを愛し、長嶋茂雄や王貞治の良き理解者であったと言われます。
 実父の正力松太郎が、大正力と呼ばれたのに対し、亨氏は小正力と呼ばれていたそうで、平成8年(1996)に、球団オーナーを渡邉恒雄に譲り、名誉オーナーへ就任。平成23年(2011)に92歳で亡くなっています。

墓誌に刻まれた「正力松太郎」と「正力亨」の名
「正力松太郎」と「正力亨」の名

鎌倉市山ノ内 円覚寺境内

| 囲碁史あれこれ | 09:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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扇谷上杉管領屋敷跡

 鎌倉市扇ヶ谷の太田道灌の屋敷跡である英勝寺とJR横須賀線を挟んで反対側にある護国寺の駐車場付近に「扇谷上杉管領屋敷跡」の碑があります。太田道灌の主君である扇谷上杉氏の屋敷があった場所で、「扇ヶ谷」という地名も上杉氏に由来します。
 上杉氏は建長4年(1252)に、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が鎌倉幕府第六代将軍として鎌倉に下向した際に、公家であった上杉重房が親王に従って下向してきたのがはじまりで、重房は足利氏と婚姻関係を結び、のちに室町幕府を開く足利尊氏もその血を引いています。足利尊氏が幕府を開くと鎌倉には関東を統率するため鎌倉府が置かれその長官として尊氏の四男、足利基氏を鎌倉公方に任命し派遣します。足利一門である上杉憲顕は、それを補佐する関東管領に就任し、以降、鎌倉公方と関東管領は世襲制となります。
 関東管領の上杉家は山内・犬懸・扇谷・宅間の四家がありましたが、実質的には山内上杉家がその地位を独占しています。扇谷上杉氏はそれほど大きな勢力ではありませんでしたが、鎌倉公方と関東管領がやがて対立し関東で長きに渡る争いが繰り返される中、家臣の太田道灌の登場により扇谷上杉氏は勢力を拡大、山内上杉家を凌ぐ勢力となります。
 しかし、扇谷上杉家の当主となった定正は、文明18年(1486)に太田道灌が謀反を起こすのではないかと疑い謀殺。その後、山内上杉家と対立し、戦いを続ける中、北条早雲(後北条氏)が勢力を伸ばし.、天文15年(1546)に北条氏康との戦いに敗れ滅亡しています。ちなみに、山内上杉家は関東管領となった憲政が北条氏に対抗するために越後の長尾景虎を頼り、養子にして家督と関東管領職を譲ります。それが後の上杉謙信です。

護国寺
護国寺

「扇谷上杉管領屋敷跡」石碑
扇谷上杉管領屋敷跡

| 室町時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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太田道灌邸跡 英勝寺

 鎌倉の英勝寺の総門近くに太田道灌邸旧蹟の碑がたっています。江戸城や岩槻城を築城したことで知られる太田道灌(資長)は扇谷上杉定正の重臣で、享徳の乱や長尾景春の乱など数多くの合戦で活躍し、扇谷上杉は勢力を拡大していきますが、余りに優秀であったため下剋上を恐れた主君の定正に暗殺されています。
 英勝寺は江戸城築城まで太田道灌が住んでいた屋敷跡とされ、道灌の子孫で徳川家康の側室であった英勝尼が、三代将軍家光より祖先ゆかりの地を賜り建立した尼寺です。
 英勝尼は初代水戸藩主、徳川頼房の養母を務めたため、英勝寺は頼房の娘小良姫を門主に迎え開山され、以降、歴代の住持は水戸家の姫が務めていたそうです。

英勝寺
英勝寺

太田道灌邸跡の碑
太田道灌邸跡の碑

神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3

| 室町時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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尼将軍北条政子、鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓

 鎌倉五山第3位の福寿寺には開基の北条政子と、その息子である鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である北条政子は伊豆の豪族、北条時政の長女で、流人として伊豆に流された頼朝と恋仲となり周囲の反対を押し切り結婚。そのため北条氏は頼朝の監視役から有力な支援者へと変わり鎌倉幕府では執権として政権を支えていくこととなります。
 政子は頼朝が存命中は御台所と呼ばれていましたが、夫の死後には出家して尼御台と呼ばれるようになり、頼朝の跡を継ぎ二代征夷大将軍となった嫡男・頼家、そしてその弟の三代将軍実朝が相次いで暗殺され、京から幼い藤原頼経を新将軍として招くとその後見人として幕政の実権を掌握、「尼将軍」と称されています。

北条政子の墓
北条政子の墓

 源頼朝と北条政子の子である源実朝は、兄の二代征夷大将軍源頼家が北条氏を初めとする有力御家人と対立し追放されると、12歳で征夷大将軍に就いています。
 将軍就任当時、実朝は幼く政治的実権は全くありませんでした。そうした中、初代執権で実朝の祖父である北条時政はライバルを排除し支配体制を固めていきますが、後妻の牧の方と組んで実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を新将軍としようとしたことから子供の北条政子や義時により伊豆国に幽閉される「牧氏事件」が起きます。
 やがて成長した実朝は徐々に政治的関与を深めていますが、建保7年(1219)、鶴岡八幡宮を参拝中、潜んでいた兄頼家の子、公暁により暗殺されます。公暁は、実朝を親の仇として討ったと言われますが、その背景には不明な点が多く、北条氏による陰謀、北条氏の政敵である三浦氏による北条打倒が目的、後鳥羽上皇による幕府転覆の陰謀などがささやかれています。いずれにしても実朝がいなかったため、源氏による将軍家の血筋は途絶えてしまいます。以降は京の公家から将軍を迎え執権北条氏が政治を行う執権政治が始まっています。

源実朝の墓
源実朝の墓

実朝生誕800年記念碑
実朝生誕800年記念碑。平山郁夫書

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7

| 鎌倉時代 | 10:43 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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鎌倉 寿福寺

 鎌倉市扇ヶ谷にある寿福寺は建長寺は源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)に創建、円覚寺に続く鎌倉五山第3位の寺院で、開基は頼朝の夫人である北条政子、開山は臨済宗建仁寺派の開祖、栄西です。

寿福寺山門
寿福寺山門

 寿福寺は先日紹介した、源氏と関わり深い「源氏山」のふもとにあり、かつては頼朝の父・源義朝の屋敷があった場所だそうです。

源氏山の碑
源氏山の碑

 境内の墓地には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があり、陸奥宗光、高浜虚子などの著名人の墓もあるそうです。

山門
山門

仏殿
仏殿

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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佐助稲荷神社

 鎌倉市佐助にある「佐助稲荷神社」は出世開運スポットとして知られています。
 源頼朝が伊豆に流されていた頃、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたと言われ、その後、頼朝は平家を滅ぼし、鎌倉に武家政権を築くと、この地にあった祠を見つけ出し社殿を建立します。それが佐助稲荷神社の始まりで、頼朝が武家政権を築き上げたことから「出世稲荷」とも呼ばれています。

佐助神社入口
佐助神社入口

神社参道
神社参道

石段の上より
石段の上より

拝殿
拝殿

奉納された狐
奉納された狐

鎌倉市佐助2-22-12

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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