烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2015年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年12月

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勝専寺の赤門と金玉均の碑

 足立区千住にある勝専寺は、赤門のある寺として知られています。勝専寺は、文応元年(1260)に創建されたといい、荒川の水底から引き上げられ、千住の地名の由来になったという木造千手観音立像が安置されています。(非公開)
 江戸時代には日光社参に際して将軍の御旅所になり、徳川家忠・家光・家綱らが利用したとの記録が残っています。赤門は江戸時代、将軍の息女が嫁いだ大名家の屋敷に建設されるなど将軍家と関わりが深い事を示しています。
 勝専寺は「おえんま様」の愛称でも親しまれ、境内の閻魔大王堂には寛政元年(1789)に開眼された「えんま王坐像」が鎮座されています。毎年1月15・6日と7月の同日に縁日が開かれています。
 ところで、境内の鐘楼は当初安永4年(1775)に建設されますが、明治に入って破損したため明治24年(1891)再建したそうです。
 そのいきさつが記された「鐘楼建築記念碑」が鐘楼の石垣に埋め込まれていますが、碑の撰文は朝鮮の革命家で当時日本に亡命していた金玉均によるものです。金玉均は囲碁界とも関わりが深く、本因坊秀栄とは親友であったと言われています。
 なお、この時の鐘は戦時中の金属供出で失われたため、昭和34年(1959)に地元有志の募金で再鋳されています。

勝専寺の赤門
勝専寺の赤門

閻魔堂
閻魔堂

鐘楼
鐘楼

鐘楼建築記念碑
鐘楼建築記念碑

金玉均の撰文
金玉均の撰文

足立区千住2-11
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| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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徳川家康 天下泰平の軌道

 先週、取材のため、あちこちを駆け回って、中々ブログも更新できなかったのですが、それも一段落、金曜日には「囲碁史会」があり参加してきました。
 そして昨日、ようやく時間がとれたので、以前から行きたかった羽田空港第2ターミナルのディスカバリーミュージアムで開催中の企画展「徳川家康 天下泰平の軌道」を見学してきました。
 展示品の中には、徳川家康所用の碁盤や碁筍もあります。しかも、入城無料で撮影もOKでした。
 企画展は12月13日までですので、興味のある方はお早めに見学に行って下さい。
 そういえば、今回の囲碁史の取材に同行していただいた囲碁史会員の徳弘さんは、同日に千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で開催中の「大久保利通とその時代」を見に行くと言っておられました。こちらでは大久保利通愛用の碁盤が展示されているそうですが、残念ながら私は行けそうもありません。

ミュージアム入口
ミュージアム入口

入口の看板
入口の看板

徳川家康の碁盤
徳川家康の碁盤

水戸光圀の印籠
水戸光圀の印籠

東京都大田区羽田空港3-4-2 第2旅客ターミナル3階

| 囲碁史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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開港の道・山下臨港線プロムナード

 横浜市の桜木町駅前から新港地区を経て、そこから遊歩道で山下公園を通過し、「横浜人形の家」の横を抜けてフランス橋から港の見える丘公園へ至るルートを「開港の道」といいます。
 その中で、「山下臨港線プロムナード」は、新港地区と山下公園とを結ぶ遊歩道で、国鉄山下臨港線跡を整備したものです。
 プロムナードから見渡すランドマークタワーや観覧車など「みなとみらい21」の景色は絶景で、数多くのドラマのロケ地としてテレビでもお馴染みの風景です。

開港の道・山下臨港線プロムナード
開港の道・山下臨港線プロムナード

プロムナードから臨むみなとみらい21
プロムナードから臨むみなとみらい21

横浜市中区海岸通

| 旅行記 | 19:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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インド水塔 山下公園

 横浜市中区の山下公園内にあるインド水塔はインド式の水飲み場です。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災では、横浜も壊滅的被害を受け、多くの外国人も被災しています。そうした中、在日インド人救済のために横浜市民が住宅手当てを行うなど支援の輪が拡がります。
 昭和5年(1930)に瓦礫を埋め立てて山下公園が開園すると、昭和14年(1939)に、在日インド人協会より慰霊と横浜市民への感謝の意を込めて公園内にインド水塔が建立されました。
 イスラム教寺院モスクの中庭にあるハウズ(泉亭)を思わせる建物は、横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

インド水塔
インド水塔

天井
天井

インド水塔
インド水塔

横浜市中区山下町 山下公園

| 昭和時代 | 13:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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赤い靴はいてた女の子の像 山下公園

 横浜の海を望む山下公園に、赤い靴はいてた女の子の像があります。
 「赤い靴」は、大正11年(1922)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡です。

1.赤い靴 はいてた 女の子
  異人さんに つれられて 行っちゃった

2.横浜の 埠頭から 汽船に乗って
  異人さんに つれられて 行っちゃった

3.今では 青い目に なっちゃって
  異人さんの お国に いるんだろう

4.赤い靴 見るたび 考える
  異人さんに 逢うたび 考える

赤い靴はいてた女の子の像
赤い靴はいてた女の子の像

赤い靴の歌詞
赤い靴の歌詞

像が見つめる横浜港
像が見つめる横浜港

 「赤い靴」に登場する女の子は、静岡市清水区に住んでいた岩崎かよの娘「きみ」がモデルだと言われています。
 きみは明治37年(1904)に生まれ。家庭の事情で三歳の時にアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻の養女となります。
 やがて夫妻はアメリカに帰国しますが、結核に冒されていたきみは、孤児院に残され、9歳で亡くなっています。
 実母のかよは、その事を知らず、きみはアメリカに渡ったと思い込んで生涯を終えたといいます。そして、かよから話を聞いた野口雨情が歌詞を造り童謡「赤い靴」が完成したそうです。
 ただ、宣教師夫妻はきみとは面識がなかったという説もあります。

横浜市中区山下町 山下公園

| 旅行記 | 10:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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西洋理髪発祥の地 山下公園

 横浜の山下公園の、ほぼ中央に位置する林の中に、ユニークな形をした白い円柱状の彫刻が建っています。「西洋理髪発祥の地」の碑だそうです。
 安政6年(1859)に横浜が開港すると多くの外国の風俗が流入してきます。
 理容技術もその一つで、小倉虎吉ら結髪師が外国船に出入りして、船内の西洋理髪師から技術を習得。明治2年(1869)に横浜居留地に日本初の西洋理髪床を開業します。
 明治4年(1871)に政府は、日本近代化の一環として「断髪令」を発令。髷を切った髪型は「ザンギリ頭」と呼ばれ、「ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」という川柳に象徴されるとおり散髪は近代化の一つの象徴となりました。
 碑は、これを記念して平成元年11月に建てられたもので、彫刻は木村賢太郎氏製作でタイトル名「ザンギリ」、頭髪をセンター分けにした男の頭をかたどったものだそうです。

西洋理髪発祥の地碑
西洋理髪発祥の地碑

説明板
説明板

横浜市中区山下町 山下公園

| 明治・大正時代 | 09:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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水の守護神 山下公園

 横浜の山下公園の中央広場にある噴水の中に建っている石像は、横浜市の姉妹都市であるアメリカのサン ディエゴ市から昭和35年に寄贈されたものだそうです。

水の守護神

横浜市中区山下町 山下公園

| 旅行記 | 08:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「かもめの水兵さん」の碑

「かもめの水兵さん」の碑

 横浜の山下公園内に、童謡「かもめの水兵さん」の歌碑があります。
 昭和12年(1937)に発表された曲で、作詞は「赤い帽子・白い帽子」の作詞でも知られる武内俊子、作曲は「うれしいひなまつり」の作曲でも知られる河村光陽です。
 武内は昭和8年に、ハワイに布教のために旅立つ叔父、足利瑞義(浄土真宗本願寺派 勝願寺住職)を見送るために横浜港の大さん橋を訪れます。
 ここで、夕暮れの中で飛び回る数十羽のかもめの美しさに魅了された武内は、その帰途にかもめを水兵に見立てて詞を完成させます。
 詞を完成させた武内は、すぐに光陽に電話して内容を伝え、それを聞いた光陽は、その日のうちに曲を完成させたそうです。
 レコーディングにあたり、歌っていたのは河村光陽の娘で童謡歌手の 河村順子(当時11才)でしたが、順子はピアノで作曲している父の姿を見ていて最初から曲を全て覚えていたと言われます。
 山下公園内の碑は昭和54年(1979)に(横浜開港120年を記念して建てられています。

横浜市中区山下町 山下公園

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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日本郵船氷川丸 2

 昭和初期から貨客船として活躍した「氷川丸」には、様々な人々が乗船しています。 1932年の11次航海では、喜劇王のチャールズ・チャップリンが乗船、映画「街の灯」完成後に1年半にも及ぶ世界旅行を行ったチャップリンは氷川丸に乗船して来日しています。氷川丸の食事を大変気に入っていたという話も残っています。
 なお、チャップリンの来日時に、海軍の青年将校たちによるクーデター「五・一五事件」が発生。内閣総理大臣犬養毅が殺害されています。この時、チャップリンも暗殺対象に含まれていたそうですが、首相との会食がたまたまキャンセルとなったため難を逃れたそうです。
 氷川丸の内装はフランス人工芸家のマーク・シモンによるアールデコ様式が採用されています。1等サロン・喫煙室・食堂や入口階段に、その優れたデザインを見ることができ、戦前日本の造船技術や大型客船の船内意匠を現代に伝える貴重な遺構として高く評価されています。

氷川丸内部
氷川丸内部

氷川丸内部
氷川丸内部

食堂
食堂

窓から見える横浜市内
窓から見える横浜市内

一等客室
一等客室

三等客室
三等客室

神奈川県横浜市 中区山下町山下公園地先

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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日本郵船氷川丸 1

 横浜の山下公園に昭和初期から貨客船として活躍した「氷川丸」が博物館として一般公開されています。
 氷川丸は昭和5年に日本郵船がシアトル航路用に建造した貨客船で、当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載、水密区画を配置するなど先進的な安全性を誇っていました。
 船名は埼玉県さいたま市大宮区にある「氷川神社」に由来するものだそうで、ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請されています。
 第二次世界大戦の頃は、政府徴用船や海軍特設病院船に運用され、終戦までに3回も触雷したそうですが沈没を免れ、昭和22年に貨客船に戻されると国内航路定期船、外航不定期船、シアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船などとして活躍。建造から30年が経った昭和35年に、横浜港へ係留され第一線を退いています。
 引退後は、係留地横浜でユースホステルとして活用され、平成15年には横浜市指定有形文化財に指定されました。そして、平成20年から「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンし一般公開されています。

氷川丸への入口
氷川丸への入口

氷川丸
氷川丸

操舵室
操舵室

氷川神社の神棚
氷川神社の神棚

機関室
機関室

神奈川県横浜市 中区山下町山下公園地先

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