烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2015年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年11月

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ヘボン博士邸跡

 横浜市中区山下町の「横浜地方合同庁舎」に、ヘボン式ローマ字で知られる、ヘボン博士のレリーフがあります。この場所にヘボン博士の邸宅があったそうです。
 アメリカ出身の医師で宣教師でもあるジェームス・カーチス・ヘボンは、安政6年(1859)に来日します。
 医療を通じてキリスト教の布教を図ろうと考えたヘボン博士は日本語の研究を行って、日本初の本格的な和英辞典「和英語林集成」を編さんします。この時、日本語を表記するために生み出したのがヘボン式ローマ字表記です。
 ヘボン博士はキリスト教主義教育を日本に根付かせるために、文久3年(1863)に横浜でヘボン塾を開設、その後、塾は他のプロテスタント・ミッション各派の学校と統合して明治20年(1887)に明治学院となります。そしてヘボン博士は初代総理に就任しています。
 ヘボン博士は、明治25年にアメリカに戻るまで、横浜に33年間滞在、昭和24年に博士の功績を讃え、邸宅跡にレリーフが建立されたそうです。

ヘボン博士邸跡(横浜地方合同庁舎)
ヘボン博士邸跡(横浜地方合同庁舎)

ヘボン博士のレリーフ
ヘボン博士のレリーフ

現地説明板
現地説明板

【関連記事】 宗興寺

神奈川県横浜市中区山下町18

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| 明治・大正時代 | 23:47 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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港の見える丘公園(フランス山)を少しだけ見学しました。

 「港の見える丘公園」は、丘の上にイギリス軍、下にフランス軍が駐屯していた場所で、昭和37年に開園した園内は、フランス領事館跡地のフランス山地域、イギリスの総領事官邸であったイギリス館などに分かれ、丘の上かららは文字通り港が一望できます。
 本来、じっくり見たい場所でしたが、今回は他の場所に行く予定がありましたので、今回はフランス山の下部のみ見学しました。
 幕末に開港した横浜ですが、生麦事件のように外国人に危害が加えられる事もあり、フランスは自国民を守る理由でここに軍を駐留。その後、領事館が置かれました。
 次回訪れたときは、ぜひ公園全体を廻ってみたいと思います。

公園入口
公園入口

フランス領事館時代の説明板
フランス領事館時代の説明板

公園内部
公園内部

神奈川県横浜市中区

| 旅行記 | 22:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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クリーニング業発祥の地

 みなとみらい線 元町・中華街駅の元町側出口(5番)のすぐ東,「港の見える丘公園」入口付近の谷戸坂に「クリーニング業発祥の地」碑が建立されています。
 幕末に横浜が開港され、多くの外国人が横浜に住むようになると、横浜に多くのクリーニング店が開業するようになります。
 記録によると最初は安政6年(1859)に神奈川宿の青木屋忠七が横浜本町1丁目(現在の5丁目)に開業し、ついで岡澤直次郎が横浜元町に「清水屋」を開業、慶応3年には脇澤金次郎がこれを継承し基礎を築いたそうです。
 碑は昭和48年に神奈川県クリーニング環境衛生同業組合と全国クリーニング同業者有志により建立されています。

クリーニング業発祥の地
クリーニング業発祥の地

クリーニング業発祥の地碑
クリーニング業発祥の地碑

神奈川県横浜市中区山手町184-43 ショウワパークフランス山 駐車場前

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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機械製氷発祥の地

 横浜の、みなとみらい線「元町・中華街駅」の元町側出口を出た東隣に「山手迎賓館」という結婚式場があります。
 この建物の西隅に,「機械製氷発祥の地」のプレートが設置されています。 
 幕末に横浜が開港すると、ホテル、レストランや医療用に使う目的でボストンや函館から天然氷が輸入されます。
 そして、明治12年(1879)に,日本初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」がここに設立され, その後、経営者が変わり、建物も関東大震災で倒壊し建て替わりましたが、平成11年(1999) まで工場が操業していたそうです。

結婚式場「山手迎賓館」
結婚式場「山手迎賓館」

「山手迎賓館」西隅
「山手迎賓館」西隅

「機械製氷発祥の地」のプレート
「機械製氷発祥の地」のプレート

神奈川県横浜市中区 山手町184-1

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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谷戸橋とシドモア桜

 みなとみらい線の「元町・中華街駅」の近く、山下町と元町の間に流れる堀川にかかる「谷戸橋」はアーチ状の大変美しい橋で、元は少し離れた場所にありましたが、関東大震災で崩壊し、昭和2年(1927)に現在地に再建されました。
 その南詰に「シドモア桜」と呼ばれる桜があります。
 そのいわれですが、アメリカのワシントンのポトマック河畔は桜の名所として知られていますが、この桜の苗木は明治45年(1912)に東京市から贈られたものです。その実現に尽力したのが、アメリカ人紀行作家エリザ・シドモアです。
 シドモアは、1856年米国ウィスコンシン州に生まれ、通信記者として1884年に初来日。日本文化に魅了され、ワシントン・ポトマック河畔の埋立地に桜を植樹する活動を行います。
 病害虫への懸念から中々実現しませんでしたが、日米両政府の努力によって、ついに東京市からポトマック河畔に桜の苗木3000本が贈られ、現在も多くの人々に親しまれています。
 シドモアは1928年に72歳でジュネーブで死去。横浜外国人墓地に墓が建立されますが、平成3年(1991)にはワシントンから里帰りした桜の苗木5本が、シドモア墓の傍らに植えられ「シドモア桜」と呼ばれるようになります。そして、シドモアの功績を伝えるために「谷戸橋」の南詰に接木により「シドモア桜」が植えられたそうです。

谷戸橋
谷戸橋

谷戸橋
谷戸橋

シドモア桜
シドモア桜

現地説明板
現地説明板

谷戸橋 神奈川県横浜市中区山下町

| 旅行記 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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麻里布丸の錨 横浜

 久しぶりに横浜にやってきました。みなとみらい線「元町・中華街駅」3番出入口のすぐ横にある横浜海員会館「エスカル横浜」の前に巨大な錨が設置されています。
 説明板によると、昭和34年(1959)に建造された原油タンカー「麻里布丸」(まりふまる)で使用されていた錨だそうです。
 中東から原油を運び続けた「麻里布丸」は、昭和54年に役目を終え解体されています。
 また、錨の周りの柵は戦前より旅人の送迎で賑っていた新港ふ頭4号上屋の船客待合ホールに設置されていた手摺りの一部だそうです。

エスカル横浜
エスカル横浜

麻里布丸の錨
麻里布丸の錨

現地説明板
現地説明板

神奈川県横浜市中区山下町84 エスカル横浜

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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囲碁家元・三世安井知哲の孫 渋川則休

 品川の東海寺大山墓地にある天文方・渋川家の墓所、その一番奥にあるのが5代目・渋川則休(しぶかわ のりよし)の墓です。
 則休は、第3代天文方渋川敬尹の嫡男で、囲碁家元安井家の三世安井知哲の孫にあたります。
 享保2年(1717)に江戸で生まれ、10歳の時に父が急死、則休はまだ若すぎるとして渋川春海の門人、渋川敬也が渋川家および天文方を継承して則休はその養子となります。ところが養父の敬也も一年後に亡くなり、則休はわずか11歳で天文方に就任します。
 延享3年(1746)、徳川吉宗は貞享暦の改暦のため則休を改暦御用に任じますが、則休は暦学未熟を理由に固辞。
 幕府は則休と共に天文学者の西川正休を天文方に任じて則休の指導に当たらせます。また、天文方の管轄を寺社奉行から若年寄に改め則休を支援する姿勢を整えた上で、改めて則休と西川に正式に改暦命令を出します。
 寛延3年(1750)2月27日に上洛した二人は京都で改暦のための観測事業を行うとともに、陰陽頭土御門泰邦との協議を開始。しかし、桜町上皇崩御のため作業が一時中断され、江戸に戻っていた則休は寛延3年(1750)8月に病のため34歳で急逝しています。
 渋川家は弟の渋川光洪が継承しますが、改暦作業では西川を京都から追放した土御門泰邦に主導権を奪われてしまいます。また、光洪も子供がなく養子を迎えたため、渋川家における安井家の血筋は途絶えています。

渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士
渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士

側面「天文博士 渋川六蔵墓」の文字。六蔵は則休の通称。
側面「天文博士 渋川六蔵墓」の文字。六蔵は則休の通称。

側面に命日「寛延3年8月21日」と刻まれています。
側面に命日「寛延3年8月21日」と刻まれています。

【関連記事】 天文方・渋川家の墓


東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 09:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三世安井知哲の次男 天文方 渋川敬尹

渋川敬尹の墓。戒名は「翠筠軒心空紹光居士」
渋川敬尹の墓。戒名は「翠筠軒心空紹光居士」

裏面に刻まれた「渋川右門源敬尹座」の文字。
裏面に刻まれた「渋川右門源敬尹座」の文字

側面に刻まれた亡くなった享保11年の日付
側面に刻まれた亡くなった享保11年の日付

 江戸幕府天文方の3代目、渋川敬尹(しぶかわ ひろただ)は囲碁の家元安井家の三世安井知哲の次男として元禄9年(1696)に京都に生まれます。安井知哲は初代安井算哲の三男で、兄に初代天文方・渋川春海がいます。
 正徳5年(1715)4月に父・渋川春海の跡を継いだ嫡男、渋川昔尹が子の無いまま急逝し、隠居していた春海も病気となったため、同年6月に敬尹は急遽渋川家の家督と天文方を継承します。同年10月には春海が亡くなっています。
 享保6年(1721)には、それまでの駿河台にあった天文台(拝領屋敷)を築地木挽町に移転させ本格的に活動を開始しますが、5年後に31歳で急死。嫡男の渋川則休は、まだ幼かったため、渋川家は渋川春海の高弟・遠藤盛俊の門人、渋川敬也が継承し、則休は敬也の養子となっています。

東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋川春海の嫡男 渋川昔尹

安田家の墓所
渋川家の墓所

渋川昔尹の墓 戒名は「涼雲軒自肯元性居士」
渋川昔尹の墓 戒名は「涼雲軒自肯元性居士」

墓石の裏側に刻まれた昔尹の名
墓石の裏側に刻まれた昔尹の名

側面には亡くなった年である「正徳5年」の文字が刻まれています。
側面には亡くなった年である「正徳5年」の文字が刻まれています。

 以前、品川区北品川の東海寺大山墓地にある囲碁家元・初代安井算哲の長子で初代天文方の渋川春海の墓を紹介しました。そして、その後の天文方を務めた当主の墓についても少し紹介しましたが、墓所の中には囲碁界と関わり深い人物もいますので改めて紹介します。
 二代目天文方の渋川昔尹(しぶかわ ひさただ)は、春海の長男、つまり囲碁家元安井家初代算哲の孫で、天和3年(1683)に生まれています。幼名は亀之助、通称図書といいました。
 元禄12年(1699)に将軍徳川綱吉に拝謁、同年、「天文成象」を書き著しますが、これは、主に春海が手がけたものだったと言われています。
 春海は昔尹に大変期待をかけ、正徳元年(1711)には天文方の地位を譲っています。しかし、昔尹は4年後の正徳5年(1715)に33歳の若さで急死、ショックを受けたのか父・春海も半年後に後を追うように亡くなっています。
 ちなみに渋川昔尹の夫人は春海の弟である三世安井知哲の長女です。さらに昔尹には跡継ぎがいなかったため、春海は亡くなる直前に安井知哲の次男・敬尹を養子に迎え跡を継がせています。

東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 20:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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専光寺 喜多川歌麿の墓

 世田谷区烏山にある永隆寺で、本因坊算砂のライバル、利玄の墓にお参りした後、すぐ近くにある専光寺に立ち寄りました。ここには戸中・後期の浮世絵師として、世界的にその名を知られる喜多川歌麿の墓があります。
 喜多川歌麿は、姓は北川、後に喜多川と改め、名は信美。号は歌麻呂以外に、俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名では筆の綾丸、紫屋の名を持っています。
 生まれた場所や時期には諸説あれますが、鳥山石燕に師事し、女性美の理想的表現法、美人大首絵を考案。モデルは遊女、花魁、茶屋の娘など無名の女性ばかりでしたが、登場した女性の名前がたちまち江戸中に広まるなど、歌麿の浮世絵は一世を風靡します。
 幕府は歌麿の浮世絵を世を乱すものとして取り締まりますが、その人気は衰えず、ついに、文化元年(1804)に、芝居や浮世絵で扱う事を禁止されていた豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵を描いたとして捕縛され手鎖50日の処分を受けます。歌麿は多くの側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿で当時の将軍・徳川家斉を揶揄していたとも言われています。
 しかし、その後も歌麿の人気は一向に衰えず、版元からは仕事が殺到したと伝わっています。歌麿は文化3年(1806)に54歳で亡くなり専光寺に葬られました。法名は「秋円了教信士」です。

専光寺山門
専光寺山門

喜多川歌麿の墓
喜多川歌麿の墓

現地説明板
現地説明板

東京都世田谷区北烏山4丁目28番1号

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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