烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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本庄市 田村本陣門

 現在の埼玉県本庄市は江戸時代、中山道のうち江戸から数えて10番目の宿場「本庄宿」があった場所です。
 本庄宿は、江戸から22里(約88km)離れた武蔵国最後の宿場で、人口や建物数は中山道最大の規模を誇りました。利根川の水運も発達し、戸谷半兵衛(中屋半兵衛)など全国的に知られる富豪もいました。
 多くの人々が行き交った本庄宿では、後に新撰組局長となる近藤勇が、浪士組の一員として京都に向かった際、芹沢鴨の宿割りを忘れ、怒った芹沢が街道上で夜通し篝火を焚いたというエピソードも残されています。
 また、海に近い江戸が黒船の脅威に晒されて幕府崩壊hr向かったことから、明治時代に首都を本庄へ移そうとした動きが一部にあったとも伝わっています。

田村本陣門
田村本陣門

 本庄宿には本陣が2軒、脇本陣が2軒あったそうです。田村本陣は北本陣とも呼ばれ、現在の中央1丁目6番付近にありました。
 現在、現地には本陣があった事を示すものは何も残されていませんが、田村本陣門が、現在の中央1丁目2番3号地、本庄警察署として建てられた現在の本庄市立本庄歴史民俗資料館の前に移築され、本庄市指定有形文化財となっています。
 幕末には公武合体政策により将軍徳川家茂へ嫁いだ皇女和宮が、江戸へ向かう途上、田村本陣を利用され、この門をくぐられたと言われています。

碑
田村本陣門の碑

現地説明板
現地説明板

埼玉県本庄市中央1丁目2-3
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| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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清風亭

 清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、誠之堂の隣りに建設され、平成11年に現在地に誠之堂と共に移築されています。
 建築資金は、誠之堂と同じく第一銀行行員たちの出資により建設されています。渋沢栄一が「謙徳に富んだかた」と評していた佐々木は、当初、辞退しようとしていたと言われています。
 建物は、建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、当時流行していたスペイン風の様式が採られています。
 関東大震災を契機に日本で建てられ始めた鉄筋コンクリート造の初期の建築物として平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されています。

清風亭外観
清風亭外観

 清風亭の特徴として正面のベランダと、5連のアーチがあげられます。
スクラッチタイルによる縁どりで凹凸がつくられていますが、どれも同じ並びはなく、あえて左右対称を崩した部分をつくっています。

ベランダアーチ
ベランダアーチ

屋根は、南欧風のスパニッシュ瓦で葺かれています。現在のスパニッシュ瓦は、オレンジ色のものが多いですが、清風亭では、当時流行していた青釉や緑釉のものが使われています。
また、縦樋の飾枡には、銅板の打ち出しにより、セミの浮き彫が施されています。ちなみに軒先の樋は、軒の内側に溝が作られ、外から見えないようなっているそうです。

スパニッシュ瓦とセミがデザインされた飾枡
スパニッシュ瓦とセミがデザインされた飾枡

誠之堂と清風亭を見学するには、建物が建っている大寄公民館の事務室に声をかけます。職員の方が丁寧に説明して下さいます。

建物内部
建物内部

建物内部
建物内部

埼玉県深谷市起会110番地1

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋沢栄一ゆかりの「誠之堂」

 深谷市の大寄公民館の敷地内に、渋沢栄一にゆかりの建物「誠之堂」と「清風亭」が建っています。平成11年に東京世田谷区から深谷市に移築されたもので、「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されています。
 誠之堂は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築されます。銀行の初代頭取であった栄一は喜寿を迎えるのを機に、頭取を辞任しましたが、その際に行員たちより誠之堂が贈られたことから。如何に深く敬愛されていたのかが伺われます。
 「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身による命名で、儒教の経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだものです。
 建物の特徴は、煉瓦造平屋建、建築面積112平方メートル。英国農家風の外観でありながら、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れられた、様々な要素がバランスよく取り入れられた建物です。

誠之堂
誠之堂

 誠之堂で特に目を引くのが風見鶏です。鶏は復元されたものですが、方位板は建築当初からのもので、文字が漢字で示されたユニークなものです。ただ、長い年月がたち風が吹いても動かないとの事でした。

風見鶏
風見鶏

 煉瓦造りの建物である誠之堂ですが、解体の際に外壁、基礎の各所から「上敷免製」の刻印のある煉瓦が多数発見されています。これらの煉瓦は、深谷市にある日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものであることを示しています。
 暖炉がある北側煉瓦煙突部には、赤、黄、黒の3種類の煉瓦を用いた装飾積みで「喜壽」の文字が表されています。

「喜壽」の文字を表した装飾積み
「喜壽」の文字を表した装飾積み

建物内部
建物内部

 女性用の化粧室のドアには、龍と鳳凰を表したステンドグラスがあります。王と王妃を象徴する中国風のデザインです。

龍と鳳凰を表したステンドグラス
龍と鳳凰を表したステンドグラス

埼玉県深谷市起会110番地1

| 明治・大正時代 | 17:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋沢栄一生家周辺の史跡

 深谷市の渋沢栄一の生家「中の家」の建物の裏手にある竹藪に碑が建立されています。
 「晩香渋沢翁招魂碑」は、栄一の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑で、撰文は尾高惇忠によるものです。
 「先妣渋沢氏招魂碑」は栄一の母、渋沢えいの招魂碑で、撰文は栄一によるものだそうです。
 また、「渋沢平九郎追懐碑」は、尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追懐碑です。平九郎は彰義隊の飯能戦争に参加して戦死しています。
 この三つの碑は、東京の谷中霊園にある渋沢家の墓所にありましたが、平成26年3月に墓の整備に合わせて移設されています。

「晩香渋沢翁招魂碑」「先妣渋沢氏招魂碑」
「晩香渋沢翁招魂碑」「先妣渋沢氏招魂碑」

「渋沢平九郎追懐碑」
「渋沢平九郎追懐碑」

 「中の家」の裏手にある青淵公園に、「青淵由来之跡の碑」が建立されています。
 「青淵」とは栄一の号ですが、昔このあたりに「上の淵」と呼ばれる池があったそうで、栄一はその池の美しさにちなんで自らの号にしたそうです。

青淵由来之跡の碑
青淵由来之跡の碑

 「中の家」の前には、渋沢家一族の墓があり、ここには、栄一の両親を初め、先祖が眠っているそうです。

渋沢家一族の墓
渋沢家一族の墓

「中の家」: 埼玉県深谷市血洗島247-1

| 明治・大正時代 | 07:11 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋沢栄一生家「中の家」

 埼玉県深谷市血洗島にある「日本資本主義の父」と呼ばれた大実業家・渋沢栄一の生家、通称「中の家(なかんち)」を訪れました。
 渋沢一族はこの地に土着した開拓者のひとつで、分家して数々の家を起こしています。「中の家」もその一つで、この呼び名は各渋沢家の家の位置関係に由来するものだそうです。
 中の家は、代々農業を営み、養蚕や藍玉づくりと販売、雑貨屋・質屋業も兼ねるたいへん裕福な家で、栄一は、天保11年(1840)に生まれています。
 なお、栄一が生まれた当時の建物は、明治25年の失火で焼失し、現在残る主屋は、明治28年(1895)に栄一の妹の夫・市郎により上棟されたものです。
 栄一は、多忙の合間も年に数回はこの家に帰郷していたそうで、現存する栄一を偲ぶ数少ない場所といえます。この建物は、栄一の遺志を受け継ぎ「渋澤国際学園」として日本語を学ぶ外国人を受け入れてきましたが、平成12年に役目を終え、現在は市が管理して無料で見学する事が出来ます。
 渋沢栄一は、24歳の頃徳川幕府体制に疑問を抱き尊皇攘夷運動に加わりますが、その後、一橋家および幕府に仕え慶応3年(1867)には第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行し渡欧します。 約1年滞在し、ヨーロッパの進んだ思想・文化・社会などを学ぶと、明治元年11月(1868)に帰国し、大隈重信の説得により明治新政府の大蔵省に仕え、財政の整備にあたります。しかし、大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職。以後、実業界の最高指導者として活躍しています。

「中の家」門
「中の家」門

中の家
中の家

若き日の栄一
若き日の栄一

建物内部
建物内部

埼玉県深谷市血洗島247-1

| 明治・大正時代 | 11:35 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋沢栄一記念館

 渋沢栄一記念館は、資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一の生まれ故郷、深谷市で平成7年(1995)11月11日に開館した記念館です。渋沢栄一翁の肉声テープをはじめ、貴重な資料が展示されています。八基公民館を兼ねている市の複合施設でした。
 建物の裏側に巨大な渋沢栄一像がありましたが、かつて深谷駅前に建っていたものだそうです。

渋沢栄一記念館
渋沢栄一記念館

渋沢栄一像
渋沢栄一像

深谷市下手計1204

| 旅行記 | 22:53 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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深谷駅と渋沢栄一像

 埼玉県北部の深谷市にあるJR東日本の深谷駅は、平成8年(1996)に改築され、赤煉瓦が使われた東京駅そっくりの駅舎となっています。
 これは、大正時代に竣工した東京駅で使われた煉瓦が深谷市の「日本煉瓦製造」で製造された事に由来するそうです。
 深谷駅の北口に、幕末から昭和初期にかけて活躍した実業家、渋沢栄一の像があります。深谷出身の渋沢は、最後の将軍・徳川慶喜に仕えた後、官僚を経て実業家へ転身。第一国立銀行(現みずほ銀行)や東京証券取引所の設立や、王子製紙、帝国ホテルなど様々な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれています。
 渋沢は囲碁の愛好家としても知られ、方円社を支援するなど囲碁界にも多大な貢献をしています。

深谷駅
深谷駅

渋沢栄一像
渋沢栄一像

埼玉県深谷市西島町三丁目1-8

| 旅行記 | 21:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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妻沼聖天山歓喜院の琴棋書画

 埼玉県熊谷市にある妻沼聖天山の本殿である国宝「歓喜院聖天堂」は、日光東照宮などで見られる拝殿・中殿・奥殿からなる権現造で、極彩色の彫刻が特徴です。その彫刻の中には「琴棋書画」も見受けられます。
 特に、奥殿西面に施された布袋、恵比寿、大黒天の福神三人による囲碁遊びの彫刻は見事です。
 彫刻は時の流れとともに傷みが多く、彩色も剥落してきたところから、平成15年より約7年間かけ、「平成の大修理」が行われ、かつての輝きを取り戻しました。
 この時、建築当時に描かれていた置き石は塗装が剥落していて確認できないため、新たに描かれたのが、第4世本因坊道策と熊谷出身の熊谷本碩が対局した時の棋譜だそうです。
 また、この彫刻が縁で、平成24年には「第67期本因坊戦第2局」が、聖天山歓喜院本坊で開催されています。

拝殿正面
拝殿正面

拝殿正面唐破風下の琴棋書画
拝殿正面唐破風下の琴棋書画

琴棋書画
琴棋書画

熊谷市妻沼1627

| 囲碁史あれこれ | 12:08 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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妻沼聖天山

 埼玉県熊谷市にある「妻沼聖天山歓喜院」(めぬましょうでんざん )にお参りしてきました。
 寺伝によると治承3年(1179)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立したのが始まりとされています。
 妻沼聖天山歓喜院の本殿「聖天堂」は、宝暦10年(1760年)に再建されたもので、日光東照宮を彷彿させる本格的装飾建築で、「埼玉日光」と称され、国宝に指定されています。
 しかし、時の流れとともに傷みが多く、彩色も剥落してきたところから、平成15年より約7年間かけ、「平成の大修理」が行われ、建立当時の輝きを取り戻しています。

仁王門
仁王門

境内
境内

歓喜院聖天堂(国宝)
歓喜院聖天堂(国宝)

歓喜院聖天堂の彫刻
歓喜院聖天堂の彫刻

熊谷市妻沼1627

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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幸手市の本因坊烈元の墓

 埼玉県幸手市で八世本因坊伯元、九世察元の墓に続き、十世烈元の墓にも久しぶりにお参りしました。
 烈元は、従来江戸の出身と考えられていましたが、幸手市で伯元、察元の墓が発見された際、上吉羽の澤村家から墓所に「本人坊」と刻まれた墓があることが届けられ、寺の過去帳や澤村家に伝わる古文書より十世烈元が澤村家出身である事が確認されたそうです。「本人坊」と刻まれているのは、江戸時代は「本因坊」をホンニンボウと発音していたそうで、語感から人の字を当てはめたものと考えられています。
 新しい説明板には、隣りの「もよ」という人物は烈元の妻ではないかとの事ですが、巣鴨の本妙寺にある烈元の妻の戒名と違うところが気になります。

烈元の実家 澤村家の墓所
烈元の実家 澤村家の墓所

現地説明板
現地説明板

烈元の墓(左から二番目)
烈元の墓(左から二番目)

「本人坊」と刻まれた墓石
「本人坊」と刻まれた墓石

【関連記事】 十世本因坊列元の墓碑(幸手市)


埼玉県幸手市上吉羽328

| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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