烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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近藤勇の生家跡

 三鷹と府中を結ぶ人見街道沿いで、新撰組局長・近藤勇の墓がある龍源寺から多摩駅(西武多摩線)方面へ250mほど離れた所にある小さな祠(近藤神社)がある場所が近藤勇の生家跡だそうです。
 近藤が生まれた宮川家は、、武州多摩郡上石原村の裕福な農民で、石高は七石一斗二合と中流階層に属していましたが、屋敷は7反歩(7,000平方メートル)ほどあり、欅、桜などの大木が十数本と竹林が茂っていたと言われています。しかし、昭和18年に軍部により調布飛行場が建設された際に取り壊されてしまったそうです。現在は、近藤勇を祀った近藤神社や産湯の井戸が残されています。
 宮川家の敷地には寺子屋や天然理心流武術の道場があったそうで、勇が近藤周助に見込まれ天然理心流宗家の養子となると出稽古先として、大いに賑わったと言われています。

生家跡 生家跡の神社
近藤勇の生家跡と近藤神社

近藤勇産湯の井戸 生家の写真(現地説明板より)
近藤勇産湯の井戸と生家の写真(現地説明板より)

屋敷配置図 母屋平面図
宮川家の屋敷配置図と母屋平面図

調布市野水1-6-8

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| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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龍源寺 近藤勇の墓

 禅林寺で森鴎外と太宰治の墓にお参りした後、バスで西武多摩川線の多摩墓地前駅方面へ向かい、三鷹市大沢にある龍源寺へ行きました。
 曹洞宗大沢山龍源寺は、新選組局長近藤勇の生家宮川家の菩提寺で、近藤勇とその子孫の墓も建立されています。西武多摩川線の多摩墓地前駅からは人見街道沿いに三鷹市役所方面へ約1km向かったところで、都立野川公園の南側、竜源寺バス停があるため分かりやすい場所にあります。
 新撰組局長として京都で活躍した近藤勇でしたが、慶応4年(明治元年、1868)「鳥羽伏見の戦い」の敗北により江戸へ引き上げると、甲府城(山梨県甲府市)をおさえるために新選組を「甲陽鎮撫隊」と改名し出陣します。しかし、甲府は先に新政府軍に制圧され、奪回を狙った「甲州勝沼の戦い」で敗れた近藤は敗走、越谷の政府軍本営に出頭します。
 捕まった近藤は当初、大久保と名乗っていましたが、近藤の顔を知るものがいたため見破られ、総督府が置かれていた板橋宿まで連行。中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されます。享年35(満33歳)。首は京都の三条河原で晒し首とされます。
 一方、体の方は板橋処刑場の近く、現在のJR板橋駅前に埋葬されますが、勇の娘婿勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)や門人たちにより密かに運び出され、龍源寺へ改葬されたと伝わっています。
 近藤勇の墓は本堂裏手の墓地にあり、近藤家の墓所には勇の甥で娘婿の近藤勇五郎(天然理心流剣術5代目宗主)や勇五郎の次男で天然理心流剣術7代目宗主の新吉(後妻の子で勇の血は引いていない)の墓もありました。

龍源寺本堂
龍源寺本堂

近藤勇像と碑
近藤勇像と碑

近藤家の墓所
近藤家の墓所

近藤勇の墓
近藤勇の墓

三鷹市大沢6-3-11

| 幕末・明治維新 | 07:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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太宰治の墓

 禅林寺の文豪森鴎外の墓の前に、「走れメロス」「人間失格」などで知られる太宰治の墓があります。太宰の遺言により敬愛する森鴎外が眠る禅林寺に葬られたそうです。
 太宰治(本名:津島修治)は青森県津軽の大地主の家に生まれた太宰は、16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めています。 弘前高等学校在学中、芥川龍之介に傾倒していた太宰は芥川の自殺に衝撃を受け学業を放棄。花柳界に出入りし、料亭で15歳の芸妓・小山初代と知り合い深い仲となります。そして20歳の時に、左翼思想に傾斜し資産家の子という自分の出身階級に悩み睡眠薬による自殺を図り一命を取り留めます。
 翌年、東大仏文科に入学していた太宰は井伏鱒二のもとを訪れ弟子入りする一方、愛人関係にあった小山初代に、身請け話が持ち上がったため、彼女を上京させ同棲を始めます。故郷で騒ぎとなったため津島家を継いでいた太宰の兄は上京し、太宰に初代との結婚を認める代わりに本家からは除籍する事を告げます。太宰の兄は、手続きのために一旦、初代を連れ帰り、分家の届出と小山家との結納の手続きを行ないます。
 ところが、この手続きが行われる中、太宰は銀座のカフェの女給・田部あつみ(19歳、人妻)と出会い、浅草見物など3日間を共に過ごした後、睡眠薬で心中を図ります。太宰は一命を取り留めますが、田部は亡くなり警察は自殺幇助で捜査しますが兄が奔走し起訴猶予となっています。
 その後、太宰は小山初代と仮祝言をあげ、兄の援助で東京で新生活を始めますが、屈折した罪悪感から左翼運動に没頭していき警察が動き出しています。激怒した兄は左翼運動を止めないかぎり支援をやめ縁を切ると告げたため太宰は活動を断念しますが、仲間を裏切ったという心の傷を更に負うこととなります。
 以後、井伏の指導のもと、執筆活動に専念していましたが、1935年、26歳の時に授業料未納のために大学から除籍され、新聞社の入社試験にも落ちたため、3回目の自殺未遂を起こしますが助かります。この自殺未遂の直後、盲腸炎から腹膜炎を併発した太宰は入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤が元で薬物中毒になります。太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏らが強制的に精神病病棟に入院させ、一カ月後に完治して退院します。この時の体験で太宰は「自分は人間とは思われていない、自分は人間を失格してしまった」と考え、後に「人間失格」へと繋がっていきます。
 更に、太宰が入院中に初代が浮気していた事を告白し、ショックを受けた太宰は初代と睡眠薬で自殺を図かりますが今回も未遂になり二人は離婚します。
 しばらく筆を絶っていた太宰を心配した井伏は、気分転換のために自分が滞在していた山梨県御坂峠に招待し、太宰は徐々に精神の安定を取り戻していきます。そして、井伏の紹介により高校教師・石原美知子と婚約し、1939年30歳の時に再婚、三鷹に転居し、以後死ぬまでここで暮らしています。
 敗戦を津軽の生家で迎えた太宰は1947年、38歳の時、神奈川に住んでいた愛人・太田静子を訪ね滞在中、太田をモデルに没落貴族の虚無を描いた「斜陽」を執筆、同年には太田との間に娘が誕生します。太宰の子、太田治子は後に小説家となっています。
 治子が生まれた年、「斜陽」が大ヒットし名声を得ていた太宰は三鷹で戦争未亡人の山崎富栄と出会い愛人関係となります。
 1948年に過労とお酒により結核が悪化した太宰は富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しながら自身の生涯にも通じる「人間失格」を執筆。
 6月13日深夜、連載中の「グッド・バイ」の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と共に自宅近くの玉川上水で入水自殺。幾度も自殺未遂を繰り返してきた太宰でしたが、とうとう最期の時を迎えたのでした。
 太宰の遺体は著名人であったため立派な棺に入り運ばれていきましたが、愛人の富栄はムシロを被せられたまま放置され父親が引き取ったとの事です。
 禅林寺の太宰の墓の隣りに津島家の墓がありますが、これは夫人の美知子の墓です。

太宰治の墓
太宰治の墓

案内図
墓地の案内図

東京都三鷹市下連雀4-18-20

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禅林寺 森鴎外の墓

 東京都三鷹市にある禅林寺は、黄檗宗の寺院で、山号は霊泉山です。江戸時代初期に発生した「明暦の大火」によって移住させられてきた神田連雀町の町民により浄土真宗本願寺派の寺院として創建されたのが始まりで、元禄13年(1770)に台風により倒壊、黄檗宗の賢洲元養が再興し、禅林寺に改名したそうです。
 禅林寺は文豪・森鴎外と太宰治の墓があることで知られています。森鴎外(本名:森 林太郎)は代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家の跡継ぎとして生まれ、明治維新後は第一大学区医学校(現・東京大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となり、明治17年(1884)より4年間ドイツへ留学した鴎外は帰国後、外国文学などの翻訳を行い高く評価され文筆活動を開始、ドイツ留学時の体験を描いた名作「舞姫」などを発表します。
 明治40年(1907)に陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、軍医のトップである陸軍省医務局長に就任した鷗外は、文壇でも重鎮として活躍し、大正11年(1922)に腎萎縮、肺結核のため60歳で亡くなります。
 森鴎外の墓石は遺言により一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻まれています。墓碑銘も遺言により中村不折が筆しています。中村は鴎外と親交があった明治から昭和初期にかけて活躍した洋画家で書家です。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵画家としても知られています。
 なお、墓は当初、上京した際に住んでいた向島の弘福寺に建立されましたが、関東大震災後に禅林寺へと出生地・津和野町の永明寺に改葬されたそうです。

禅林寺
禅林寺

森鴎外の墓
森鴎外の墓

【関連記事】 弘福寺

東京都三鷹市下連雀4-18-20

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三鷹駅北口 国木田独歩の碑

 三鷹駅北口横の「三鷹駅北口交番」の脇には「山林に自由存す」と刻まれた明治期に活躍した小説家・国木田独歩の碑があります。武者小路実篤の書で、はめ込まれた独歩の上半身レリーフは二男で彫刻家の佐土哲二制作によるものだそうです。
 独歩の「武蔵野」に登場する桜橋や小金井堤など、独歩ゆかりの地は、三鷹駅より北西、玉川上水のもっと上流にありますが、今回は時間の都合で訪れることは出来ませんでした。

三鷹駅
三鷹駅北口

国木田独歩の碑
国木田独歩の碑

東京都武蔵野市中町1丁目14−3 三鷹駅北口交番となり

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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旧三鷹橋

 玉川上水沿いの「風の散歩道」を歩いて三鷹駅へやってきました。駅前に旧三鷹橋の親柱と高欄が残されていました。
 江戸時代に江戸市中の大切な水源として整備された玉川上水に旧三鷹橋が架けられたのは昭和32年(1957)の事です。この年に三鷹駅に南口が開設され人通りが増えたためだそうで、コンクリート製の橋の部材の一部には鉄道のレールが用いられたそうです。
 平成17年(2005)に南口広場の整備工事にともない、新しい橋に架け替えられますが、親柱や高欄は旧三鷹橋のデザインを活かしたといいます。そして、旧三鷹橋の親柱と高欄の一部が記念に残されたそうです。

旧三鷹橋
旧三鷹橋、後ろに見えるのが新三鷹橋と三鷹駅のホーム

現地説明板
現地説明板

東京都三鷹市下連雀3丁目「JR三鷹駅」南口前

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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むらさき橋と太宰治

 山本有三記念館の前の玉川上水沿いの道に「風の散歩道」という標識が建っていました。三鷹駅から井の頭公園の手前の万助橋に至る約800メートルの道で毎日、多くの方が歩いています。
 記念館から三鷹駅方面へ150メートルほど進んだ所に「むらさき橋」があります。
 むらさき橋は玉川上水に架かる橋で、三鷹市と武蔵野市の市境にあります。旧橋は1955年に竣工し、三鷹市・武蔵野市の公募で「むらさき橋」と名付けられました。武蔵野の紫草について詠まれた古今和歌集の歌と、紫草で染めた「むらさき染」にちなんで命名されたそうです。
 現在の橋は、1997年に架け替えられたものだそうです。
 「走れメロス」「人間失格」などで知られる文豪・太宰治は昭和23年(1948)に玉川上水で、愛人山崎富栄と共に入水自殺しますが、その場所が「むらさき橋」付近だったそうです。
 太宰が入水した現場には説明のプレートが設置されているそうですが今回、見落としてしまいました。

風の散歩道
風の散歩道

むらさき橋
むらさき橋

玉川上水
玉川上水

玉川上水案内板
玉川上水案内板 (案内板は萬橋にありました)

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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山本有三記念館2

 山本有三記念館は「路傍の石」などで知られる小説家、山本有三が昭和11年(1936)から昭和21年(1946)まで、家族とともに過ごした大正末期に建築された洋館です。
 当初は商社役員や大学教授を務めた清田龍之助の住宅として建てられたものだそうです。大正8年(1919)に吉祥寺駅ができたことにより、この辺りは住宅として開発されますが、大正12年(1923)の関東大震災以降、東京郊外への住宅移転が盛んになります。
 清田は大正15年(1926)に邸宅を建設。建物は当時流行していたピクチャレスク風のデザインで、関東大震災の経験から鉄筋コンクリート構造を取り入れた堅牢な建物となりました。
 有三は当時、吉祥寺に住んでいましたが家族が増えて家が手狭となり、執筆活動に専念できる物件を探していたそうで、昭和11年にこの住宅を購入します。有三は三鷹での生活を大変気に入り、「路傍の石」や「米百俵」などの作品をここで執筆しますが、昭和21年に進駐軍により自宅が接収され、その後も有三が三鷹に戻ることはありませんでした。

外観 応接間
山本有三記念館外観と応接間

展示品 書斎
展示品と書斎

階段
階段

東京都三鷹市下連雀2-12-27

| 昭和時代 | 07:52 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三鷹市山本有三記念館

 三鷹市山本有三記念館は、大正から昭和にかけて活躍した作家・山本有三が昭和11年(1936)から10年間、家族とともに住んだ家です。有三はここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しています。昭和26年(1951)より2年間、進駐軍に接収され有三は転居、接収解除後に研究所や文庫として利用された後、平成8年(1996)に「三鷹市山本有三記念館」として開館。山本有三の生涯や作品が紹介されると共に、展覧会や朗読会などが行われています。

山本有三記念館入口
山本有三記念館入口

山本有三記念館
山本有三記念館

 山本有三記念館の建物内は有料ですが、記念館の庭である「有三記念公園」は無料で見学する事が出来ます。
 少年、少女の育成に力を注いだ山本有三の遺志を継ぎ、情操を高めるのを目的に、昭和62年に開園しています。
 有三が愛した築山の竹林、故郷栃木から取り寄せた石で造った池などが配置されています。

有三記念公園
有三記念公園

 山本有三記念館の入口付近に、有三の代表作「路傍の石」ゆかりの石が設置されています。有三が「路傍の石」を執筆していた昭和12年に中野旧陸軍電信隊付近の道端で、この石を発見し、自宅の庭へ運び込んだと伝えられています。そして作品に因み、いつしか「路傍の石」と呼ばれ親しまれてきました。

路傍の石
路傍の石

山本有三先生顕彰碑
山本有三先生顕彰碑

東京都三鷹市下連雀二丁目12番27

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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井の頭弁財天

 井の頭公園の池畔にある「井の頭弁財天」は、源頼朝が平家追討の祈願成就に感謝して建久8年(1197)建立したと言われ、新田義貞が鎌倉幕府討伐に出陣した際にも祈願したと伝わっています。近くにある大盛寺が別当寺として管理しています。

井の頭弁財天 井の頭池
井の頭弁財天と井の頭池

 井の頭弁財天の裏手に「銭洗い弁財天」がありました。また、井の頭弁財天前の狛犬の姿がユーモラスだったので、思わず写真におさめてしまいました。

銭洗い弁財天 狛犬
銭洗い弁財天と、ユーモラスな狛犬

 宇賀神は、日本で中世以降信仰された神で、その姿は人頭蛇身で、とぐろを巻いた形で表現されています。農業の神様として信仰されてきましたが、仏教と融合して弁財天と同一視されるようになったそうです。

宇賀神像
宇賀神像

三鷹市井の頭4-1

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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