烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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後醍醐天皇上陸候補地 「隠岐の神塚」

 元弘3年(1333)、元弘の変によって配流の身となった後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し辿り着いた場所として、御来屋漁港にある「後醍醐天皇お腰掛けの岩」を紹介しましたが、一説によれば、後醍醐天皇の上陸地は御来屋漁港ではなく、少し東側にあった逢坂港であったとも言われています。
 逢坂港に辿り着いた天皇は塚の上で休まれ、のどが渇いたと申されたため、村人が清水を運んで差し上げたと伝わっています。その場所が「隠岐の神塚」です。
 現在、逢坂の海岸近くにある「隠岐の神塚」には、昭和8年に船上山義挙600年を記念し「後醍醐天皇御着船地」の碑が建立されています。また、塚には小さな祠がありますが、その御祭神は後醍醐天皇であると伝えられています。

隠岐の神塚
隠岐の神塚

後醍醐天皇御着船地碑
後醍醐天皇御着船地碑

隠岐の神塚近くの風力発電機
隠岐の神塚近くの風力発電機

鳥取県西伯郡大山町岡
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お船頭山

 木ノ根神社から国道9号線を挟んで反対側にある山は「お船頭山」と呼ばれています。狭い農道を上がっていくと山頂が公園になっていて、その端に大きな碑が建っています。ここは、隠岐の島より後醍醐天皇を運んだ船頭を葬った場所と言われています。船頭は後醍醐天皇を無事に運んだ後、故郷へ帰ることなく病に倒れ、「故郷の隠岐島が見えるところに葬って欲しい」という遺言によりこの場所に弔われたそうです。

お船頭山の公園
お船頭山の公園

船頭を祀った塚
船頭を祀った塚

お船頭山から臨む日本海
お船頭山から臨む日本海

鳥取県西伯郡大山町下市

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男性の〇〇が祀られた? 木ノ根神社

 「木ノ根神社」は男根そっくりの老松の根を御神体として祀っているユニークな神社で、古来より夫婦円満や子宝に御利益にご利益があるといわれ、町内外から祈願者が絶えないことでも知られています。
 明治時代に小泉八雲もここに詣で、そのことを紀行文「日本海に沿うて」で世界に紹介しています。
 参道入口の国道沿いに立つ「木ノ根本舗」では御神体をかたどった名物「木の根まんじゅう」が販売されています。

鳥居
鳥居

ご神木を祀った祠
ご神木を祀った祠

祠の内部
祠の内部
 奉納されているモノがリアルだったので自主規制でモザイクを入れました。その上に見えるのがご神木の一部です。

小泉八雲の碑
小泉八雲の碑

鳥取県西伯郡大山町松河原

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後醍醐天皇お腰掛けの岩

 鳥取県西伯郡大山町御来屋にある御来屋漁港に、隠岐の島から脱出し、たどり着いた後醍醐天皇が体を休めるために腰を掛けたと言われる「お腰掛けの岩」があります。
 30年ほど前までは海中に沈んでいましたが、漁港の改修により引き上げられたそうです。
 隣りには後醍醐天皇の詠まれた「忘れめや よるべもなみの荒磯を 御舟の上にとめし心を」という歌碑が建立されています。

後醍醐天皇お腰掛けの岩
後醍醐天皇お腰掛けの岩

後醍醐天皇歌碑
後醍醐天皇歌碑

 「お腰掛けの岩」のすぐ南に、「元弘帝御着船所の碑」があります。後醍醐天皇が御来屋に上陸された時にしばらく匿われていた場所で、その家に対して、江戸時代に鳥取藩が功を賞して碑を建てたと言われています。

元弘帝御着船所の碑
元弘帝御着船所の碑

鳥取県西伯郡大山町御来屋(御来屋漁港)

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名和長年を祀る「名和神社」

 鳥取県西伯郡大山町にある名和神社は、後醍醐天皇の忠臣・名和長年と、その一族を祀った神社で、旧社格は別格官幣社、建武中興十五社の一社です。
 元は名和邸跡に小祠が建立されたのが始まりで、初代鳥取藩主・池田光仲が長年を崇敬していたことから、延宝5年(1677)に名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営したそうです。
 江戸時代は山王権現の末社「氏殿権現」と称されてきましたが、明治7年(1873)に県社に列し、「氏殿神社」と改称。関係者の働きかけにより明治11年(1878)には「名和神社」と改名し、別格官幣社に列せられています。
 そして、老朽化の激しかった社殿は国費により建替えられ、明治16年(1883)に遷座式が執り行われています。
 名和神社の社紋は、「帆懸船」ですが、これは名和氏の家紋です。海運業により発展した名和氏にちなみ後醍醐天皇から賜ったものと伝えられています。

鳥居
鳥居

楼門
楼門

拝殿
拝殿

名和氏の家紋
社紋(名和氏の家紋)

鳥取県西伯郡大山町名和556


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名和氏館跡

 名和氏の菩提寺である長綱寺の近くに名和長年の屋敷跡があります。当時の山陰道の要所で西側に東谷川が流れ、東に土塁と堀がありました。また、長綱寺の裏山は名和氏の詰城となっていたそうです。村人は屋敷跡の場所を「又太郎屋敷」や「デーノヤシキ(殿の屋敷のこと)」と呼んでいたそうです。
 名和氏館跡にある碑は天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうです。


名和長年屋敷跡
名和氏館跡

名和神君碑
名和神君碑

鳥取県大山町名和85

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的石

 鳥取県西伯郡大山町名和の、名和一族の菩提寺「長綱寺」の近くに、「的石」と呼ばれる、縦170センチ、横150センチもある大きな石があります。
 弓の名手だった名和長年や、その一族がこの的石でたくさんの稽古をしたと言われています。

的石

鳥取県西伯郡大山町名和

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名和公一族郎党の墓 長綱寺

鳥取県西伯郡大山町にある長綱寺は、後醍醐天皇の中心であった名和長年が父の名和行高の還暦を祝って建てた隠居所を寺に改めたが始まりと言われ、名和一族の菩提寺となっていました。
 境内の裏山に 300基程の五輪塔がありますが、これは船上山での鎌倉幕府軍との戦いで戦死した名和一族郎党の墓と考えられていて、室町幕府に見つかるのを恐れて土中に埋められていたものを昭和5年(1930)に地元の人が偶然発見し整備したそうです。
 また、長綱寺境内にある「硯岩」は、名和長年公が後醍醐天皇を船上山へご案内する途中、休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれてきました。ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年公が立たれ「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている」とのお告げがあったそうです。人々は早々に手を尽くし探し回ったところ、ついに「硯岩」を発見。平成22年に寺へ帰ってきたそうです。

長綱寺
長綱寺本堂

名和公一族郎党の墓
名和公一族郎党の墓

硯岩
硯岩


鳥取県西伯郡大山町名和69-1

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建武の中興 名和長年の墓「三人五輪」

 以前、鳥取県を訪れた際に取材したものの紹介していなかった史跡が何ヶ所かありましたので、今回紹介させていただきます。
 鳥取県西伯郡大山町名和に「三人五輪」と呼ばれる数基の五輪塔があります。これは、元弘元年(1331)に起きた「元弘の乱」で討幕に失敗し隠岐島へ流されていた後醍醐天皇が再起を期して島を脱出した際、天皇を護り鎌倉幕府と戦った、建武の中興の忠臣名和長年と長男の義高、三男の高光の首塚といわれています。
 名和長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党と呼ばれた武士であったと言われています。
 隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が島を脱出すると、名和長年は天皇を船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、追撃する幕府軍と戦い勝利します。そして、後醍醐天皇は名和長年を伯耆守に任じています。
 後醍醐天皇を護衛して上洛した名和長年は鎌倉幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」で、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めています。また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。 天皇の忠臣であった長年は、伯耆(キ)守であったことから、同じく後醍醐天皇に重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。
 新政権下で活躍していた長年でしたが、新政での処遇に不満を持っていた足利尊氏が政権から離脱すると、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。
 名和長年の長男の義高は泉州堺(現大阪府)、三男の高光は西坂本(現滋賀県)と、それぞれ別の場所で戦死していますが、それぞれ首を家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。
 明治維新後、天皇を護って戦死した南朝の武将の功績が見直され、明治19年(1886)には長年に正三位、昭和10年(1935)には従一位が追贈されています。明治17年(1884)には長年の末裔である福岡県名和神社宮司名和長恭が男爵を授けられています。男爵の墓が「三人五輪」の隣りに建立されていました。

三人五輪1

三人五輪2

鳥取県西伯郡大山町名和

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富岡八幡宮 相撲の碑

P1000529.jpg

 富岡八幡宮には相撲に関する碑がたくさんあります。
 両側には歴代横綱の名前が刻まれています。
 力士の手形、足形もあり、あらためて大きく感じました。

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