烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2015年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年03月

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三条実美別邸 対鴎荘跡

 白髭橋西詰めに「明治天皇行幸対鴎荘遺蹟」の石碑が建立されています。
 対鴎荘は明治時代の政治家三条実美の別邸です。
 「征韓論」をめぐり、政府内で対立が続いていた明治6年(1873)10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養しています。同年12月19日明治天皇は病床の実美を気遣い、対鴎荘を訪れています。
 碑は、この事績を顕彰して建立されたものです。

白鬚橋
白鬚橋西詰

対鴎荘跡
対鴎荘跡


台東区橋場2-1
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| 幕末・明治維新 | 14:48 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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白鬚神社 2

 白鬚神社がある辺りは昔、寺島村と呼ばれ、水田が拡がる江戸近郊の農村でした。隅田川上流から運ばれる肥沃な土はナス作りに適し、江戸時代より「寺島ナス」と呼ばれるナスの産地として知られていました。「寺島ナス」は船で江戸に出荷されていた一大ブランドでした。

白鬚神社拝殿
白鬚神社拝殿

神社境内に墓碑がある岩瀬鴎所は江戸時代末期の外交家。文政元年江戸で生まれています。名は忠震で、鴎所の号は隅田川の辺に住んだことに由来しています。
幕府の徒頭・設楽貞夫の子で、天保11年(1840)に旗本岩瀬忠正の養子となり、嘉永2年(1849)老中阿部正弘から目付に抜擢されます。
鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶ一方、蘭学も学び、当時の海外の事情通として知られます。幕府の鎖国政策を非難し、砲台や軍艦の製造、および海軍伝習の開始に参画します。しかし、将軍継嗣問題で、大老井伊直弼と対立したため、安政6年に蟄居となり向島に隠居します。隠居後は読書文芸にふける悠々自適の生活を送り、文久元年(1861)に44歳で亡くなっています。

岩瀬鷗所の墓碑
岩瀬鷗所の墓碑

 山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治8年頃にはすでに存在し、夏季には20名程度の人数で富士山への登山を行っていたようです。神社境内には大正11年に建立された碑があり、区の登録文化財に指定されています。

山玉向島講社の碑
山玉向島講社の碑

 白鬚神社の前に「西川春洞・寧住居跡」の案内板が建っていました。西川春洞は明治、大正にかけて活躍した書の大家で、日下部鳴鶴と並び、現在の漢字書道界の基礎を作り上げた人物として知られています。
 神社前の住居では多くの門人が学び、この地で64歳で亡くなっています。
 春洞の三男である西川寧は、「昭和の三筆」の一人で「書の巨人」とも呼ばれた大家ですが、明治35年(1902)に、この住居にて生まれています。

西川春洞・寧住居跡
西川春洞・寧住居跡


東京都墨田区東向島3-5-2

| 歴史あれこれ | 18:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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白鬚神社 1

 東京都墨田区東向島にある白鬚神社は、天暦5年(951)に、滋賀県の白鬚神社の分霊を祀ったことに始まると言われています。境内には多くの石碑が建立されていました。

白鬚神社境内
白鬚神社境内

 白鬚神社の境内に幕末から明治にかけて活躍した儒学者・鷲津毅堂の碑があります。
 文政8年(1825)に尾張に生まれました鷲津毅堂は、20歳頃、江戸の昌平校で学び、嘉永6年(1853)には久留米藩に仕え、次いで、尾張藩の明倫堂で学問を教えます。
 明治以降、大学少丞、権大書記官五等判事、司法少記官など明治政府の要職を歴任し、明治15年(1882)には司法権大書記官となっていますが、同年、58歳で没しています。
 なお、毅堂は小説家・永井荷風の母方の祖父であることでも知られています。
 碑の篆額は三条実美、撰文は明治の三大文宗の一人・三島毅、書は巌谷一六によるものです。

鷲津毅堂碑
鷲津毅堂碑

 「墨多三絶碑」は、 墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。篆額は巻菱湖によるもので、文政5年(1822)に建立されています。
 「絶」とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼ばれています。

墨多三絶碑
墨多三絶碑

白鬚神社:墨田区東向島3-5-2

| 歴史あれこれ | 22:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大倉喜八郎別邸跡

 堤通り沿い、首都高速上り線向島出口付近に「共栄倉庫」と書かれたビルが建っています。この場所は明治・大正期の実業家で大倉財閥を設立した大倉喜八郎の別邸があったところです。喜八郎は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したことでも知られています。跡を継いだ喜七郎もホテルオークラを設立するなど活躍し、趣味の囲碁において日本棋院設立に主導的役割を果たしています。
 邸内に接客や宴会を目的に建てられていた「蔵春閣」は、千葉県船橋市にある「ららぽーと」に移築されていましたが、現在は移築を前提として解体され、大倉文化財団が所有しているそうです。
 また、この場所は江戸時代末期には、旗本・中野清茂(別名:中野碩翁)の別邸でした。
 中野碩翁は、田沼意次にとり入り、養女を徳川家斉の側室として権勢をほしいままにしていましたが、家斉の没後に、水野忠邦により追放され、この地で最期を迎えたそうです。
 なお、「共栄倉庫」は現在は合併して「エスケーロジ株式会社」という会社となり、ビル入口にも、その社名入りの看板がありました。さらに、建物に解体予定の案内が張られていましたので、間もなく、ここは景色が一変してしまうでしょう。建物が建替えられるのか、別の何かに生まれ変わるのか分かりませんが、ここが大倉喜八郎の別邸であった事が分かるようにしてもらいたいと願います。

大倉喜八郎別邸跡(共栄倉庫)
大倉喜八郎別邸跡(共栄倉庫) 左の白い大きなビル

現地説明板
現地説明板

エスケーロジ株式会社の看板
エスケーロジ株式会社の看板

東京都墨田区堤通1丁目1

| 明治・大正時代 | 22:47 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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農林水産大臣辞任で話題の精糖工業会館といえば

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精糖会館

 今国会では西川農相が農林水産省の補助金交付が決まっていた砂糖メーカーの団体「精糖工業会」が運営するビル管理会社「精糖工業会館」から寄付を受けていたとして追及され、23日、ついに辞任しました。衆院予算委員会の質疑での民主党議員の追及中に安倍首相自らヤジを飛ばすなど混乱を極めていましたが、その献金を行った「精糖工業会」や「精糖工業会館」が入居している千代田区三番町の「精糖会館」ビルについて以前ブログで紹介していました。
 「精糖会館」のある場所には江戸時代に赤井五郎作という旗本の屋敷がありました。五郎作は囲碁好きで度々、碁会を主宰しています。ある日、五郎作の屋敷で行われた碁会の後、残った阪口仙得・伊藤松和・太田雄蔵・安井算知の天保四傑と服部正徹が話の最中に、今、囲碁が一番強いのは本因坊秀策だろうという話になり、ただ一人納得しなかった雄蔵と秀策との間で三十番碁が企画されます。この対局では、後の世に語り継がれるほど数々の名局が生まれています。

場所 千代田区三番町5-7 精糖会館

関連記事:秀策・雄蔵三十番碁の発起人・赤井五郎作の屋敷跡

| 囲碁史あれこれ | 23:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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弘福寺

墨田区向島にある弘福寺は黄檗宗の寺院で本尊は釈迦如来。隅田川七福神のうち布袋像が祀られています。
延宝元年(1673)に春日局の孫である小田原藩主稲葉正則公が隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を移して創建した寺院です。寺地は、かつての江戸氏一族の牛島殿の城跡だそうです。
江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で焼失しましたが、昭和8年(1933)に再建されています。

 弘福寺山門脇に「淡島寒月旧居跡」の説明板が設置されていました。明治期の文化人・淡島寒月の父、淡島椿岳は江戸時代に大流行した軽焼きせんべい屋「淡島屋」を経営する実業家で、趣味としてピアノを購入して演奏会を開くなど文化人でもありました。椿岳は弘福寺境内に隠居所を建てて晩年を過ごしています。
 その息子、淡島寒月は井原西鶴を再評価し新聞や雑誌に寄稿。実体験を通した小説や江戸にまつわる話を洒落たセンスで著すなどして好評を博しています。明治26年頃、父の使っていた隠居所を「梵雲庵」と名付けて住込み、自らも「梵雲庵寒月」と号します。寒月は収集家としても知られ「梵雲庵」には江戸に関する貴重な資料があったそうですが、関東大震災によりすべて焼失してしまったそうです。

弘福寺山門
弘福寺山門

 弘福寺には隅田川七福神に一つ「布袋尊」が祀られています。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、布袋尊は唐時代の実在の禅僧であったことから像が安置されたと言われています。
 布袋尊は常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施したそうです。その心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭したと言われています。

弘福寺布袋尊(隅田川七福神)
弘福寺布袋尊(隅田川七福神

 境内右手に「翁媼尊」の石像を祀られています。この像は寛永年問(1624~1644)に、風外(ふうがい)和尚が相州真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられています。小田原藩主で弘福寺を創建した稲葉正則公が、石像が放置されるのは忍びないとして小田原城内で供養してきましたが、後に稲葉家の移封に伴い、弘福寺に移されたそうです。
 石像は風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めています。

翁媼尊
翁媼尊

 弘福寺は江戸時代に鳥取藩池田家の菩提寺でした。境内墓所には鳥取藩の支藩・若桜藩主、池田冠山の墓があります。
 冠山こと池田定常は鳥取藩池田家と縁戚関係の旗本池田家から因幡若桜藩主池田大隅守の養子に入り、安永2年(1773)に若桜藩の藩主となります。
 名君として知られる一方、池田冠山と号し、毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳間詰の文芸三侯」と称される、江戸時代後期を代表する文化人でもありました。著書は210巻にも上り、代表的なものに「浅草寺誌」があります。
 弘福寺を菩提寺としていた大名家は鳥取藩以外にもたくさんありましたが、関東大震災による再建時に別の場所へ移っています。その中には津和野藩もありました。その関係で津和野出身で明治以降墨田区曳舟に住んでいた文豪・森鴎外も没後、ここに葬られていました。しかし、震災後に三鷹の禅林寺へ改葬されています。

池田冠山の墓
池田冠山の墓


東京都墨田区向島5-3-2

| 歴史あれこれ | 19:47 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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隅田公園少年野球場

 「言問団子」の隣りに「隅田公園少年野球場」という小さな野球場があります。碑文によれば、この少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして, 有志や子ども達が荒地整備を行い誕生した日本で最初の少年野球場だそうです。
 以来数多くの少年球児がこの球場から巣立 っていきましたが, 中でも日本が誇る世界のホームラン王・王貞治氏もこの球場から育った一人だそうです。

隅田公園少年野球場入口
隅田公園少年野球場入口

現地説明プレート
現地説明プレート

東京都墨田区向島5-6-13

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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隅田川沿いの史跡

 向島の墨田公園、言問団子付近には様々な碑や史跡があったので紹介させていただきます。

 桜橋の近くに「墨堤常夜燈」があります。この常夜燈は、現在は少し離れた場所に移転してしまった「牛嶋神社」が、まだこの付近にあった明治4年頃に、土手から神社へ下る坂の入口に建立されたそうです。かつては隅田川を渡る「竹屋の渡し」があり向島の花柳界へと遊興客を数多く運んでいました。その際に常夜燈の明りは重要な役割を果たしていたそうです。

墨堤常夜燈
墨堤常夜燈

 「長命寺桜もち 山本や」の近くに野口雨情の碑が建立されています。

  都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

 ここに刻まれた都鳥の詩は、童謡界の巨匠・野口雨情が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地を訪れた際に唱われたもので、東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、昭和63年に建立されています。

野口雨情の碑
野口雨情の文学碑

 国旗掲揚場は昭和3年の御大典(昭和天皇の即位の礼)を記念して翌年に向島須崎町に建設されたものだそうです。町名変更に伴い現在地に移設されています。

国旗掲揚場
国旗掲揚場

 江戸時代、墨堤には桜の木が植えられ、花見の名所として多くの人々で賑っていました。当初、桜は現在の隅田川神社付近を中心に植えられていましたが、1800年代から地元の村の有志により南側への延伸が行われ、1880年頃には長命寺、三囲神社、枕橋のあたりまで延びています。
 こうした人々の功績を称え、明治20年に「墨堤植桜の碑」が建立されています。篆額(題字)は榎本武揚によるものだそうです。

墨堤植桜の碑
墨堤植桜の碑

東京都墨田区向島5-1

| 歴史あれこれ | 11:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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言問団子

 向島の「長命寺 桜もち 山本や」の近くに、江戸時代から続く和菓子店「言問団子」があります。
 店名にもなっている商品「言問団子」は小豆餡と白餡、味噌味の餡の3つの団子で、江戸時代末期に植木師の外山佐吉が考案し創業しています。
 「言問」の語源は、在原業平の和歌「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」(古今和歌集)にちなんだもので、この歌が隅田川沿いで詠まれたためと言われています。
 「言問団子」は大変、評判となり、いつしかこの辺りの地名は「言問」と呼ばれるようになります。現在も桜橋の下流にある「言問橋」にその名を残しています。

言問団子


東京都墨田区向島5-5-22

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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長命寺桜もち「山本や」と正岡子規

 隅田公園の桜橋を渡り、向島へやってきました。北側へしばらく歩くと「長命寺 桜もち 山本や」という店がありました。隣りには語源となった長命寺もあります。
 桜餅は桜の葉で餅菓子を包んだ和菓子の一つですが、各地でその形状は異なっています。江戸風とも呼ばれる東京名物の長命寺桜餅の発祥の地が、ここ山本屋です。
 山本屋の創業者山本新六は享保二年(1717)に隅田川の土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして餅菓子を包む桜餅を考案し、向島の長命寺の門前で売り始めます。
 当時、将軍徳川吉宗の命により隅田堤には桜の木が植えられ、花見の時期には多くの人々が集まっていて桜餅は大評判となり現在でも愛され続けています。

向島側から臨む隅田川
向島側から臨む隅田川

長命寺桜もち 山本や
長命寺桜もち 山本や

江戸時代の「山本や」
江戸時代の「山本や」

山本屋は俳人・正岡子規ゆかりの店でもあります。子規は、向島周辺の景色が好きで、大学予備門の学生だった頃に「山本や」の2階を3ヶ月ほど借り、自ら「月香楼」と名付けて滞在していたそうです。
その時に 花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ という句を詠んでいます。

現地説明板
現地説明板


東京都墨田区向島5-1-14

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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