烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年02月

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大隈重信襲撃犯 来島恒喜

 明治時代の右翼活動家・来島恒喜は安政6年(1860)に福岡藩士・来島又右衛門の二男として福岡に生まれます。
 明治16年(1883)に上京し中江兆民に仏語を学んだ後、頭山満率いる玄洋社社員となります。
一時期、小笠原諸島に渡り、政府により流されていた朝鮮の革命家・金玉均に会い、朝鮮の政治改革について語り合ったといいます。
 その後、日本への不平等条約解消のために外務大臣の大隈重信が中心になってとりまとめた条約改正案に反対し玄洋社を退社したうえで、明治22年(1889)に帰宅中の大隈が乗る馬車に爆弾を投げつけ暗殺しようとします。大隈は一命を取り留めるものの右足切断の重傷を負い大臣を辞任。当時の黒田内閣も騒動のため総辞職となったため条約改正は頓挫します。
 一方、来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害し31歳の生涯を閉じています。
 当時、来島の行動に一定の理解を示す人も多かったようで谷中霊園には来島恒喜の墓がありますが、最初の墓は勝海舟により建てられたものです。その後に墓は頭山満により建替えられたそうで、墓に刻まれた文字は頭山満によるものです。また、勝海舟が建てた墓石は現在の墓の脇に横たえられているそうですが取材時は気づかなくて、塀に隠れて写真には写っていません。

来島恒喜の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園 乙10号17

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| 明治・大正時代 | 08:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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明治大学創立者 岸本辰雄

 谷中霊園には明治大学(明治法律学校)の創業者で初代校長・岸本辰雄の墓があります。
 鳥取で藩士の子として生まれた辰雄は明治3年に「大学南校」(後の東京大学)へ鳥取藩の推薦を受けて入学し、翌年、フランス法を専門とした法律家養成機関である司法省法学校に第一期生として入学します。
 その後、フランス留学を経て、帰国後、留学仲間である宮城浩蔵、矢代操とともに「明治法律学校」を設立。辰雄は初代校長となります。
 なお、学校設立にあたっては出身の鳥取藩最後の藩主池田慶徳の息子・池田輝知と慶徳の異母兄弟である旧島原藩主・松平忠知が財政的支援をしています。ちなみに慶徳と忠知は共に養子で、実の父は水戸藩主・徳川斉昭。つまり、最後の将軍・徳川慶喜の兄弟です。
 明治45年 (1912)に市電で大学へ向かう途中に脳溢血で倒れ亡くなっています。

岸本辰雄の墓

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 明治大学発祥の地
 明治大学創設者 岸本辰雄

東京都台東区谷中 谷中霊園 乙 4号 9側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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将軍後継候補だった津山藩主 松平斉民

 谷中霊園の徳川慶喜の墓の近くは徳川家や大名の墓がたくさんあります。その中に「文定院殿成誉寂然確堂大居士」と刻まれた大きな墓石を見つけました。調べてみると11代将軍徳川家斉の十四男で、美作国津山藩の第8代藩主・松平斉民の墓である事が分かりました。
 文化11年(1814)に生まれた斉民は文化14年(1817)に津山藩主松平斉孝の養嗣子となります。父の家斉は男子26人・女子27人の子供を儲け、成年まで生きたのは28名だけですが多くは他家の養子となっています。
 松平斉民は天保2年(1831)1に、養父斉孝の隠居により家督を相続すると、藩の財政再建や教育の普及などに力を注ぎます。人望も厚く家臣や幕府からも高く評価されますが、安政2年(1855)に養父斉孝の息子・慶倫に家督を譲って隠居します。
 甥にあたる13代将軍徳川家定は病弱で、当初から将軍後継問題が発生し、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派と一橋慶喜を推す一橋派が対立した事は有名ですが、この時、一部では斉民を次期将軍に推す動きもありました。しかし、一度徳川家から離れている事や南紀派・一橋派と比べると大勢力ではなかったことから実現はしませんでした。
 明治維新後は徳川宗家を継いだ家達の後見人を務めるなど徳川一族の重鎮として活躍し、明治24年(1891)に78歳で亡くなっています。

津山藩主 松平斉民


東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地。

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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徳川慶喜の息子で勝海舟の養子 勝精

 谷中霊園の江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の墓の隣りに、慶喜の息子で勝海舟の養子となり家督を継いだ、勝 精(かつ くわし)の墓があります。
 精は明治21年(1888)に慶喜の十男として誕生。明治25年(1892)に勝海舟は嫡子小鹿が亡くなったため、徳川慶喜と徳川宗家を継いだ家達に精との養子縁組を申し入れ承諾を得ています。
 明治32年(1899)、勝海舟が亡くなる直前に精は勝小鹿の娘・伊代子と結婚し婿養子となり家督を相続し、伯爵となります。また、精は「浅野セメント」など企業の重役を歴任するなど実業家として活躍し、昭和7年(1932)に亡くなっています。
 実父の徳川慶喜は写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など多趣味であったと言われていますが、精も多趣味で写真やビリヤード、狩猟・投網などが好きでした。また、オートバイに興味を持ち、屋敷内に鉄工所を建設、大正12年(1923)に排気量1000ccのバイクを製作しています。製作にあたったメンバーは後にオートバイのメーカー「目黒製作所」を創業。後に川崎重工業に吸収され、オートバイメーカー「カワサキ」のルーツになっています。

勝 精


東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地。徳川慶喜の舗装通路向かい側

| 明治・大正時代 | 07:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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王政復古派の公家 大原重徳

 大原重徳は幕末から明治にかけて活躍した公家です。
 権中納言・大原重尹の五男として京に生まれ、文化12年(1815)に宮中に昇り孝明天皇に重用されます。
 安政5年(1858)に日米修好通商条約調印の勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎となります。文久2年(1862)に薩摩藩の島津久光が上洛すると赦免され、勅使として薩摩藩兵と共に江戸へ赴き幕府に攘夷決行を迫るとともに、一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍後見職就任、前福井藩主・松平春嶽の政事総裁職への就任を実現させています。
 王政復古派の公家として活躍した重徳は、明治元年(1868)には従二位・権中納言に進み、参与・議定など新政府の役職を務めた後、明治3年に役職を退き明治12年(1879)に79歳で亡くなっています。

大原重徳の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園 乙 6号 5側

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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囲碁棋士 都築仙子

 谷中霊園では以前、囲碁関係で中川亀三郎の墓を紹介しましたが、もう一人、囲碁棋士の墓が確認されています。
 都筑仙子(仙芝)は明治期の囲碁棋士で5段の実力があり、本因坊秀栄や田村保寿(本因坊秀哉)との対局の記録が残されています。墓石の裏側には明治34年1月30日に亡くなったと記されています。
 なお、都筑仙芝の養女、都筑米子は本因坊秀栄・梅主長江らに師事し大正14年(1925)に4段に昇段。同じ女流棋士・喜多文子と互角の勝負を繰り広げライバルとして活躍しています。昭和12年に66歳で亡くなり5段が追贈されています。

囲碁棋士 都築仙子
囲碁棋士 都築仙子の墓

都築仙子の墓 裏
墓の裏側


東京都台東区谷中 谷中霊園 乙6号2側

| 囲碁あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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聖ニコライ

ニコライ堂
ニコライ堂

ニコライ
ニコライの墓(谷中霊園)

 東京都千代田区神田駿河台にあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)は、日本正教会の中心(首座主教座大聖堂)です。
 日本最大級のビザンティン様式の教会でコンドルによる設計で明治24年(1891)に竣工。関東大震災により一部外観が変更された形で修復されます。国の重要文化財に指定され、御茶ノ水界隈のシンボル的な建物として親しまれています。
 谷中霊園には、ニコライ堂を建設し、その名を遺したニコライ・カサートキンの墓があります。
 ロシア人のニコライは、日本での正教布教を志し、1861年に函館の在日本ロシア領事館へ赴任します。ニコライは日本を理解するため、元大館藩軍医の木村謙斉や、後に同志社を創設する新島襄から日本語、日本史などを学び、学僧からは仏教も学んでいます。新島襄は代わりにニコライから英語と世界情勢を教わったそうです。
 明治5年(1873)に、明治政府がキリスト教の禁教令を廃止すると、ニコライは拠点を東京に移し、各地で布教活動を行います。明治13年にニコライは主教(カトリックにおける司教)に叙聖され、主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263と一大勢力を築きます。そして、明治24年には、紆余曲折を経て、東京・神田駿河台に、「ニコライ堂」の通称で親しまれている東京復活大聖堂教会が完成します。
 明治37年(1904)、故郷であるロシアと日本との戦争が避けがたい状況になってくると、ニコライは、2月7日に司祭と信者の集会を開き、日本に留まると宣言します。日露戦争の開戦(旅順口攻撃)は翌日のことだったそうです。ニコライの宣言を受けて内務大臣、文部大臣は、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示したため被害を受けるものはいなかったそうです。
 明治44年(1911)、ニコライが来日して50年たったこの年、大主教への昇叙を祝って盛大な祝典が行われています。しかし、翌年の明治45年(1912)2月16日に日本での伝道に生涯を捧げたニコライは、神田駿河台の正教会で76歳の生涯を閉じます。
 昭和45年(1970)には日本の亜使徒、大主教ニコライは聖人の列に加えられています。

ニコライの墓 : 東京都台東区谷中 谷中霊園 乙2号 新1側
ニコライ堂 : 千代田区 神田 駿河台4-1

| 明治・大正時代 | 19:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「新派」の創始者 川上音二郎の銅像台座

 谷中霊園の一画に、かつて、この場所に建立されていた「新派」の創始者・川上音二郎の銅像の台座がありました。
 音二郎は福岡藩の豪商・川上専蔵の子として文久4年(1864)に博多で生まれます。
 やがて、家をとびだし東京に出ると、職を転々としていましたが、福沢諭吉と出合い慶應義塾で学僕・書生として学び、その後、自由党の壮士として自由民権運動に身を投じ、政治団体「玄洋社」の結成にも参加しています。
 音二郎は「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府を攻撃する演説を行い、度々検挙されます。そこで、講談師の鑑札を取得し明治20年(1887)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行います。政府批判の演説は取り締まられていたため、音二郎は代わりに世情を風刺した「オッペケペー節」を寄席で歌い大ヒット。海外公演も行われ人気を博します。
 アメリカ公演の途中、女形の俳優が急死したため急遽、音二郎の妻・貞奴が舞台に立ち絶賛されます。これが日本初の女優だと言われています。
 また、「オッペケペー節」のような政治的な演説を歌に託した演説歌は略して「演歌」と呼ばれ、現在の「演歌」のルーツとなっています。
 そして、音二郎の一座が始めた演劇は、やがて「新派」と呼ばれ、その流れは現在まで引き継がれています。
 戦前には谷中霊園に銅像がありましたが、戦時中に金属供出で撤去され、現在は台座のみ残されているそうです。

川上音二郎銅像台座
川上音二郎銅像台座

川上音二郎銅像台座説明板
川上音二郎銅像台座説明板

東京都台東区谷中 谷中霊園 甲2号 3側

| 明治・大正時代 | 08:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「明治の毒婦」 高橋お伝

 谷中霊園の中の公衆トイレの隣りに。「明治の毒婦」と呼ばれ、強盗殺人の罪で斬首された高橋お伝の墓があります。
 嘉永3年(1850)に現在の群馬県で生まれたお伝は慶応2年(1867) に結婚しますが最初の夫はハンセン病を発病した後に亡くなっています。お伝は手厚く看病していたといいますが毒殺したという説もあります。
 その後、やくざ者と恋仲となり各地を転々とし借金を抱えていったお伝は、明治9年(1876)8月27日に浅草蔵前の旅籠屋「丸竹」にて古物商の後藤吉蔵を殺害して、お金を奪って逃走。9月9日に強盗殺人容疑で逮捕されます。
 裁判は当時としては異例の長期にわたり、明治12年(1879)1月31日に東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄にて斬首されます。その後、刑法が変わり、斬首刑は廃止されたため、お伝は打ち首になった最後の人物だそうです。
 お伝の事件は新聞などで取り上げられ評判となり、歌舞伎や小説で取り上げられます。亡骸は小塚原回向院に埋葬され鼠小僧次郎吉らと隣接して墓がありますが、明治14年 (1881年) の三回忌の時に、お伝をモデルとした小説「高橋阿伝夜刃譚」を執筆した仮名垣魯文らが中心となって谷中霊園にも墓碑が建立されたそうです。

高橋お伝の墓
高橋お伝の墓

高橋お伝の墓説明板
現地説明板

東京都台東区谷中 谷中霊園 甲2号1側

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大久保利通暗殺犯の墓

 谷中霊園の一画に木々に囲まれて小さな墓石が六つ並んでいます。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、明治新政府の実質的トップであった大久保利通を暗殺した暗殺犯の墓です。
 明治11年(1878)5月14日朝、参議兼内務卿大久保利通は、二頭立て馬車に乗り護衛もつけず、霞ヶ関の屋敷から赤坂御所に向けて出発し、紀尾井坂へ差し掛かりました。この時、不平士族6名の刺客が襲いかかります。日本刀で馬の足を切った後、御者を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろします。大久保は「無礼者」と一喝しますが斬殺され49歳の生涯を閉じます。
 「紀尾井坂の変」と呼ばれる暗殺事件の実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名です。彼らのリーダー格であった島田一郎は西郷隆盛に心酔。萩の乱、西南戦争に呼応し挙兵を試みますが断念し、方針を要人暗殺に切り替えていました。
 6名は逃走するのは卑怯だとして自首。島田らが暗殺時に持参していた斬奸状にはその理由として次の理由を挙げています。

 ・国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。
 ・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
 ・不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
 ・国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。
 ・外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。

しかし、彼らが主張した「大久保が公共事業を利用して蓄財した」という指摘は思い込みで、実際は大久保は事業費の不足分に私財を当時、借金して対応していたため、死後、多額の借金が残されたそうです。このままでは大久保の遺族が路頭に迷うとの配慮から、政府は大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付したお金を回収し、さらに募金を集めて遺族へ返したそうです。この事実を知らされた島田らは愕然としたといいます。
 政府は暗殺犯をについて大審院に「臨時裁判所」を開設して裁きます。暗殺から約2ヶ月後の7月27日に死刑判決を言い渡され、6名は即日、斬罪となっています。

大久保の死後、政府要人には必ず警護が付くようになったそうです。また政府内の主導権は伊藤博文ら長州閥に移ることとなりました。

大久保利通暗殺犯の墓

東京都台東区谷中 谷中霊園乙8号3側

| 幕末・明治維新 | 06:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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