烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年01月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

青雲寺

 西日暮里にある青雲寺は、臨済宗の寺院で浄居山と号し、宝暦年間に堀田相模守正亮の中興と伝えられています。江戸時代の中頃より、この一帯は「日ぐらしの里」と呼ばれ、景勝地として人々に親しまれてきました。四季折々の花を楽しむ人々で賑わい、青雲寺は修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)などとともに、花見寺とも称されていたそうです。
 多くの文人たちも訪れ、青雲寺境内には、「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)や、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残されています。また、現在谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られています。

青雲寺
青雲寺

滝沢馬琴筆塚の碑
滝沢馬琴筆塚の碑

滝沢馬琴硯塚の碑
滝沢馬琴硯塚の碑


荒川区西日暮里3-6-4
スポンサーサイト

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

西日暮里の諏訪神社

 西日暮里の諏方神社は、元久2年(1202)に室町時代の武将で石神井城主・豊島左衛門尉経泰が信州(長野県)諏訪神社より勧請して創建したと伝わっています。
 江戸期には慶安2年(1649)に徳川家光より社領5石を安堵。日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として広く崇敬を集めます。また、この辺りは、「ひぐらしの里」として江戸有数の景勝地でもありました。
 例年8月末に行われる例大祭では、おはやし、神楽舞が行われ、境内や周辺道路に露店が立ち並び、多くの人々で賑わっています。

諏訪神社鳥居
諏訪神社鳥居

諏訪神社
諏訪神社


荒川区西日暮里3-4-8

| 東京散歩 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

幻庵

 井上幻庵因碩の小説が「週刊文春」で連載がはじまりました。著者は百田尚樹さんです。ひと月前の囲碁史会で、取材のためご参加されていました。
 幻庵は本因坊丈和のライバルとして知られ、スケールの大きな碁で古碁ファンの中でも好きな人が多い人物です。碁の内容だけでなく、人生もいろいろあり、小説にしやすい人物です。さらに本因坊家に対しても、元丈、丈和、丈策、秀和、秀策、秀甫と多くの当主、跡目と関わっています。どのような小説になるか楽しみにしています。

| 囲碁史あれこれ | 08:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

浄光寺(雪見寺)

 浄光寺は、真言宗豊山派の寺院で、「法輪山法幢院」と称して江戸時代までは隣接する諏訪神社の別当寺でした。
 元文2年(1737)、八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際にお成りになり、以降御膳所となります。境内には「将軍腰かけの石」が残されています。
 眺望に優れたこの場所は、特に雪景色がすばらしく「雪見寺」とも呼ばれていました。

浄光寺山門
浄光寺山門

 山門をくぐって左手に、銅造地蔵菩薩があります。元禄4年(1691)に無空上人により江戸東部六ヶ所に「江戸六地蔵」が開眼されますが、浄光寺の地蔵は3番目の地蔵だそうです。

銅造地蔵菩薩
銅造地蔵菩薩

境内に「福神漬顕彰碑」が建立されていました。カレーライスに添えられる「福神漬」は明治初頭に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門が考案した漬物です。不忍池の弁財天にちなみ、数々の野菜を七福神に見立て、当時の流行作家「梅亭金鵞」が名付けたと言われています。
 現在は子孫の方により別の場所に移されてしまいましたが、かつては浄光寺の墓地に野田清右衛門の墓があったそうで、碑もその頃に建立されました。墓は移されましたが碑は大きすぎたため、そのまま残されたそうです。

福神漬顕彰碑
福神漬顕彰碑


荒川区西日暮里3-4-3

| 歴史あれこれ | 08:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

養福寺と文人たち

 西日暮里の養福寺は真言宗豊山派寺院の寺院で、補陀落山観音院と号します。湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されました。
 境内にある赤い仁王門は、宝永年間(1704~1711)の建立と伝えられ、門の裏側には広目天、多聞天の二天王像が安置されています。養福寺にあった江戸時代の建物のほとんどは第二次世界の戦火により失われましたが、仁王門は焼失を免れ現代にその姿を伝えています。

養福寺仁王門
養福寺仁王門

 江戸時代に名所として知られた「日暮里」(ひぐらしのさと)へは多くの文人たちが訪れています。
 養福寺には「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などの「談林派歴代の句碑」(区指定文化財)など様々な文人の碑が建立されています。
 談林派は江戸時代前期の俳人・連歌師である西山宗因を祖とする俳諧の一派で、浮世草子作者でもある井原西鶴も宗因に師事していました。
 談林派歴代の句碑の内、雪の碑は文化5年(1808)に建立され、その他の碑は、井原西鶴の百回忌を記念して寛政4年(1792)に建立されています。

梅翁花樽碑(中央)と月の碑(右)
梅翁花樽碑(中央)と月の碑(右)

菱形標石
菱形標石

雪の碑
雪の碑


荒川区西日暮里3丁目3-8

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

上野戦争の傷跡 経王寺

 西日暮里にある経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称します。明暦元年(1655)に豪農冠勝平が要詮院日慶のために創建したと言われています。本堂の隣りの大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が祀られ人々の崇敬を広くあつめてきました。
 慶応4年(1868)の上野戦争の際、敗走する彰義隊士を匿ったため、新政府軍の攻撃を受けています。山門には現在も当時の銃弾の跡が残っています。

経王寺山門
経王寺山門

山門に残る銃弾の跡
山門に残る銃弾の跡

経王寺本堂
経王寺本堂


東京都荒川区西日暮里3丁目2−6

| 幕末・明治維新 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

本行寺の墓

 西日暮里の本行寺の墓所には著名人の墓が数多くあります。

永井尚志(ながいなおゆき)は江戸時代後期の幕府官僚で明治政府でも官吏を務めました。
文化13年(1816)に三河奥殿藩主・松平乗尹(のりただ)の子として生まれた尚志は25歳で旗本永井尚徳の養子となり嘉永6年(1853)に海防掛目付に選抜されます。
 安政2年(1855)に創設された長崎海軍伝習所を統監し、その後、初の外国奉行、更に軍艦奉行に就任しますが安政の大獄で失脚します。文久2年(1862)に軍艦操練所御用掛として復職すると、京都町奉行を経て慶応3年(1868)に若年寄格となり将軍徳川慶喜を補佐、大政奉還の上表文起草を行います。
 その後、戊辰戦争で函館まで逃れますが、明治5年に赦されて明治政府の開拓御用掛に就任、左院少議官、元老院権大書記を歴任しました。

永井尚志の墓
永井尚志の墓

 市河寛斎は江戸時代後期の儒学者、漢詩人です。書家・市河蘭台の子として寛延2年(1749)に上野国(群馬県)に生まれた寛斎は、江戸へ出て昌平坂学問所で学び、その後、江湖詩社を設立して多くの門人を輩出します。
 寛政3年より越中富山藩藩校広徳館の教授を20年間務め、文政3年(1820)に72歳で亡くなっています。
 なお、墓碑銘は寛斎の子で書家の市河米庵によるものです。

市河寛斎の墓
市河寛斎の墓

 市河寛斎の子で書家の市河米庵は安永8年(1779)に江戸京橋桶町に生まれます。
 父・寛斎らに書を学ぶ一方、長崎にて明・清の書画に影響をを受けた米庵は、趣味的なものを排除し格調高い書を目指します。
 寛政11年(1799)に小山林堂を開くと門人は5千人に及んだといいます。また、父の跡を継いで越中富山藩藩校広徳館の教授を務めています。
 巻菱湖、貫名海屋と並んで「幕末の三筆」と称された米庵ですが、安政5年(1858)にコレラのために79歳で亡くなっています。

市河米庵の墓
市河米庵の墓

 墓地の一画に初代金原亭伯楽と刻まれた墓石がありました。金原亭 伯楽は、神奈川県横浜市出身の落語家で本名は津野 良弘。落語協会所属に所属しておられ、まだご健在です。墓は生前墓で建立者もご本人の名前です。

金原亭伯楽の墓(生前墓)
金原亭伯楽の墓(生前墓)


荒川区西日暮里3-1-3

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

御殿坂と本行寺(月見寺)

西日暮里3丁目と台東区谷中七丁目の境界を七面坂上から日暮里駅方面へと下る坂を「御殿坂」といいます。由来は定かではありませんが江戸時代から用いられていた呼称で、かつて将軍家の御殿か、それに匹敵する施設があったと考えられています。

御殿坂
御殿坂

 御殿坂の坂上付近にある本行寺は、大永6年(1526)に江戸城内平河口に創建され、移転を繰り返した後に、宝永6年(1709)に現在地へ移転してきました。
 景勝地であった事から通称「月見寺」とも呼ばれています。

本行寺山門
本行寺山門

 戦国時代には太田道灌が斥候台を築いたと伝わる道灌物見塚があったと言われ、寛延3年(1750)に建立された道灌丘碑が境内に残されています。

道灌丘碑
道灌丘碑

 20世の日桓上人(俳号 一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶も度々訪れていたそうです。本行寺で詠んだ句として「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」という句があります。

小林一茶の碑
小林一茶の碑

山頭火の碑
山頭火の碑


荒川区西日暮里3-1-3

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

羽二重団子と芋坂

 東日暮里の善性寺の道向にある正岡子規や夏目漱石ゆかりの団子屋「羽二重団子」についても善性寺同様、一年前にブログで紹介しましたが、当時、紹介していなかった碑がありましたので今回、紹介させていただきます。

羽二重団子
羽二重団子

羽二重団子の芋坂側に正岡子規の句碑が建立されています。(前回、なぜか見落としていました。)

 芋坂も団子も月のゆかりかな

 羽二重団子の近くの根岸の子規庵で暮らした正岡子規は、ここの団子が好きで、度々、羽二重団子を作品で取り上げています。また、子規の親友である夏目漱石も「吾輩は猫である」で芋坂の団子屋を登場させています。
 この他にも泉鏡花ら多くの文人が作品に取り上げ、正岡子規が登場する司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でも登場していました。

正岡子規の碑
正岡子規の碑

 善性寺の門前から谷中墓地へ登る坂を「芋坂」といいます。かつては坂より天王寺にあった五重塔を望むことができたそうですが、明治15年ごろに鉄道建設のために分断され、五重塔も焼失したため現在、その面影はありません。
 「芋坂」は江戸幕府崩壊後、新政府軍と御家人たちを中心に結成された彰義隊との間で行われた「上野戦争」で、敗走する彰義隊士が通った道でもあります。途中、彰義隊士は羽二重団子で着替え、変装して逃げて行ったと伝えられています。

芋坂
芋坂

関連記事 : 正岡子規や夏目漱石が訪れた羽二重団子

東京都荒川区東日暮里5-54-3

| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

善性寺 双葉山の墓

 丁度一年ほど前に東日暮里五丁目にある善性寺の第55代内閣総理大臣・石橋湛山の墓を紹介しました。その時、境内にある名横綱双葉山の墓の場所が分からなかったために紹介出来なかったため今回、久しぶりに善性寺を訪れました。

善性寺山門
善性寺山門

 前回は石橋湛山の墓を目的に訪れ、双葉山についてはほとんど下調べをしていなかったために分からなかったのですが、双葉山の墓は山門の隣りという実に分かりやすい場所にありました。本名の「穐吉家」と刻まれた墓石でした。
 前人未到の69連勝で知られる昭和の大横綱「双葉山」定次は、明治45年(1912)に、現在の大分県宇佐市下庄で生まれます。
 双葉山は子供の頃より海運業を営む父の仕事を手伝うことで強靱な足腰とバランス感覚を身につけたと言われていますが、5歳の頃、事故により右目を失明、11歳の頃には、右手小指の一部をウィンチに巻き込みつぶしてしまうという二つの大きなハンディを負います。しかし、それを、誰にも悟られぬよう人一倍稽古に励み大記録を達成したのです。
 70連勝をかけて臨んだ昭和14年一月場所四日目、ついに安芸ノ海によって黒星を喫した双葉山は、その日の夜、知人宛てに打った電報で「われ未だ木鶏たりえず」と語っています。
 「木鶏」とは中国の故事に由来し、木彫りの鶏のように全く動じることのない闘鶏における最強の状態をさします。無心の境地に至れなかった自分を戒めた発言ですが、双葉山はその後も精進を重ね、連勝記録がストップした後も3度の全勝優勝を含む7度もの優勝を達成しています。
 引退後は、時津風親方として弟子の指導にあたり、晩年、相撲協会の理事長としても活躍し、昭和43年(1963)56歳で亡くなっています。
 ところで、双葉山は囲碁の呉清源と知り合いだったそうです。しかも、二人が絡んだ「璽光尊事件」で双葉山は逮捕されています。
 第二次世界大戦中におこった新興宗教団体「璽宇」は終末思想を説き信者を増やしていました。引退間もない双葉山は悩むことが多かったのか「璽宇」の信者となります。 一方、呉清源は中国の道教系新興宗教「世界紅卍字会」の信者でしたが日本のグループが「璽宇」に合流したため、その信者となっていました。そして、双葉山と呉清源は教団の広告塔として利用されていました。
 GHQや警察は終末思想を説く「璽宇」の活動を危険視します。昭和22年(1947)に、石川県警察部が金沢市で教団本部を食糧管理法違反の容疑(統制物資の米を大量に所持していたため)で急襲しますが、この時、双葉山は警察隊の侵入阻止のために暴れたため、教祖の璽光尊(長岡良子)と共に逮捕されます。
 逮捕後、周囲の説得で我を取り戻した双葉山は、その後双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉に耳を貸さず「璽宇」を離脱します。また、しばらく教団に残っていた呉清源も、やがて離脱していき「璽光尊事件」を契機に教団は衰退していきました。なお、大騒動となった「璽光尊事件」では双葉山も含めて誰も厳罰されなかったことから、これは有名人の双葉山や呉清源を、「邪教」から救出する意図があったとも言われています。
 なお、日中の囲碁界に多大な功績をした呉清源氏は今年の11月30日に100歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

双葉山の墓
双葉山の墓

墓石に刻まれた戒名
墓石に刻まれた戒名

 この他、善性寺は上野戦争においては彰義隊の屯所になっていた関係からか墓地には彰義隊士の墓もありました。

彰義隊士の墓
彰義隊士の墓

関連記事 : 石橋湛山の墓 善性寺

荒川区東日暮里五丁目41番14号

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。