烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年12月

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畠山重忠邸跡

 鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに畠山重忠邸跡の石碑が建てられています。この辺りに源頼朝に仕えた武将・畠山重忠の屋敷があったそうです。
 畠山重忠は、武蔵国(埼玉県)の武将で治承4年(1180)に頼朝が挙兵した際には平家方の大庭景親に従って戦いますが、頼朝が安房に渡って体制を整えると頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を勤めます。
 怪力の持ち主として知られ、宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残っています。
 また、源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮の若宮回廊において、頼朝に舞を披露した際には、工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当したとも言われています。
 頼朝の信頼を得て段葛や佐助稲荷神社の造営を任されるなど活躍しますが、頼朝が亡くなると勢力拡大を狙う初代執権・北条時政に騙され、領地から鎌倉に赴く途中、武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で討死します。(畠山重忠の乱)
 重忠は北条時政にとって娘婿にあたりましたが、時政の後妻・牧の方と、その娘婿・平賀朝雅の諌言により謀殺を決意したと伝えられています。
 清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された重忠が謀反の疑いを懸けられ亡くなると、北条時政は北条氏に不満を持つ御家人たちの反感を買います。また、平賀朝雅を3代将軍実朝暗殺後に次期将軍に擁立しようと画策したことから、娘の北条政子と息子の北条義時(第二代執権)により伊豆へ追放され政治生命を絶たれています。

畠山重忠邸跡
畠山重忠邸跡

畠山重忠邸跡の碑
畠山重忠邸跡の碑

 余談ですが、畠山氏は重忠と共に息子たちも殺害されたため断絶となります。しかし、重忠の妻(北条時政の娘)が源氏の支流・足利家の足利義純と再婚すると義純は畠山姓を名乗るようになります。その庶流が河内守護となり、渋川、そして安井姓を名乗るようになります。それが、道頓堀を築いた安井道頓、道卜や囲碁家元・安井家の初代安井算哲のルーツとなるのです。


鎌倉市雪ノ下3-2-19付近で,八幡宮の流鏑馬道の東側入口
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| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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源頼朝の御所 大蔵幕府跡

 鎌倉に入った源頼朝は鶴岡八幡宮の東、雪ノ下の地に御所を建てて幕府を開きます。最初に平安時代の貴族の屋敷のような寝殿造りの建物を建て、その後、侍所、公文所、問注所などの役所を作って幕府の形を整えたそうです。以来、3代将軍実朝の時代まで約40年近く幕府が置かれていました。
 現在周辺は住宅街となっていて大倉幕府跡の碑が清泉小学校の南西の端に建っています。石碑からすぐ近くに位置する大倉山には源頼朝公の眠る墓があります。
 大蔵幕府の敷地は,東西約270m,南北約220mと推定され,東西南北に門が設けられていたといわれています。現在,西御門と東御門の跡に碑が建てられています。

大蔵幕府跡
大蔵幕府跡

大蔵幕府跡の碑
大蔵幕府跡の碑

東御門跡
東御門跡

西御門跡
西御門跡


大蔵幕府跡の碑:清泉小学校(神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11−45)
東御門跡の碑:清泉小学校北西角の交差点(西御門2丁目8−10および県鎌倉市二階堂53付近)
西御門跡の碑:横浜国立大学教育人間科学部 附属鎌倉中学校北東角
            (雪ノ下3丁目5、神奈川県鎌倉市西御門2丁目1−11の道向)

| 鎌倉時代 | 08:25 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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関取場跡

 鎌倉の「筋替橋」の碑がある場所は県道204号のカーブですが、そのまま道なり進み、岐れ路交差点を70~80mほど過ぎた左手に「関取場跡」の碑が建立されています。
 地元の人は「せきば」と呼び、かつては「関取場」と呼ばれていたこの場所は北条氏康(小田原北条氏)が、荏柄天神社の修復費用に充てるため、通行税をとった関所だったそうです。
 その掟書は荏柄天神社に所蔵されていて「徒歩は五文、背負人は十文、里人の行き来及び僧侶は無料」となっていました。

関取場跡
関取場跡

関取場跡の碑
関取場跡の碑


神奈川県鎌倉市雪ノ下562−10付近

| 鎌倉時代 | 07:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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電子書籍「本因坊 戦国を生きた男たち」の販売について

 この度、ゴマブックス様の電子書籍投稿サイト「BookSpace」より電子書籍「本因坊 戦国を生きた男たち」を発売することとなりました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に囲碁をもって交流を深めた本因坊算砂を中心に、碁打ちたちと戦国大名の駆け引き、戦国の生き様を描いた長編歴史小説です。
 amazonとiBooksと楽天市場の電子書籍コーナーから購入する事ができます。スマホやパソコンからでも読むことが出来ます。ぜひ、ご覧ください。
 なお、 amazonからの購入については、ブログにリンクを貼り付けていますので参考にして下さい。


<amazon電子書籍コーナー>

本因坊 戦国を生きた男たち本因坊 戦国を生きた男たち
(2014/11/20)
烏鷺光一

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| 日記・エッセイ・コラム | 06:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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筋替橋

 鎌倉の鶴岡八幡宮の北側、横浜国立大学附属小中学校の近くに「筋替橋跡」の碑が建立されています。昔ここを通っていた六浦道(金沢街道)に対し、斜めに橋が架けられていたことから名付けられたとされ、「鎌倉十橋」の一つに数えられています。川は昭和49年の街道拡張工事により暗渠(地下を通る水路)となり橋も現存していませんが、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」にもたびたび登場している橋です。

筋替橋跡
筋替橋跡

 鎌倉時代の宝治元年(1247)に執権北条氏と有力御家人三浦氏とが争った内乱「宝治合戦」が勃発します。
 当時、北条氏主導の政治に不満を募らせていた勢力が北条氏に対抗し得る有力御家人・三浦氏を中心に結集し北条方と対立を深めていました。
 双方とも和平の努力をしていましたが、北条方の強硬派である安達泰盛は兵を集め出撃。「筋替橋」の辺りで三浦氏への攻撃をはじめたと言われています。
 「宝治合戦」により三浦氏は滅亡し、北条氏による専制体制はより強化されたと言われています。

筋替橋跡の碑
筋替橋跡の碑


鎌倉市雪ノ下3-3-20付近

| 鎌倉時代 | 07:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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東勝寺跡と腹切りやぐら

 東勝寺は、かつて鎌倉市葛西ケ谷にあった寺院で、嘉禄元年(1225)に三代執権・北条泰時が北条一族の菩提寺として建立しました。
 元弘3年(1333)に新田義貞の軍勢が鎌倉へ攻め込むと十四代執権・北条高時らは東勝寺に篭もり自ら火を放ち自刃します。一族、家臣合わせて870名も運命を共にしたと言われ、ここに150年近く続いた鎌倉幕府は滅亡の時を迎えたのでした。
 その後、東勝寺は再建されますが、やがて衰退し廃寺となります。東勝寺跡は昭和50年以降、何回か発掘調査が実施され、礎石などの遺構を発掘。宋・元代の獣足青磁香炉や天目茶碗、古瀬戸の壺などが発掘され平成10年(1998)年に「東勝寺跡」として国の史跡に指定されています。

東勝寺跡
東勝寺跡

 東勝寺跡を更に進むと「腹切りやぐら」と呼ばれる洞窟があります。「やぐら」とは鎌倉周辺で鎌倉時代から室町時代にかけて作られた、横穴式の納骨窟または供養堂で、あくまで伝承ですが最後の執権・北条高時は、ここで自刃したと言われ供養塔が建立されています。

腹切りやぐらへと続く道
腹切りやぐらへと続く道

東勝寺跡の碑
東勝寺跡の碑

腹切りやぐら
腹切りやぐら


神奈川県鎌倉市小町3丁目

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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東勝寺橋 青砥藤綱旧蹟

 宝戒寺の南側、鎌倉幕府滅亡の地である東勝寺跡へと向かう途中の滑川に架かる橋を「東勝寺橋」といいます。
 現在の東勝寺橋は、関東大震災の復興事業として大正13年に建造された鉄筋コンクリート製のアーチ橋です。V字型の谷間との微妙なバランスなどその美しい姿は多くの人々に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されています。

東勝寺橋
東勝寺橋

東勝寺橋
東勝寺橋

 東勝寺橋の橋詰めに青砥藤綱旧蹟の碑が建立されています。青砥藤綱は鎌倉時代後期、執権北条時頼に仕えた武士です。
 北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢で神のお告げがあったとして、藤綱に官位を授け、御家人の領地訴訟を取り扱う「引付衆」へ抜擢します。しかし、当初、藤綱は「夢により人を取立てるなら、夢により人を処罰することもあり得る。功績の無い自分が取立てられるのはおかしい。」と任命を固辞したと言われています。
 「引付衆」となってからも、北条時頼が訴えられると、多くの役人たちはその権威をはばかって時頼の勝訴としていましたが、藤綱が扱った領地争いでは道理を重んじ、時頼敗訴の裁定を下しています。さらに、時頼を訴えた人物が謝礼にと贈った銭を送り返すなど、その公正・剛直が広く知られ、江戸時代の大岡越前と並び名裁判官として語り継がれています。
 藤綱は、ある日の夜に滑川を通った際、銭10文を落としています。そこで、銭50文で松明を買って落とした10文を探したと言われています。人々は10文を探すのに50文を使うとはと嘲笑います。しかし、藤綱は「10文といえど、天下の貨幣を永久に失うことは損失になる。50文は自分にとっては損になるが、他の人の利益となっていて、合わせて60文が世の中の役に立った。」と答えたといいます。
 藤綱が10文を落としたのが東勝寺橋の辺りであったと言われています。

青砥藤綱旧蹟の碑
青砥藤綱旧蹟の碑

10文を落としたという滑川
10文を落としたという滑川


神奈川県鎌倉市小町三丁目

| 鎌倉時代 | 08:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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宝戒寺 北条氏屋敷跡

 神奈川県鎌倉市にある天台宗の寺院、宝戒寺の境内は鎌倉幕府執権北条氏の屋敷跡と伝えられています。
 鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、元弘3年(1333)に新田義貞の軍に追い詰められ、宝戒寺の裏山にある東勝寺にて一族郎党870余名と共に自害し鎌倉幕府は滅亡します。
 その後、北条高時の慰霊のため後醍醐天皇の命により足利尊氏が建立したのが宝戒寺です。

宝戒寺参道
宝戒寺参道

宝戒寺参道
宝戒寺参道

宝戒寺本堂
宝戒寺本堂

北条執権邸跡の碑
北条執権邸跡の碑


神奈川県鎌倉市小町3-5

| 鎌倉時代 | 20:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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土佐坊昌俊邸跡

 小町大路、宝戒寺の近くに源頼朝に仕えた御家人・土佐坊昌俊の屋敷跡があります。
 平氏を滅ぼした源頼朝は鎌倉幕府安泰のため、文治元年(1185)、京にいる対立していた弟・源義経を討伐するべく御家人達を収集しますが、平家滅亡の立役者で武名の高い義経を少人数で襲撃する計画に名乗り出る者はいませんでした。
 そうした中、土佐昌俊だけが手をあげ頼朝を喜ばせます。昌俊は頼朝に下野国にいる年老いた母と、幼い子供の行く末を託し、頼朝は下野国の中泉庄を与えたと言われています。
 昌俊は83騎の軍勢で、京の義経の館を襲撃しますが、返り討ちにあい捕らえられ、六条河原で処刑されます。義経は襲撃翌日に後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受け取ると直ちに挙兵の準備を開始しますが、頼朝はただちに義経追討軍を派遣します。
 この事から、昌俊による襲撃は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与える事が目的で生きては帰れない事が前提であったと考えられています。

土佐坊昌俊邸跡
土佐坊昌俊邸跡

土佐坊昌俊邸跡の碑
土佐坊昌俊邸跡の碑


神奈川県鎌倉市雪ノ下1-14-23辺り

| 鎌倉時代 | 09:39 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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若宮大路幕府跡

 「野尻邸(旧大佛次郎茶亭)」の隣りに「若宮大路幕府跡」の碑があります。
 若宮大路幕府は、鎌倉時代の1236年から1333年にかけて98年間、鎌倉幕府の将軍の御所および政庁が置かれた場所で、若宮大路御所ともいいます。
 場所は、それ以前にあった宇都宮辻子幕府の北側と言われていますが、宇都宮辻子幕府が増築され、入口が若宮大路側に面したという説もあります。
 1333年に新田義貞の鎌倉攻めにより鎌倉幕府が崩壊するまで政治の中心として機能していました。


若宮大路幕府跡
若宮大路幕府跡

若宮大路幕府跡の碑
若宮大路幕府跡の碑


神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-21付近

| 鎌倉時代 | 06:10 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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