烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年11月

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平将門の首塚と囲碁 原田甲斐

 過去に紹介したブログの中で囲碁について触れていなかった話題を紹介します。
 東京駅の近く、大手町の一画にある「平将門の首塚」については2012年2月のブログで紹介しましたが、ここは、江戸時代は、大名の酒井家上屋敷であった事も紹介していました。
 そして、酒井家上屋敷は「伊達騒動」の舞台となった場所でもあります。
 伊達政宗を初代とする仙台藩第三代藩主伊達綱宗は遊興放蕩三昧のため親族大名たちにより21歳にして強制的に隠居させられます。後を継いだ息子の綱村は幼少であったため綱宗を隠居に追込んだ叔父の一関藩主伊達宗勝が後見役となり、その一派の家老原田甲斐(宗輔)たちがが藩政の実権を握ぎります。
 原田達に冷遇されていた伊達一門の伊達安芸宗重は伊達藩改易の恐れがあるにも関わらず幕府へ宗勝派の横暴を訴え出ます。そして、寛文11年(1671)3月27日に当時の老中・酒井忠清の上屋敷で宗重や原田が集まり審問が行われます。しかし、自分の立場が不利である事を知った原田は宗重に斬りかかり斬殺。原田も周りの人々に斬り殺されてしまいました。これが世に言う「伊達騒動」です。
 この事件により原田家は断絶。一関藩も改易となりましたが、当事者が死んでしまったため当初の審問は中止され伊達藩はお咎めなしとなっています。
 「伊達騒動」は歌舞伎「伽羅先代萩」の題材となり原田は悪人として描かれてきましたが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では汚名を一身に受け宗重斬殺により仙台藩を救った人物として描かれています。

 そして、この原田甲斐こそ、囲碁が縁で生まれた人物なのです。原田甲斐は元和5年(1619) 仙台藩の重臣・原田宗資の長男として生まれます。母親は元豊臣秀吉の側室で、のちに伊達政宗に仕えた重臣・鬼庭綱元の側室となった香の前の娘です。
 文禄2年(1593)秀吉による文禄の役で伊達政宗は朝鮮半島に渡りますが、鬼庭綱元は名護屋城留守居役として秀吉との折衝役を務めます。この時、綱元を気に入った秀吉は囲碁の勝負を挑み、自分が勝ったら家臣として召し抱え、負けたら、お気に入りの側室・香の前を与えると言い出します。結果は綱元が勝利し香の前は綱元に与えられました。
 しかし、日本へ帰ってきた政宗はこの話を聞き、綱元が裏切るのではないかと疑い、綱元に隠居を迫ります。
 激怒した綱元は香の前を連れて伊達家を出奔します。徳川家康が召し抱えようとしますが政宗の反対で実現せず、同情した家康は資金援助しています。2年後に綱元は伊達家へ復帰しますが、この時、香の前は政宗に取り上げられ、数年後に再び綱元に下げ渡されています。
 香の前は二人の子を産んでいますが、この事から二人とも政宗の子供という説があります。つまり、「伊達騒動」の原田甲斐は伊達政宗の孫かもしれないという事です。


「平将門の首塚」入口

blog_import_541e3c763cdf4.jpg
現地案内板


関連記事:将門の首塚

千代田区大手町1-2-1
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| 囲碁が関わった出来事 | 06:18 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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井上家の菩提寺 妙善寺 

 井上家の菩提寺である妙善寺についても、安井家菩提寺と同様にホームページでの紹介に留めていたので今回紹介させていただきます。数年前に取材したものです。
 港区西麻布にある日蓮宗日通山妙善寺は、寛永四年(1627)に、紀州藩家老三浦長門守為春が創建した寺です。
 為春の妹は徳川家康の側室で、紀州藩主徳川頼宣と水戸藩主徳川頼房の生母である養珠院お萬の方です。為春とお萬の方は共に日蓮宗の熱心な信者でした。
 妙善寺では、法要説教の他、茶会、歌会、書画会、碁会等が催され、中でも家元井上家による碁会が常設されていたため「麻布の碁寺」とも呼ばれていたそうです。こうした縁から境内の墓地に井上因碩家歴代が埋葬されています。

 場所は六本木ヒルズの「グランドハイアット東京」の前にありますが、山門にあたる入り口がマンション(1階が飲食店)になっていて分かりにくく迷ってしまいました。なお、墓所へは自由に入れませんのでお参りしたい方はお寺へ事前に相談が必要でしょう。取材したときも墓所には入れませんでした。

妙善寺


妙善寺


東京都港区西麻布3-2-13

| 井上家 | 08:26 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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安井家の菩提寺 浄心寺

 安井家の菩提寺である江東区平野2丁目にある浄心寺もホームページのみで紹介していました。
 浄心寺は万治元年(1658)に四代将軍德川家綱の乳母三沢局の冥福のために、三沢局が帰依していた通遠院日義を開山として創建されました。
 德川家綱から寺領100石の御朱印状を拝領、宝暦三年(1753)には身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、身延山の弘通所と呼ばれます。また、将軍家より十万石の格式を許され、江戸十祖師の随一といわれた名刹です。
 囲碁家元の安井家は明治に入り、十世算英の実子、昌三は碁が強くなく、後継を決められないまま算英が亡くなり家元としての安井家は途絶えます。昌三は明治42年(1909)に浄心寺に「安井家歴代之墓」を建て、十一世安井昌三立石と刻んでいます。なお、墓地は自由に出入り出来ませんのでお参りしたい方はお寺への相談が必要でしょう。

浄心寺
浄心寺山門

浄心寺
浄心寺

東京都江東区平野2丁目4−25

| 安井家 | 09:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩本薫和本因坊生誕之地碑

 現在、ブログ移設とともに、ずっと更新していなかったホームページを移設し再開しようと準備を進めています。それに伴い資料を整理しているとホームページでは紹介しているのにブログには掲載していなかったり、紹介した名所旧跡が囲碁史に関係あるのに触れていないものがある事がわかりましたので今回、紹介させていただきます。

 島根県益田市は、「原爆下の対局」で知られ、元日本棋院理事長であり海外での囲碁普及にも貢献した「岩本薫和本因坊」こと岩本薫の出身地です。
 その生誕地の高津一丁目には市民グループにより2006年に建立された石碑があります。2011年に益田を訪れ取材しホームページでは紹介していたのですがブログでは紹介していませんでした。
 碑は普通の民家の前にあるので分かりにくいかもしれない。高津小学校を目指していき学校入口の路地から20mほど離れたところにあります。

岩本薫和本因坊生誕之地碑

島根県益田市高津一丁目

| 日本棋院 | 06:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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内閣総理大臣杯

昨日は日本棋院で内閣総理大臣杯に参加してきました。無差別で2チーム出場。無差別クラスは全部で8チームでした。4チーム2ブロックで各上位2チームが準決勝進出です。
Aチームの方は団碁汁、新宿囲碁センターに破れ敗退。Bチームの方はなんと1勝2敗なのに枠抜け、準決勝進出です。前回優勝のTIS連合が抜けており、そこが3勝、あとが1勝2敗で並ぶ混戦となり個人勝ち数でブロック2位となりました。結果は4位。
無差別の結果
優勝   団碁汁(平岡聡・多賀文吾・片山浩之)
準優勝 新宿囲碁センター(鮫島一郎・尹統一・滝沢千晴)
三位   TIS連合(土棟喜行・池田直生・関翔一)

| アマ対局 | 08:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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瀬越憲作先生像

 「石谷広策寿蔵碑」を見学した後、タクシーで高田港へと向かいます。ここには瀬越憲作の像があります。「石谷広策寿蔵碑」にしても瀬越憲作の像にしても、詳しい場所を説明しなくてもタクシーの運転手の方がよく知っていたりします。
 なお、高田港にもフェリーが寄りますので、像を見学後、ここから広島港へと帰りました。
 瀬越憲作は、大正から昭和にかけて活躍した囲碁棋士で、方円社に所属し日本棋院設立にも尽力します。
 昭和20年に弟子の第二期本因坊・橋本宇太郎に岩本薫7段が挑戦する第三期本因坊戦が開催される事になりますが、東京大空襲で日本棋院が焼失したため、瀬越が疎開している郷土広島での開催に奔走しています。
 瀬越は本因坊戦の立会人を務めますが、ここで原爆投下に遭遇します。会場は爆心地から10kmも離れていましたが窓ガラスが粉々になるなど大きな被害を受け、対局者の橋本宇太郎は庭にうずくまり、岩本薫は盤上にうつ伏せとなる状態でした。しかし、瀬越だけは平然と正座したままだったといい、人々はその冷静さを称えましたが後に瀬越は腰が抜けて動けなかったと語っています。なお、瀬越の三男と甥は原爆投下により亡くなっています。
 終戦後は岩本薫らと共に日本棋院の再建に尽力し、昭和21年(1946)から二年間、日本棋院初代理事長に就任します。
 昭和30年(1955)に引退すると、名誉九段に推され、1958年には棋士で初の紫綬褒章、1966年には勲二等瑞宝章を受章しました。しかし、昭和47年(1972)に体の衰えを苦に自ら命を絶っています。享年83歳
 能美島の像は1983年にその功績を讃えて建立されたものです。また、2009年には囲碁殿堂入りを果たしています。

瀬越憲作先生像
瀬越憲作先生像

広島県江田島市能美町高田1429−5 JA呉高田支店のとなり

| 日本棋院 | 20:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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石谷広策寿蔵碑

 広島滞在の最終日、早朝より広島(宇品)港フェリー乗場へ行き、能美島へ渡りました。
 能美島は囲碁会においては、本因坊秀策の兄弟弟子の石谷広策と、本因坊昭宇(橋本宇太郎)の師匠で昭和21年(1946)に、日本棋院初代理事長に就任し、戦後の日本棋院再建に尽力した瀬越憲作の出身地です。
 能美島は現在は車でも呉から島伝いに橋を渡って行けますが、広島市内からは遠回りになるのでフェリーで行くこととしました。能美島といっても、現在の島の形は東能美島、西能美島、江田島と三つの島が陸地でつながる一つの島で江田島市を形成しています。中世までは、それぞれ独立した島だったそうですが、やがて埋め立てられるなどして一つの島となったそうです。

広島(宇品)港フェリー乗場
広島(宇品)港フェリー乗場

 フェリーに乗り能美島の中町港に到着すると、そこからはタクシーで移動しました。まず、目指したのは「石谷広策寿蔵碑」です。
 石谷広策は文政元年(1818)に能美島の中村(現在の中町)に生まれ、本名は広二と言いました。
子供の頃から優れた棋力を持っていたそうで、天保13年(1842)江戸に登り、本因坊丈策の門人となって後継者秀和・秀策に師事します。
 秀策は兄弟子ですが同郷で十一歳年下であり、広二は秀策に物心ともに迷惑をかけることが多く、秀策が国許へ送った書簡には、もし広二が訪ねてきても彼の話を信じるなと書き記しています。
 しかし、広策の後半生は秀策顕彰活動にささげ、打碁集「敲玉余韵」を発行するなど秀策の名声を高めています。前聖道策に対する後聖丈和が秀策に取って代わられたのは石谷に負うところが大きいそうです。
 慶応3年(1867)に以前紹介した三原の糸崎神社境内に、秀策の顕彰碑を建立し、秀和から「策」の一字を許されて広策と名乗るようになります。
 寿蔵碑は後進を育成し、多くの棋士を輩出した広策が70歳の時に門人たちにより、その功績を称え、存命中にと広島市西区草津南町に建てられたものです。その後、広電宮島線開設による工事のため、故郷である現在地に移設されています。
 なお、能美島には石谷広策の墓もありますが、こちらは民家の敷地内にあるそうで非公開です。

能美島
能美島



石谷広策寿蔵碑
石谷広策寿蔵碑

江田島市能美町中町3374-20 中町駐在所の隣


| 本因坊家 | 23:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蓮教寺 原爆下の対局ゆかりの寺

 宮島の取材の後、「広電宮島口駅」から「広電廿日市駅」へと向かいました。駅近くにある「蓮教寺」を訪れるためです。
 裏通りに面して閑静な場所にある「蓮教寺」は浄土真宗本願寺派の古刹で、現在の広島市佐伯区から江戸初期にこの地に移っています。
 境内にあるソテツの大樹はもとは、近くにあった津和野藩御船屋敷に植えられていたものだそうです。昭和60年に市天然記念物に指定されています。

 「蓮教寺」は昭和20年の原爆投下時に広島で行われていた第3期本因坊戦、いわゆる「原爆下の対局」ゆかりの寺でもあります。
 「原爆下の対局」については以前も紹介しましたが、第二期本因坊・橋本宇太郎に岩本薫七段が挑んだ対局で、当初、爆心地近くにあった当時の日本棋院広島支部長の藤井氏の別邸(現在の広島平和公園内)で開催されます。広島が選ばれた理由は橋本宇太郎の師匠・瀬越憲作の故郷で疎開先であったためだそうです。
 しかし、7月23日から3日間行われた第一局では、米軍機の機銃掃射が会場の建物に当たるなど危険な状態であったため、第二局以降は市内から10kmほど離れた佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)へと会場が変更になります。そして、第二局の三日目である8月6日、午前8時15分、この日の対局が始められた直後に人類史上初の原爆が投下されます。
 爆心地から10kmも離れた本因坊戦会場でも、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われています。また、橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたそうです。
 しかし、対局は一時中断されますが、部屋を清掃後に再開され、対局者に動揺はあったものの最後まで打ち切ったそうです。
 第三局以降も引き続き同会場で打たれる予定でしたが、広島支部の藤井支部長以下、多くの関係者が亡くなり、立会人であった瀬越憲作の息子も重体(後に死亡) となったため、対局は中止されます。
 それまでの対局結果は1勝1敗で、本因坊の座は日本棋院預りとなります。そして、翌年に改めて高野山にて三番勝負が実施されて岩本薫七段が2連勝し、第3期本因坊の座につきます。
 ところで、蓮教寺との関わりですが、原爆犠牲者の慰霊のために三番勝負第一局の二手のみが五日市町の西隣の廿日市町にあった蓮教寺で打たれたそうです。
 蓮教寺を訪れた時、何か本因坊戦に関する資料が残っていないか、ご住職にお尋ねしましたが、当時から二代も住職が代わり、しかも地元出身ではないため、そういう話は伝わっていないとの事でした。以前も新聞記者が取材に来たそうですが分からないそうです。ただ、ご住職の話によると、廿日市は古くから海運が発達した場所で、瀬越憲作の出身地である能美島の人々は本土に用がある時は廿日市の港を利用していたそうです。
 取材前は蓮教寺で慰霊の対局が打たれたのは、単に五日市町に近かったからと思っていましたが、今回の取材により瀬越憲作がよく知っていた土地でもあったという理由が判明しました。

広電廿日市駅
広電廿日市駅

蓮教寺山門
蓮教寺山門

蓮教寺本堂
蓮教寺本堂

蓮教寺のソテツ
蓮教寺のソテツ

広島県廿日市市天神3−6

| 日本棋院 | 23:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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宮島の神社

 宮島には厳島神社の末社の神社が数多く点在しています。
 厳島神社末社の幸神社の祭神は猿田彦神ですが、かつては疫病の神・牛王が祀られてていました。厳島神社へ参拝する道筋にあたる、この場所は当時は島内屈指の繁華街で、未完の鉄の鳥居があり「金鳥居の辻」とも呼ばれていました。1800年代初頭に神社名が幸神社へと変わり、町名も、それまでの「牛王町」から「幸町」へ変わったそうです。

幸神社 宮島
幸神社(広島県廿日市市宮島町469(幸町))

 荒胡子神社はスサノオノミコトを祀った神社で石造りの四脚鳥居、瓦葺の拝殿があり、その奥に桧皮葺で朱漆塗の社があります。嘉吉元年(1441)に建てられ、もとは大願寺の子院金剛院の鎮守であったといわれています。

荒胡子神社
荒胡子神社(広島県廿日市市宮島町)

 粟島神社の祭神・少彦名命は、大国主命に協力して国土開発、殖産興業、社会福祉等に大きな功績を遺された神様で、商業、産業、醸造、医療等の守護神として篤い崇敬を受けています。また、病気平癒、安産、家内安全などの霊験あらたかな神様として女性の方々の信仰を受けています。

粟島神社
粟島神社(広島県廿日市市宮島町滝町1-1)

 三翁神社は3殿から成り、中央殿に大綿津見神、安徳天皇、佐伯鞍職、二位尼、所翁(ところのおきな)、岩木翁(いわきのおきな)を、向かって右の左殿に大己貴神、猿田彦神、向かって左の右殿に御子内侍(みこのないし)、徳寿内侍(とくじゅのないし)、竹林内侍(ちくりんのないし)の各祖神が祀られています。
 平安時代末に平清盛が近江国の山王社から勧請したものと伝えられ、明治以前は山王社と称されていたそうです。

三翁神社
三翁神社(広島県廿日市市宮島町大町1)

 清盛神社は平清盛公を祀った神社です。創建は新しく、昭和29年に清盛公没後770年を期にその功績を顕彰し三翁神社から遷座し創建されました。

清盛神社
清盛神社(広島県廿日市市宮島町西大西町)

| 歴史あれこれ | 06:07 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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宮島の史跡

宮島を歩き回っていると、厳島神社以外にも様々な史跡が点在しています。

 林家は古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差遣使の代参をつとめて上卿とよばれていました。
 現在の建物は元禄時代のもので、国の重要文化財に指定されています。

上卿屋敷(林家住宅)
上卿屋敷(林家住宅)  廿日市市宮島町滝町235

 江戸時代の厳島神社の管理運営は棚守・座主・大願寺により行われていました。棚守は神職として神事を行い、自らも舞楽を舞っていたそうです。
 棚守屋敷は広島藩主が宮島に参拝する時の宿泊所として使われ、邸内には能舞台もあったと言われています。

棚守屋敷跡
棚守屋敷跡  廿日市市宮島町242−1

 江戸時代に広島藩は宮島へ奉行所を置いていました。現在でいう市役所と警察署を兼ねた組織です。奉行所のあった場所は明治以降、宮島町役場となりましたが、現在は廿日市市と合併して市役所の支所となっています。

宮島奉行所跡
宮島奉行所跡  廿日市市宮島町412 廿日市市役所宮島支所

宮島奉行所跡碑
宮島奉行所跡碑

 宮島奉行所跡の脇から石段を上ると、「塔の岡」と呼ばれる場所に出ます。五重塔が近くにあるので、そう呼ばれています。
 この場所は弘治元年(1555)に毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島の戦い」の古戦場です。陶晴賢は毛利方の支配する宮尾城を攻撃するために、この岡に陣を張りますが、元就は夜半の暴風雨に乗じて宮島へ上陸。翌朝未明に急襲し陶軍を打ち破ったそうです。

塔の岡
塔の岡  廿日市市役所宮島支所隣接

| 歴史あれこれ | 08:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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