烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年10月

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旧国泰寺愛宕池

 広島市中区の白神社の隣りにある「ANAクラウンプラザホテル広島」の前に「旧国泰寺愛宕池」があります。
 この辺りは、かつて国泰寺という寺院がありましたが移転し、境内にあった愛宕池のみ残されています。
 国泰寺は元は文禄3年(1594)に毛利氏の外交僧であった安国寺恵瓊が臨済宗の寺院「安国寺」を創建したのに始まります。
 恵瓊は羽柴秀吉の「備中高松城の水攻め」での和睦交渉を取りまとめ毛利家の所領安堵に成功。その交渉術を評価され天下人となった秀吉に仕え大名となったと言われています。
 関ケ原の戦いでは西軍に味方したため、捕えられて石田三成らと共に処刑されます。
 安国寺は、恵瓊の死と毛利家の減封で広島に入封した福島正則により「国泰寺」と改められ曹洞宗に改宗します。
 福島氏の次に入封した浅野氏の菩提所となり発展します。幕末には元治元年(1864年)の第1次長州征伐で、幕府軍の総督府が置かれ、近藤勇ら新選組幹部も訪れています。また、明治期に入って明治6年(1873)から明治9年(1876年)までには県庁仮庁舎が寺内に置かれます。
 「国泰寺」は海岸沿いに創建され、隣接する白神社から連なる岩礁の一部を利用して池が造られます。それが「愛宕池」です。 「国泰寺」は昭和53年に広島市西区己斐上に移転しますが「愛宕池」のみ残されて当時を偲ぶことが出来ます。

旧国泰寺愛宕池
旧国泰寺愛宕池

旧国泰寺愛宕池説明板
現地説明板

広島県広島市中区中町7-20 ANAクラウンプラザホテル広島前


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| 歴史あれこれ | 05:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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白神社 広島

 広島市内の平和大通りと広島城から南に延びる鯉城通りが交差する交差点角にある白神社(しらかみしゃ)は、古くから地元では「しらかみさん」と呼ばれて親しまれてきた神社です。
 創建時期は不明ですが、かつてはこの辺りが海岸線であり、現在の神社がある地点は海面から突き出た岩礁だったそうです。岩礁に船がぶつからないように白い紙がたてられていたそうで、干拓工事等によりこの辺りが陸地になった後も海難防止の守り神として祠が建てられ、白紙にちなみ「白神社」となったようです。
 天正19年(1591)に広島城を築いた毛利輝元は新しい社殿が建立。城主の氏神、広島城下の総産土神とし、隣接する旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社へと発展しますが原爆により焼失し、再開発により大幅に規模を縮小して再建されます。
 境内には神社建立のきっかけとなった岩礁が残されていて、かつてここが海であった事を偲ばせています。

白神社
白神社

広島県広島市中区中町7-24

| 戦国時代 | 19:05 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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平和大橋

 広島平和記念公園の南側を通る平和大通りに掛かる「平和大橋」はユニークな形状の欄干で知られています。元々この場所には「新橋」という橋がありましたが原爆により落橋したため、1952年に再建されます。
 原爆で壊滅した広島を復興するにあたり広島平和記念公園などが整備されます。新橋の再建では当初は普通の橋として施行が始まりますが、施主の建設省は平和公園の入口でもあり、せめて欄干だけでも公園とマッチしたデザインにできないかと、広島平和記念施設を設計した建築家・丹下健三(後に現在の東京都庁やフジテレビを設計)に相談した結果、健三の知人で世界的に高名な日系アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチがデザインすることとなります。

平和大橋

 イサム・ノグチ氏は原爆を落としたアメリカ人を母にもち、原爆を落とされた日本人を父にもつという境遇からか広島の平和公園整備では慰霊碑の設計公募に参加。デザイン採用が内定しますが、アメリカ人という理由で強硬に反対する意見が出され内定が取り消されます。
 慰霊碑は結局、イサム・ノグチの設計をベースに丹下健三が再設計しています。そういった経緯から公園の外の「平和大橋」のデザインが依頼されたのでしょう。

原爆慰霊碑
イサム・ノグチ氏の設計をベースに造られた原爆慰霊碑

広島市 中区中島町

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第三期本因坊戦第一局会場 藤井別邸跡

 広島平和記念資料館を訪れた目的の一つは、以前紹介した「原爆下の対局」として知られる第三期本因坊戦第二局の12日前まで行われていた第一局の会場で、当時の日本棋院広島支部長の藤井氏の別邸に関する情報を収集する事でした。
 資料館には平和公園の被爆前と被爆直後のジオラマが展示されています。現在の平和公園内にあった藤井氏別邸も再現されていると考え訪問しました。
 東京大空襲により日本棋院が焼失したため第二期本因坊橋本宇太郎七段(本因坊昭宇)へ岩本薫七段が挑戦する第三期本因坊戦は橋本本因坊の師匠である瀬越憲作八段の故郷である広島市で開催される事となり、藤井氏の別邸で開催されます。しかし、第一局が行われた昭和20年7月23・24・25日にはアメリカ軍機の機銃掃射が会場の屋根に当たる等したため、二局以降の対局は急遽、広島市内から10キロほど離れた佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)の中国石炭の寮に会場を移します。第二局は8月4日から三日間で行われ、その最終日8月6日に原爆が投下されたのです。爆心地から離れていた会場でも衝撃はすさまじく碁石は飛び、窓ガラスは粉々になるほどの被害を受けたといいます。対局は一時中断されますが清掃の後に再開され正午ごろに終局。橋本本因坊が勝利を収めています。
 会場を移すという判断により橋本・岩本両氏は助かったわけですが、第一局の会場は跡形もなく吹っ飛び、会場を提供した藤井支部長も亡くなっています。


藤井別邸ジオラマ1
藤井別邸ジオラマ(被爆前)…○で囲ったところ

藤井別邸ジオラマ2
被爆後の藤井別邸跡

 資料館にはジオラマ以外に被爆直後の写真も展示されていました。藤井別邸のあったところは何も残されていなくて、もし、ここで本因坊戦が続行されていたらと思うとゾッとします。

藤井別邸ジオラマ3
別角度から見た被爆前の藤井別邸

藤井別邸跡1
上記写真とほぼ同じ角度から見た藤井別邸跡の写真

 広島平和記念公園は盛土をして造成されたため、当時を偲ばせるものはほとんどありません。ただ、藤井別邸に隣接する墓地にあった墓石が一つ残されているのみです。
 藤井別邸跡は現在の「平和乃観音像」と「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の間にある、あずま屋付近にありました。

藤井別邸跡2
現在の藤井別邸跡

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 原爆下の対局1
 原爆下の対局2

広島平和記念資料館 : 広島県広島市中区中島町1-2

| 日本棋院 | 05:55 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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被爆した陶製碁石

 広島平和記念資料館には、原爆による熱で変形した品々が展示されています。下記写真の中央にある石のような塊(半分臺で隠れていますが)は陶製の碁石だそうです。碁石といえば黒石は石、白石は貝殻というイメージがありますが例えば江戸時代には木で造られた碁石もありました。「碁」という漢字は下に「石」の字がありますが、江戸時代の書物には「石」が「木」の字になっているものもあります。

 当然、陶器製の碁石も用いられていたようですが、展示品は原爆の熱により各碁石がくっつき一つの塊になっています。
 ちなみに、下記写真は画質やアングルが悪い状態ですが、展示品に被爆した碁石があると聞いて探していたのですが見つけることが出来なくて諦めていたところ、最近になって展示されていたことが分かり撮影した写真を改めて確認して見つけました。展示品全体を撮影した写真だったため拡大しましたが荒い画質となってしまいました。
 この他、普通の碁石も資料館に収蔵されていますが、現在展示はされていません。ただ、広島平和記念資料館のホームページ内に「平和データベース」があり、その中の「被爆資料」で「碁」で検索すると写真を見ることができます。

広島平和記念資料館ホームページ内 被爆資料

被爆した陶製碁石

広島平和記念資料館 : 広島県広島市中区中島町1-2

| 囲碁のある風景 | 05:46 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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広島平和記念資料館

 広島市中区中島町の平和記念公園内にある、広島平和記念資料館を訪れました。
 広島原爆の惨状を後世に伝えるための施設として昭和30年にオープンし、原爆犠牲者の遺品や原爆投下までの広島市の歴史などが展示され、国内外の多くの観光客が訪れています。
 入場料は、大人50円・高校生30円、中学生以下は無料と格安な料金で貴重な資料を見学する事が出来ます。

原爆資料館
広島平和記念資料館

再現された原爆ドーム
資料館内に再現された原爆ドーム

被爆したビン等
変形したビンなど貴重な」展示資料

被爆した腕時計
原爆投下時刻で停止した腕時計

 資料館の中に、かつて広島にあった国会議事堂の写真がありました。
 明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、政府はその対応のために広島へ大本営を移します。そして、広島に臨時の国会議事堂が突貫工事で建設され、同年10月15日に召集された第7回帝国議会で使用されます。東京以外で帝国議会(国会)が開会された唯一の事例です。こうして、広島は軍都として発展していくのです。

広島に建てられた国会議事堂
国会議事堂

資料館から眺める原爆ドーム
資料館から眺める原爆ドーム

広島県広島市中区中島町1-2

| 昭和時代 | 06:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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原爆の子の像 広島平和記念公園

 広島市の広島平和記念公園内にある、「原爆の子の像」は原爆による白血病で亡くなった少女。佐々木禎子さんがモデルで同級生らによる募金運動により1958年に建立されました。
 昭和20年(1945)8月6日、禎子が2歳のときに広島に原爆が投下され、禎子は爆心地から1.7km離れた自宅で黒い雨により被爆します。しかし、その後も身体の不調を訴えることなく元気に成長していきました。
 昭和30年(1955)に禎子は身体の異変を感じ検査したところ白血病であることが判明。余命1年と診断され、広島赤十字病院(現:広島赤十字・原爆病院)に入院します。
 入院中に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送らたことから自らも折り鶴を折り始めます。折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて禎子は鶴を折りつづけたそうで、やがて、病院内の他の入院患者も折り始めます。
 しかし、禎子の願いも空しく病気は回復することはなく入院から数ヶ月後に短い生涯を終えます。
禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの慰霊と平和を祈るための像をつくろうと、全国から募金が集まり平和記念公園内に「原爆の子の像」が建立されます。
 現在でも入院患者の病気回復を祈って千羽鶴が贈られますが、この風習が広まったのは禎子さんの話が全国に広まったことが影響していると言われています。
 この話は世界中にも広がり、現在でも「原爆の子の像」には世界各国から折り鶴が捧げられ続けています。

原爆の子の像
原爆の子の像

広島県広島市中区中島町 平和記念公園内

| 昭和時代 | 18:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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爆心地 島外科内科

 広島の原爆ドームから東に100メートルほど離れたところに「島外科内科」があります。
 昭和20年(1945)8月6日、B-29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、当初市内の「相生橋」を目標に投下されましたが風で流されたのか、やや離れた島病院(現:島外科内科)の上空約600メートルの地点で爆裂します。
原爆の爆風と高熱によって病院は跡形も無く大破し、職員と入院患者の約80人は全員が即死したそうです。
 しかし、医院長の島薫と看護師1名は前日より世羅郡甲山町(現世羅町)の病院に手術のために出かけていたため難を逃れます。連絡を受け、直ちに広島市に引き返した2人は瓦礫の下からおびただしい数の白骨化した遺体を発見します。焼け残った手術用具などにより、そこが島病院跡であることが判別出来たとの事です。
島薫は、その後、設置された救護所にて被爆者の救護活動に従事しています。
 島病院は戦後、同所に再建され再開。現在では「島外科内科」と名称も変わっています。病院の玄関横には、爆心地であることを示すモニュメントが設置されていました。

爆心地 島外科内科
爆心地 島外科内科

爆心地モニュメント
爆心地モニュメント

爆心地モニュメントの説明文
モニュメント説明文

広島県広島市中区大手町1-5-25

| 昭和時代 | 23:05 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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原爆ドーム前の碑

 広島の原爆ドーム前の元安川沿いに二つの碑があります。一つは昔の「相生橋」の親柱と、旧相生橋碑です。
 原爆ドームは太田川下流域の三角州地帯の中央を流れる本川と元安川の分流地点付近にあり、この辺りは江戸時代は防衛上の理由から橋は架けられていませんでした。
 明治に入ると民間の富豪により木造の橋が架けられます。二つの橋が出合う様からこの時、「相合橋」と名付けられたそうです。
 その後、橋は市に移管され電車も通るなど、交通の要所として発展し、橋の名前もいつしか「相生橋」と呼ばれるようになります。昭和10年代には鉄筋コンクリートの橋に架け変わりますが橋の真ん中からT字状に連絡橋が伸びる珍しい形状の橋でした。
 昭和20年(1945)8月6日に米軍により原子爆弾「リトルボーイ」が投下されますが、その目標が「相生橋」だったそうです。 原爆投下後には橋の下は流されてきた死体によって水面も見えないほどだったそうですが、橋は衝撃に耐え落ちなかったため生き残った人々は、この橋を渡って逃げ延びたといわれています。
 原爆等価当時の橋は老朽化のために昭和50年代に架け替えられています。

相生橋の碑
「相生橋」の親柱と、旧相生橋碑

 相生橋の碑の隣りには、広島市出身の小説家・児童文学者で、日本の児童文化運動の父とされる、鈴木三重吉の碑があります。
 鈴木は政府主導の唱歌や童話に反発し、大正7年に童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」を創刊します。
 創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子らが賛同し、その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿しています。
 「赤い鳥」には童謡「からたちの花」(北原白秋)、「かなりや」(西條八十)や童話「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)など多くの名作が掲載されますが、関東大震災による休刊や鈴木の死去により昭和11年に廃刊となっています。

鈴木三重吉記念碑
鈴木三重吉記念碑

中区大手町1丁目、相生橋東詰め

| 歴史あれこれ | 23:31 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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原爆ドーム

 呉市でレンタカーを返して電車で移動。その夜は広島市内に宿泊しました。食事の場所を探して歩き回っているとライトアップされた「原爆ドーム」を見ることが出来ました。数年ぶりの対面です。

夜の原爆ドーム
夜の原爆ドーム

 原爆ドームは、大正4年(1915)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、当初は「広島県物産陳列館」と呼ばれていましたが、昭和8年(1933)には「広島県産業奨励館」に改称されています。
 チェコの建築家ヤン・レツル氏の設計で、一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建ですが、中央部分の階段室の上に銅板の楕円形ドームが設置されていたのが特徴で、川面に映えるモダンな建物として観光名所の一つに数えられていました。
 昭和20年(1945)8月6日午前8時15分。広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約 600メートルのところで人類史上初の原子爆弾が炸裂します。
 爆風の圧力は凄まじく、建物は爆風と熱線を浴びて全焼。本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死したそうです。
 戦後、旧産業奨励館の残骸は、残った頂上の円蓋、鉄骨の形から、「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
 昭和41年(1966)には広島市議会が原爆ドームの保存を決議し、その後、国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われています。
 また、平成8年(1996)には、ユネスコの「世界文化遺産」に登録され、核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。

原爆ドーム
原爆ドーム

原爆ドーム
原爆ドーム

原爆ドーム
原爆ドーム

広島県広島市中区大手町1丁目10

| 昭和時代 | 23:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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