烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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詩仙堂

 宮本武蔵ゆかりの八大神社に隣接する詩仙堂は、徳川家の家臣で江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡で、国の史跡に指定されています。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺と言います。
 名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間から来ています。 肖像は狩野探幽によって描かれ詩仙の間の四方の壁に掲げられているそうです。



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山門



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参道

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詩仙堂



 庭園造りの名手でもあった丈山自身により設計された庭は春のサツキや秋の紅葉など四季折々に楽しむことができ、多くの観光客が訪れています。



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庭園


京都府京都市左京区一乗寺門口町27



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| 江戸時代 | 05:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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宮本武蔵修行の地 狸谷山不動院

 八大神社から更に700メートルほど山道を上ったところに狸谷山不動院があります。
 平安京の東北の鬼門にあたる場所に桓武天皇勅願の不動尊を祀ったのが始まりとされ、明治時代の廃仏毀釈によって荒廃しますが、昭和22年(1947)に整備が行われ、懸崖造りの本殿が建立されます。
 境内には宮本武蔵が修行したとされる滝があります。ここでの修行の後、武蔵は一乗寺下り松での吉岡一門との決闘に勝利します。



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現地案内図



車は一番下にある 自動車祈祷殿に置いて、そこから徒歩で上がっていくのですが、今回は時間的に厳しかったので参拝を断念しました。残念。



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自動車祈祷殿



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駐車場付近。拝殿へはここから徒歩で上がっていきます。




京都市左京区一乗寺松原町6



| 江戸時代 | 05:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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武蔵が立ち寄った 八大神社

 八大神社は、京都市左京区一乗寺松原町にある神社です。狸谷山不動院から一乗寺下り松に至る途中にあり、江戸時代はじめ、一乗寺下り松で吉岡一門数十人と決闘を行った宮本武蔵が、決闘を前に八大神社にて神頼みをしようとしましたが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき寸前でやめたという逸話が残されています。

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八大神社入口



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拝殿



 境内には、宮本武蔵像や武蔵と吉岡一門が一乗寺下り松にて決闘した頃の松の古木が残されています。



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武蔵像と決闘当時の松の古木を祀った祠



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映画「一乗寺の決闘」のパネル




京都市左京区一乗寺松原町1

| 江戸時代 | 05:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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一乗寺下り松

 一乗寺下り松とは、京都市左京区花ノ木町にある松の木であり、現在の松は大正時代に植えられた四代目だそうです。
 平安時代の昔から交通の要衝にあり、旅人の目印として植えられた松で、南北朝時代頃までこの地にあった一乗寺にちなんで名付けられたそうです。




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一乗寺下り松


 一乗寺下り松は、江戸時代初期に、剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った場所としても知られています。
 武蔵は、生涯で60回以上真剣勝負して一度も敗れなかったといわれています。
 21歳の頃、武蔵は京都の名門吉岡道場で試合し当主の清十郎を破ります。その後、兄の敵を討つため、弟の伝七郎が対戦しますが武蔵に木刀で撲殺されます。
 面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、幼い又七郎を名目人に立て「京都一乗寺下り松」での決闘を申し込みます。この時、吉岡一門は、弓、鉄砲も携えた数十人の門弟たちを潜ませ遺恨試合に臨みますが、武蔵は背後の山腹から山道を駆け下り、一気に幼い又七郎を斬り、混乱する吉岡一門を倒しながら逃げ去ったと言われます。



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宮本 吉岡 決闘之地碑


 「宮本 吉岡 決闘之地」碑に隣接して「大楠公戦陣蹟」碑が建立されています。一乗寺下り松は鎌倉幕府崩壊後、「建武の新政」での処遇に不満を持った足利尊氏が反乱を起こした際、迎え撃った楠木正成が陣を張った場所だそうです。
 この戦いで正成は勝利し、足利尊氏は九州まで敗走しますが体制を立て直し再侵攻。そして正成は再戦で敗れ討死。尊氏は室町幕府を開くこととなります。




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<楠公陣地跡


京都府京都市左京区一乗寺花ノ木町



| 江戸時代 | 04:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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吉田神社

 吉田神社は貞観元年(859)に藤原山蔭が一族の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請し創建されます。その後、平安京における藤原氏全体の氏神となります。朝廷の信仰も厚く、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に列されました。
 鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田家)が神職を代々務めるようになり、室町時代末期に吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始すると、その宗家として明治になるまで神道界で大きな権威を誇っています。

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境内

 歴史ある「吉田神社」ですが囲碁史とも関わりが深く、神官である吉田家当主の日記「吉田家日次記」には室町時代の1402~1403年に開催された碁会の記録が記されているそうです。

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拝殿

 吉田神社境内には様々な摂社があります。「菓祖神社」は全国的にも珍しい、お菓子の神様を祀った神社です。
 祭神の「田道間守(たぢまもり)」は、垂仁天皇の命により不老不死の霊菓、「非時香菓(ときじのかぐのみ)」を探して大陸に渡ります。10年の歳月を経て田道間守を持ち帰りますが既に垂仁天皇は亡くなっていました。田道間守は「非時香菓」の半分を皇后に献上し、残りを垂仁天皇の陵に奉じて悲しみの余り亡くなったと伝わっています。
 田道間守の持ち帰った「非時香菓」はその後「田道間花」と呼ばれ、「たちばな」と読み替えられます。そして「橘」と書くようになったそうです。
 古代の菓子は果物であったともいわれ、田道間守が持ち帰った橘(みかん)もお菓子のルーツとなります。
 田道間守は但馬国(現兵庫県豊岡市)の中嶋神社に祀られますが、菓祖神社はここから分霊されたものだそうです。

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菓祖神社

京都府京都市左京区吉田神楽岡町30番地



| 本因坊登場以前の囲碁界 | 05:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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真乗院 山名宗全の墓

 南禅寺三門の南西に塔頭の真乗院があります。永享8年(1436)に室町時代の守護大名・山名宗全(持豊)が香林宗簡の塔所として開いた寺院です。山名宗全(持豊)も文明5年(1473)に亡くなり、ここに葬られています。
 山名宗全は「応仁の乱」で西軍の総大将を務めた人物です。山名氏は新田氏の流れを汲む一族で室町幕府成立時に因幡、伯耆、丹波、丹後、美作5ケ国守護となっています。その後も更に勢力を延ばし一族で日本全国68州のうち11ケ国の守護領国となったために「六分一殿」あるいは「六分一家衆」と呼ばれるまでに栄華を極めます。
 しかし、1371年(建徳2・応安4)に当主の山名時氏が亡くなると、有力大名の力を削ぐことを画策していた第3代将軍義満は、山名家の家督相続に介入して内紛を誘導。最終的に1391年(元中8・明徳2)に「明徳の乱」と呼ばれる幕府の軍事介入により山名一族の領地は、わずか3ヶ国までに衰退します。
 その後、山名一族は徐々に勢力を回復していき、ようやく7ヶ国を所領。そして、宗全は幕府の要職に就き、応仁の乱では西軍を率いることとなったのです。しかし、泥沼化した戦いで山名氏の勢力は再び衰退し再び隆盛を誇ることはありませんでした。



 



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 真乗院の入口に宗全の墓の碑がありましたが、公開はしてなさそうだったので三門のみ撮影しました。




京都市左京区南禅寺福地町86-11



| 室町時代 | 06:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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南禅寺塔頭 天授庵

 南禅寺の塔頭・天授庵は暦応2年(1339)に虎関師錬が南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所が無かった事から光厳天皇の勅許により建立されます。
 戦国時代に入り荒廃しますが慶長7年(1602)に細川幽斎により再興されています。



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天授庵全景(南禅寺三門より)




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三門




 方丈前庭(東庭)は小堀遠州の作庭と言われ、白砂の庭を苔に縁取られた菱形の畳石が特徴の枯山水庭園です。




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方丈前園




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天授庵




 書院南庭は池泉回遊式庭園で、明治時代に改修されていますが南北朝時代の面影を残す庭園です。




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書院南庭




 方丈は細川幽斎により再興された柿皮葺屋根の建物で、内部には非公開ですが長谷川等伯筆の障壁画で飾られているそうです。




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方丈




京都府京都市左京区南禅寺福地町86-8



| 戦国時代 | 05:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金地院東照宮

 金地院の中には徳川家康を祀る「東照宮」があります。崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏を祀って寛永5年(1628年)造営したものです。創建当初は日光東照宮と比べられるほど荘厳なものだったそうです。
 「東照宮」誕生の経緯についてですが、元和2年(1616)に家康が死去すると神号を巡り崇伝はライバルの天海と争っています。崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張しますが、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張します。結局、天海が、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が送られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決まります。
 そういった経緯を考えると金地院に東照宮を祀るのは複雑な思いがあったのかもしれません。




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楼門




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三つ葉葵の瓦




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金地院東照宮




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金地院東照宮




 建物の中には、三十六歌仙の額がかかげられています。また、取材時に撮りそこなったのですが天井に狩野探幽作の「鳴き龍」が描かれています。




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三十六歌仙の額




京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12



| 江戸時代 | 05:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金地院

 金地院は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院で、同派大本山南禅寺の塔頭の1つです。
 徳川家康のブレインで幕政に参加し、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が住んでいた場所としても知られています。




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山門(高麗門)




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金地院の山門(四脚門)




 明智門は天正10年(1582)に明智光秀が母の菩提のため寄進した銀により大徳寺内に建立されたものです。
 明治時代に金地院にあった唐門が豊国神社に移築されたのに伴い、大徳寺から明治19年(1887)に買い取り移築されたそうです。




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明智門




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庭園




 金地院の方丈前庭は「鶴亀の庭」として有名で崇伝が家光のために造らせた庭園で小堀遠州の作です。
 禅寺としては珍しい豪快で華やかな庭園で、庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿を表現した蓬莱式枯山水庭園です。




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鶴亀の庭




 開山堂は後水尾天皇の勅額を掲げる崇伝の塔所で、左右両側には十六羅漢像が安置されています。




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開山堂




京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12



| 江戸時代 | 06:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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南禅寺

 臨済宗南禅寺派の大本山・南禅寺は日本最初の勅願禅寺で、京都五山や鎌倉五山の上におかれる、禅寺のなかで最も高い格式をもつ寺院です。
 正応4年(1291)に亀山法皇が無関普門を開山として創建した南禅寺は、建武元年(1334)に後醍醐天皇により京都五山の第一とされますが、至徳3年(1385)に足利義満が自ら建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけます。
 応仁の乱により伽藍がほとんど焼失ししますが、江戸時代に入り徳川家康の政治的ブレインで、「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝が入寺し、再建されています。




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中門



勅使門は寛永18年(1641)に、御所の日ノ御門を移築したものと言われています。




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勅使門




 南禅寺の三門は歌舞伎の「楼門五三桐」において石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と叫んだとされる場所です。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628)に建築されたものです。
 五間三戸の2階建ての門で、藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の冥福を祈るため寄進したものだそうです。
 知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられています。




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三門




 三門の手前に句碑が建立されていました。森永湛堂老師自筆の句碑で



    「この門を 入れば涼風 おのづから」



 この場所に立ってみると、まさにそれを実感できます。




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森永湛堂老師自筆の碑




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三門の上から




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三門から望む市街地



 法堂は明治28年(1895)に火災により焼失したため、明治42年(1909)に再建されたものです。



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法堂




京都府京都市左京区南禅寺福地町86



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