烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2014年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年07月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

八坂神社

 八坂神社は、京都を代表する神社の一つで、全国にある八坂神社や素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする約2,300社の総本社です。通称「祇園さん」と呼ばれ、京都三大祭りの一つ「祇園祭」でも知られています。
 八坂神社は慶応4年(1868)に神仏混交禁止で改称するまで、「感神院」または「祇園社」と呼ばれていました。創建については諸説ありますが、斉明天皇2年(656)に高麗より渡来した使節の伊利之(いりし)が釈迦の生誕地「祇園精舎」の守護神「牛頭天王」を山城国愛宕郡八坂郷に祀ったことに始まるといいます。
 八坂神社は「産土神」として時の権力者の庇護を受けています。平安時代には、藤原基経が邸宅を寄進、道長もたびたび参詣したといいます。
 延久4年(1072)には後三条天皇が行幸され、以後、天皇・上皇の行幸がたびたび行われています。
 また、武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納、足利将軍家の社領の寄進・修造が行われ、豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、一万石を寄進。戦国期に荒廃した神社の再興を行います。
 また江戸時代には幕府から厚い庇護を受け、徳川家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営するなどしています。



 西楼門は本殿の西方、四条通りの突き当たりに建ち八坂神社を象徴する建物です。
現在の建物は明応6年(1497)に再建されたものですが、大正2年に道路拡張のために移設し、この時に翼廊を建てて現在の形となりました。



Imag4434

西楼門



 一般の神社では本殿と拝殿は別棟で建てられていますが、八坂神社では1つの入母屋屋根で覆われていて「祇園造」と呼ばれています。現在の社殿は、承応3年(1654)に徳川家綱が再建したものです。



Imag4425

本殿



 舞殿では奉納行事の他、結婚式も行われています。



Imag4423

舞殿



八坂神社の門といえば西楼門が有名ですが、実は正門は南楼門なのです。慶応2年に火災に逢い、明治12年に再建されたものが現代の南楼門です。



Imag4419

南楼門



 南楼門の門前脇に井戸があります。この場所には明治初年まで「藤屋」という茶店があり、井戸の清水を沸かして参拝者に提供していました。延長3年(925)に、時の醍醐帝を含む多くの人々が疱瘡にかかり苦しみますが、空也上人が八坂神社へ参拝し病気平癒を祈念した際、井戸の清水を用いた白湯を人々に施し病が癒されたと言われています。



Imag4420

空也上人ゆかりの井戸




京都府京都市東山区祇園町北側625



スポンサーサイト

| 平安時代 | 05:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

霊光寺の将棋の駒形墓と、宝塔寺

 京都市伏見区にある「霊光寺」に将棋の初代名人・大橋宗桂と、棋聖・天野宗歩の墓があると聞いて訪れてみました。
 大橋宗桂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた将棋の棋士です。当時は将棋と囲碁がどちらもできる者が多く、宗桂は囲碁の本因坊算砂と度々将棋や囲碁の対局をした記録が残っています。囲碁では算砂に分があり将棋は宗桂の方が強かったようです。ちなみに、茶道の千利休も算砂に囲碁を習っていたそうですので算砂は利休に茶道を習ったのかもしれません。
 江戸幕府が成立すると、将棋と囲碁が好きな徳川家康は碁将棋所を設立。本因坊算砂は囲碁界と将棋界を統括します。その後、算砂は将棋所を独立させ初代将棋所となったのが大橋宗桂なのです。
 天野宗歩は以前、歴代本因坊が眠る巣鴨の本妙寺にある墓を紹介しましたが初代名人・大橋宗桂の隣りにも墓碑が建立されたのでしょう。江戸時代の将棋界では名人になれるのは家元の大橋家と伊藤家のみであったため、実力は十分にありながら「名人」になれなかった宗歩に「棋聖」の称号が贈られています。

Imag4326
霊光寺

 霊光寺は、源氏物語にも登場する極楽寺が前身である宝塔寺の塔頭で、その参道脇に入口があります。宗桂と宗歩の墓は将棋の駒の形をしているとのことで楽しみにしていたのですが、なんと山門には拝観拒絶の立札があり中に入ることが出来ませんでした。何年か前には入れたようなので最近の事なのでしょう。

Imag4329_2
霊光寺山門

 霊光寺の前に観光案内板があったので見てみると霊光寺の所には将棋の駒の形をした墓の絵が描かれていますが、見学できる史跡には番号が付けられているのに対し、そこには番号が付けられていないので、やはり見学不可のようです。

Imag4330
観光案内板。中央あたりに宗桂の墓のイラストあり。

 代わりといっては失礼ですが宝塔寺へ参拝しました。
 宝塔寺は初代関白・藤原基経の発願で建立された極楽寺が前身で、寺は応仁元年(1467)に応仁の乱で焼失。その後、再建されたのは、天正18年(1590)の事です。現在の本堂は慶長13年(1608)に建立されたもので京都市内で最古の日蓮宗本堂建造物です。平成14年に解体修理が行われています。
 鮮やかな朱色の仁王門は 宝永8年(1711)に建てられたもので、左右に、二体の金剛力士像が安置されています。

Imag4327
仁王門

Imag4328
本堂

京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町32

| 囲碁史あれこれ | 06:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

両替商旧跡(伏見)

 京阪「伏見桃山駅」の南側にある両替町通には江戸時代に数多くの両替商が軒を連ねていたといいます。両替町3丁目には「両替商旧跡」の碑が建立されています。
 豊臣秀吉の死後、伏見城へ入城した徳川家康は、慶長6年(1601)に大坂から大黒常是を呼び寄せ、両替町5丁目に当たる場所に「伏見銀座」を開きます。ここでは慶長豆板銀、慶長丁銀の鋳造が行われ金銀の品質が初めて統一されます。
「伏見銀座」は慶長13年(1608)に現在の京都市中京区両替町通に移転し「京都銀座」となりますが、伏見には両替商がそのまま残り金融の中心地として賑っていました。>

Imag4296
両替商旧跡

Imag4295
両替商旧跡碑

京都市伏見区両替町三丁目



| 幕末・明治維新 | 08:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

御香宮神社境内

 歴史ある御香宮神社の境内には様々な文化財があります。



 御香宮神社の境内に桃山天満宮があります。室町時代に御香宮の東に蔵光庵と言うお寺があり、この寺の僧の夢枕に「菅原道真」がたたれたことから、自分の学問を守ってくれる神として寺の中に天満天神が建立されます。
 江戸時代、「山ノ天神」と呼ばれ伏見の町の寺子屋の子供達は2月と6月には必ずお参りしていたそうです。
 現在の社は、天保12年(1841)本谷市造と宮大工・坂田岩次郎の協力で20年の歳月をかけ完成したものです。
この時、使用した大工道具を完成御礼とし奉納。この大工道具約70点は日本の木造建築を支えた道具文化財として大切に保管されています。



Imag4287

桃山天満宮



 桃山天満宮の境内には、伏見城跡の残石が無造作に置かれていました。



Imag4289

伏見城跡残石



能舞台では「御香宮神能」と呼ばれる神事が秋に行われ、600年間続いています。



Imag4286

能舞台



絵馬堂には1600年代や1800年代の古い絵馬が掲額されていますが、その中には江戸時代の算額も立てかけられています。



Imag4285

絵馬堂



 表門をくぐってすぐ脇に「 伏見義民事蹟」という碑が建っています。
 江戸時代、交通の要所であった伏見は幕府の直轄地で代官所が置かれていました。
 天明5年(1785)に伏見奉行・小堀政方の悪政により苦しむ伏見町人を救うため幕府へ直訴した文殊九助ら7人の義民を顕彰した碑だそうです。小堀政方は罷免されますが、7人は相次いで獄中で病死したと言われます。碑は明治20年に建立されたもので碑文は勝海舟によるもの。題字は三条実美の書だそうです。



Imag4291

伏見義民事蹟



御香宮神社:京都市伏見区御香宮門前町174



| 歴史あれこれ | 06:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

御香宮神社

 京都市伏見区にある御香宮神社は神功皇后を主祭神とする神社で、創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862)に社殿を修復した記録が残されています。この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといいます。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されています。
 豊臣秀吉の、伏見城築城の際には鬼門の守護神として城内に移転しますが、後に徳川家康により元の位置に戻され、現在の本殿が造営されます。現在の表門は伏見城の 大手門を移築したものと言われています。
 明治元年(1868)に起こった「鳥羽伏見の戦い」では薩摩藩の本営となりますが、本殿等は被災を免れています。




Imag4294

伏見城の大手門を移築した表門




 拝殿は寛永二年(1625)、紀州徳川家初代徳川頼宣の寄進により造営された割拝殿で、正面軒唐破風は、手の込んだ彫刻によって埋められています。平成九年に半解体修理が行われ極彩色が復元されています。




Imag4278

拝殿




Imag4279

拝殿




Imag4281

御香水


Imag4284

徳川家康の命令で建立された本殿



京都市伏見区御香宮門前町174



| 歴史あれこれ | 06:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

乃木神社(京都)境内

 京都の乃木神社には乃木将軍に関わる様々な碑や建物があります。
「乃木将軍景仰の碑 」は徳富蘇峰が揮毫したもので、日露戦争後、大阪浜寺に護送されてきた多くのロシア軍捕虜の労をねぎらった乃木将軍に感服した一女性に依頼されたものだそうです。




Sany0689
乃木将軍景仰の碑




 「長府乃木旧邸」は乃木将軍が子供の頃、長府で暮らした住居を再現したものです。乃木将軍の父希次は毛利藩に仕える武士で、将軍は江戸の麻布にあった藩邸で生まれています。父希次は藩主の要請で藩の改革を提言しますが、それを快く思わない幹部藩士に陥れられ、閉門蟄居となり、一家は国元の長府で暮らしています。




Sany0700
長府乃木旧邸




 「記念館」は 日露戦争のときに満州で第3軍司令部として使用された民家を、神社創建時に、買い上げて移築したものです。




Sany0698
記念館




 「吾妻の主錨」は日露戦争時に装甲巡洋艦として活躍した吾妻の錨をモニュメントとして安置したものです。昭和19年に引退後、京都府出身の旧海軍従軍者の働きかけにより移設されました。




Sany0691
吾妻の主錨




京都府京都市伏見区桃山町板倉周防32−2



| 明治・大正時代 | 06:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

乃木神社(京都)

 京都伏見の明治天皇陵の麓に大正5年に日露戦争で活躍し軍神と呼ばれた乃木希典を祀る「乃木神社」があります。以前、東京の乃木坂にある「乃木神社」をお参りしましたが、全国には数ヶ所、乃木将軍を祀る神社があります。明治天皇から絶大な信頼を受け、天皇の崩御に際して殉死した乃木将軍であるからこそ、明治天皇陵を護るようにその麓に神社が建立されたのでしょう。



Sany0709
鳥居



神社入口である「神門」は樹齢3千年、幹の直径2m以上といわれる台湾阿里山の檜1幹で造られた
建物です。              



Sany0687
神門



 拝殿の前には狛犬のように対となり二体の馬の像があります。向かって左側にある像は乃木将軍の愛馬・寿(ス)号の像です。日露戦争時にロシア軍の旅順要塞司令官であったステッセル将軍から送られた白馬です。反対側には寿号の子供である璞号の像があります。



Sany0707
拝殿と寿号像




Sany0696
乃木将軍像




 摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した実業家・村野山人は明治天皇の大葬の儀に参列しますが、そこで乃木将軍殉死の報を聞き衝撃を受けます。そして1年後に私財を投じて将軍を祀る「乃木神社」を創建しました。




Sany0706
神社を創建した村野山人像




京都府京都市伏見区桃山町板倉周防32−2

| 明治・大正時代 | 22:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

明治天皇陵(伏見桃山陵)

 伏見を訪れたので明治天皇陵である伏見桃山陵にもお参りしてきました。明治天皇は急死した父親の孝明天皇の跡を継いで15歳で第122代天皇に即位します。尊王攘夷運動が高まっていた幕末において幕府に対して理解のあった孝明天皇が亡くなったことにより朝廷内では討幕派が優勢となり、将軍・徳川慶喜は慶応3年10月15日(1867年11月10日)に大政を奉還します。そして「王政復古の大号令」が発せられ新政府が樹立。年号が明治と改められました。
 明治元年10月13日に、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸は東京に改められます。一旦京都に還られた後、翌年に再び東京に移り、以後、天皇は東京の皇居に居住されることになります。
 そして日本は急速に近代化の道を進み、日清・日露戦争の勝利を経て列強諸国に肩を並べていくことになるのです。

Sany0678
看板

 明治天皇は明治45年(1912)7月に、宝算61歳(満59歳)で崩御。同年(大正元年)9月13日に現在の神宮外苑にて「大喪の礼」が行われ、柩は列車で、京都の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬されます。
 伏見桃山陵は、かつての伏見城本丸の跡に造られたそうです。豊臣秀吉が亡くなった場所であり、徳川家康が天下取りを見据えていた場所に、武家による政治に終止符を打った明治天皇が眠っているのも感慨深いものがあります。

Sany0680
石段

Sany0683_2
伏見桃山陵

Sany0685
伏見桃山陵

Sany0686
伏見桃山陵

Sany0682
秀吉や家康も見ていたであろう景色

京都府京都市伏見区桃山町古城山



| 明治・大正時代 | 07:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

桓武天皇陵(柏原陵)

 80年以上続いた奈良時代に終わりを告げ、平安京(京都)へ遷都し300年以上続く平安時代の礎を築いたことで知られる、第50代桓武天皇は、小学生の教科書にも掲載されている知名度の高い天皇です。
 桓武天皇は皇族の傍系の出身であったため当初は皇族としてではなく官僚としての出世を目指していました。
 奈良時代は代々天武天皇の子孫が天皇に即位してきましたが、度重なる政変による粛清で天武天皇系の候補者が途絶えたために、天智天皇系の光仁天皇が即位します。その皇子が桓武天皇なのですが、桓武天皇の生母は出自が低かったため当初、立太子は考えられていませんでした。しかし、政争により、他の候補者が次々と廃されたために、ついに皇太子となり、天応元年(781)に光仁天皇が退位して第50代天皇に即位します。そして、即位後すぐに同母弟の早良親王を皇太子に任命しています。
 当時、平城京では奈良仏教各寺の勢力が増し政治に影響力を及ぼしていました。また天武天皇の皇統から天智天皇の皇統に戻ったこともあり、桓武天皇は人身を一新しようと遷都を思い立ちます。そこで、側近の藤原種継に命じて長岡京を造営しますが、これに反対する勢力により種継が暗殺されてしまいます。
 激怒した桓武天皇は暗殺の関係者を厳しく処分しますが、皇太子早良親王も関与したとして廃太子の上、流罪に処します。無実を訴える親王は抗議のため絶食して亡くなりますが、その後、天災や皇族に不幸が続いたことから早良親王の祟りであるとされ、親王を「崇道天皇」と追尊し祀ったとのことです。そして、造営に関して不幸な事が起きた「長岡京」を僅か10年で廃止し、延暦13年(794)に平安京へ改めて遷都したのです。 
 桓武天皇の治世では東北地方を平定するため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し軍を派遣しています。また、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、唐から帰国した最澄と空海を保護し、日本の仏教界に新たな動きをもたらしています。
 在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に70歳で亡くなっています。




Sany0670_2

柏原陵入口




 桓武天皇陵である柏原陵は伏見城の敷地内にあったこともあり中世以降、所在が不明となっていました。幕末に現陵が柏原陵であると定められましたが別の場所に存在するという説もあります。
 また、平安京最初の天皇であることから、明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して設立された「平安神宮」では幕末の孝明天皇とともに祭神として祀られています。




Sany0672

現地看板




Sany0674

柏原陵




Sany0675

柏原陵







京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎



| 平安時代 | 06:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

伏見桃山城

 京都伏見区にあった伏見城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために築城されます。当初、文禄元年(1592)に伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設されますが完成直後に慶長伏見地震によって倒壊しました。そのため、指月から北東に約1kmほど離れた木幡山に城が再建されることになり、慶長2年(1597)に城は完成しますが、秀吉はその1年後の慶長3年(1598)に城内で亡くなっています。
 秀吉の死後、遺言により豊臣秀頼は大坂城に移り、伏見城へは五大老筆頭の徳川家康が入り政務を行います。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守りますが、西軍の攻撃により落城。建物の大半が焼失しました。
 その後、伏見城は慶長7年(1602)ごろ家康によって再建され、慶長8年(1603)には、伏見城で徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けます。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われました。その後、家康は駿府城へ移り、京都での将軍の居城は二条城へ一本化されたことから元和5年(1619)に伏見城は廃城となります。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されたそうです。伏見城の跡には江戸時代に桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになります。そのため伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになりました。

Imag3540
正門

 現在の伏見桃山城の天守閣は昭和39年(1964)に伏見城花畑跡にオープンした遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして建設された鉄筋コンクリート製の模擬天守閣です。遊園地は平成15年に閉園され、現在は「伏見桃山城運動公園」となっていますが、当初取り壊される予定であった天守閣は地元の要望もあり市へ寄贈されました。しかし、耐震基準を満たすためには多額の費用がかかることから現在は内部非公開となっています。
 もともと本丸があった辺りは、現在「明治天皇桃山陵」となっているため発掘調査は行われず城の詳細は分かっていません。

Imag3541
模擬天守閣

京都府京都市伏見区桃山町大蔵45

| 戦国時代 | 07:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。