烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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阿倍野神社

大阪市阿倍野区北畠にある「阿倍野神社」は北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る神社で建武中興十五社の一社です。明治維新により江戸幕府から明治天皇が政治の実権を取り戻すと、同じ様に鎌倉幕府から後醍醐天皇が天皇中心の政権を取り戻す建武中興(建武の新政)成立に尽力した南朝側の皇族・武将などを祀る神社が全国に15社建立されます。
 「阿倍野神社」は北畠顕家を祀るために大阪の有志が建立を政府に働きかけ明治15年(1882)に正式に決定します。しかし、建設場所が北畠顕家の墓所がある阿部野村と決まったものの交通の便が悪かったため建立を働きかけていた中心メンバーが土地を寄付するので社殿建築を任せてほしいと申し入れ、現在の北畠に建設が決まりました。



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神社境内



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北畠顕家公像



大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7-20



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| 明治・大正時代 | 21:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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花将軍 北畠顕家の墓 北畠公園

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公園入口


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北畠顕家の墓


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現地説明板


大阪市阿倍野区王子町にある「北畠公園」には「花将軍」と称された北畠顕家の墓があります。
 北畠顕家は皇室の歴史書「神皇正統記」を著した北畠親房の長男で、元徳2年(1330)13歳で左中弁となり、その後、弁官に任じられます。14歳には参議で左中将を兼ねるという異例の出世を果たしています。
   鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333)後醍醐天皇による「建武の中興」成立のとき16歳で陸奥守に任ぜられ、義良親王を奉じて奥州に下り、鎮守府将軍に任じられます。
 延元元年(1336)に「建武の中興」での処遇に不満を持っていた足利尊氏が反逆すると、上洛して尊氏を九州に敗走させます。この功績により、顕家は権中納言、鎮守府大将軍に任ぜられ、再び奥州に戻ります。
    しかし、3ヵ月後に尊氏が体制を立て直し再侵攻したため奥州より再度上洛。各地で戦いを繰り広げますが、ついに高師直軍との戦いに敗れ戦死します。享年21歳でした。亡くなった場所は、「神皇正統記」などには摂津国石津(現在の堺市西区浜寺石津町)と書かれています。しかし、江戸時代の国学者・並川誠所は「太平記」などの伝承をもとに石津ではなく現在の阿倍野区王子町にあった「大名塚」と呼ばれる塚が、北畠顕家の墳墓と推定したことにより享保年間に墓碑が建立されます。顕家の墓所は大正以降整備され北畠公園となっています。




大阪府大阪市阿倍野区王子町3丁目8



| 鎌倉時代 | 23:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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吉祥寺 赤穂義士の墓

 大阪の天王寺区にある吉祥寺は寛永7年(1630)創建の曹洞宗の寺院です。創建当時の住職が赤穂藩主・浅野主匠頭長矩と親しかったため、この寺は大坂における浅野家の菩提寺となります。長矩は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったといいます。
 元禄15年12月14日(1703年1月30日)に大石内蔵助率いる赤穂義士が主君・浅野長矩の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り殺害した、元禄赤穂事件が発生すると、翌年2月に義士達は切腹しましたが、足軽の寺坂吉右衛門が義士達の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて吉祥寺に彼らの冥福を祈る碑を建ててくれるよう依頼します。浅野本家広島藩の意向もあって、元文4年(1739)に江戸や赤穂よりも早く墓が建立されています。
 かつての吉祥寺は、中之島常安橋北詰にあった赤穂藩蔵屋敷門を山門として移築し、長矩候揮毫の扁額や義士の遺品などが残されていたそうですが昭和20年の大阪大空襲で灰燼に帰し、残ったのは墓石のみだったそうです。現在の寺は戦後に再建されたものです。




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大石内蔵助像




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赤穂義士像



 墓は中央に浅野内匠頭の墓である五輪塔があり、その右隣に大石内蔵助の墓、左側が大石主税の墓がありまる。更にその周囲を44士の戎名などを刻んだ玉垣が取り囲んでいます。



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浅野内匠頭と赤穂義士の墓




大阪府大阪市天王寺区六万体町1-20


| 江戸時代 | 05:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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陸奥宗光・小松帯刀墓所跡

 大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅のすぐ近くで、歌人・藤原家隆の墓の入口付近に陸奥宗光と父親の伊達千広(宗弘)の墓所跡の碑があります。
 伊達千広は紀州藩の重臣で10代藩主・徳川治宝のもと、藩内の攘夷派の中心人物として藩政改革に取り組みます。しかし、治宝が病死すると、幼少の徳川慶福(徳川家茂)を補佐する改革反対派が実権を握り握り千広は失脚。危険思想を広めたとして、以後10年近くにわたり幽閉されます。文久元年(1861)に一旦釈放されますが、翌年には脱藩して尊皇攘夷運動に参加したため捕まり、再び幽閉の身となります。明治維新後に幽閉が解かれ、千広は大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て、その地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名しています。
 一方、陸奥宗光は伊達千広の六男で父の影響で尊王攘夷思想を持つようになります。文久3年(1863)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867)には坂本龍馬の海援隊に加わり龍馬のもとで活躍します。明治以降は新政府で活躍。伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るっています。二人とも夕陽丘に葬られていましたが、昭和28年に墓は鎌倉へ改葬されています。
 また、この地には薩摩藩家老・小松帯刀も埋葬されていたそうです。幕末に国事に奔走し薩長同盟や大政奉還を成し遂げますが病で明治3年に大阪で死亡。夕陽丘に葬られますが、明治9年に故郷の鹿児島へ改葬されています。



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伊達家・陸奥家 墓所跡



 伊達家・陸奥家の墓所跡には二つの大きな碑があります。向かって右側の石碑は「夕日岡阡表」といって、陸奥宗光が父・伊達千広の行実を漢文で述べたものだそうです。左側に建っているのが「陸奥宗光追慕碑」で、宗光の秘書を務めたこともある原敬が建てたものだそうです。二つの碑の間にある地蔵は清地蔵(さやじぞう)といって、陸奥宗光の娘・清子(さやこ)が21歳の若さで亡くなったのを悼み、等身大の地蔵を建てたそうです。



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現地説明板


大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5-14



| 幕末・明治維新 | 10:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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藤原家隆の墓

 大阪市天王寺区の夕陽丘町に鎌倉時代の歌人で「新古今和歌集」の選者の一人である藤原家隆の墓があります。公家であり朝廷の高官であった家隆は侍従と阿波介・越中守の地方官を併任し、その後、宮内卿を務めるなどした後、79歳で出家しています。和歌についても同時代の小倉百人一首の選者である藤原定家と並び称されるほどの実力があり、鎌倉時代初期に編纂編纂された「新古今和歌集」では定家らと共に選者を務めています。出家後は摂津国四天王寺に庵を結び晩年を過ごします。現在は見えませんが、当時、夕陽丘から見えた「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日が好きだったためと言われ、墓は、その屋敷跡に建立されているそうです。




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藤原家隆の墓



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藤原家隆の墓



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享保6年、秋野坊成順建立の顕彰碑



大阪市天王寺区夕陽丘町5



| 鎌倉時代 | 23:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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元祖竹本義太夫誕生地

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 大阪の天王寺駅近くにある茶臼山町の谷町筋の歩道上に義太夫誕生地の碑があります。
 竹本義太夫は慶安4年(1651)、天王寺村の百姓家に生まれます。浄瑠璃語りとして活躍し独特の音節は「義太夫節」と呼ばれます。やがて道頓堀に竹本座を開座。近松門左衛門を座付き作家として迎えて、浄瑠璃人形芝居を始めると好評を博し、元禄11年(1698)には、朝廷にて義太夫節を披露。「筑後椽」の号と、「藤原博教」の名を賜りました。
 晩年は竹本座を竹田出雲に譲って隠退。正徳4年(1714)に64歳で亡くなっています。




天王寺区茶臼山町



| 江戸時代 | 23:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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一心寺

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一心寺


 大阪府大阪市天王寺区を歩いていると一心寺という寺を見かけました。参拝の予定には無かったため道向から写真を撮っただけなのですが、後で調べてみると結構由緒のある寺院でした。
 一心寺は元々、法然上人が四天王寺の西門の坂のほとりに結んだ草庵があった場所で、大阪の陣では徳川家康は茶臼山一帯に陣を敷いたといいますが、主に一心寺に滞在したとの事です。大阪の陣で戦死した本多忠勝の次男・本多忠朝の墓もあります。
また、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士の墓地もあるそうです。


大阪市天王寺区逢阪2-8-69 



| 戦国時代 | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天神坂 天王寺区

 大阪天王寺区に安居神社に通じる「天神坂」があります。「天王寺七阪」のひとつで、菅原道真を祀る安居神社へ通じる坂道なので、この名がついたそうです。
 付近一帯には昔から名水が湧き出ていたそうで、安居神社の境内にも「癇静めの井」(かんしづめの井)と呼ばれる井戸の跡が残っています。道真公が神社に立ち寄った際に井戸の水を口にしたと伝えられています。



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天神坂



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再現された湧き水





大阪市天王寺区伶人町~逢阪一丁目

| 歴史あれこれ | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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真田幸村戦死の地 安居神社

 大阪市天王寺区にある「安居神社」は創建時期は不明ですが、最初に少彦名神が祀られ、後に菅原道真公が祀られています。菅原道真が大宰府に左遷されたときに、ここへ立ち寄って安井(休憩)した為に神社の名前となったという伝承があります。




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安居神社の鳥居




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拝殿




 「安居神社」は、大坂夏の陣で真田幸村が戦死した場所として知られ、境内に戦死跡之碑と幸村公の像があります。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では圧倒的な兵力差で苦戦していた幸村は徳川家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行します。この反撃で徳川方は突き崩され、幸村は本陣を蹂躙。家康は二度も自害しようとしたと言われています。しかし、兵力差に勝る徳川軍は次第に体制を立て直し反撃を開始。追い詰められた幸村は「安居神社」で休んているところを襲撃され討ち死にしたと言われています。




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真田幸村戦死跡之碑と幸村公像




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六文銭の絵馬




大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24



| 戦国時代 | 23:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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あべのハルカス

 大阪に滞在中、一泊だけ天王寺駅前に泊まりました。駅前には今年3月にオープンした「あべのハルカス」があります。
 「あべのハルカス」は地上60階建て、高さ300mで、日本で最も高い超高層ビルです。また、日本の構造物としても東京スカイツリー、東京タワーに次いで3番目の高さを誇っています。



 



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あべのハルカス



 



 



大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1丁目1番43号



| 旅行記 | 23:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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