烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年12月

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明治期の碁打ち 赤堀秀時

 名古屋を訪れるにあたり囲碁史関係で何か情報がないか調べていたところ、明治時代に赤堀秀時という人物がいた事が分かりました。
 尾張藩士・赤堀秀時は文政12年(1829)、江戸尾張藩邸に生まれ、明治維新の際には国事に奔走しています。
 囲碁や俳句が趣味だったようで、晩年は囲碁を教授しつつ、歌と俳句の余生を送ったと言われています。通称は源之進、号は琴声。他に棋楽庵・格甫の号があります。
 囲碁界にとってどういう位置の人であったかは分かりませんが、明治43年に発行された「坐隠談叢」(安藤豊次)には尾張藩士で本因坊門下であった山崎外三郎(本因坊より5段昇段。死後、方円社から6段追贈)が面倒を見た後輩として名前が記されていました。明治39年(1906)に亡くなっています。
 事前調査で墓の場所を探していたところ、長栄寺に葬られたという資料を発見したため、千草区の平和公園にある長栄寺墓地を訪れたところ墓を発見。墓石正面には「赤堀秀時先生之墓」と刻まれ、側面に「棋楽亭社中有志者建之」と刻まれています。「棋楽亭」については分かりませんが秀時は「棋楽庵」の号を持っていたことから秀時を中心とした囲碁の団体が墓を建立したと思われます。




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赤堀秀時の墓




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墓の側面



愛知県名古屋市千種区平和公園 長栄寺墓地



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| 囲碁史あれこれ | 08:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁史会

 今日は囲碁史会の日でした。いつものように南さんの収集した資料の発表がありました。今日は高尾さんが本因坊家屋敷の変遷を発表され、島根の大庭さんも来られました。

| 囲碁史会 | 22:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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世界初の農協を創設した大原幽学

 名古屋市千草区の平和公園内にある万松寺墓地の中には開基の織田信秀供養塔以外にも、その人物を顕彰した色々な墓碑がありましたが、その多くがどういった人物なのか分かりませんでした。
 その中で「大原幽学」という人物は江戸時代後期の農政学者、農民指導者である事が分かりました。
 尾張藩家臣・大道寺直方の次男として生まれたとも言われる幽学は、18歳のときに勘当され、美濃や京・大阪を放浪したといいます。その中、易占等を学び、その後、神道、儒教、仏教を一体とした実践道徳「性学」を開き門人を増やしていきます。
 天保6年(1835)に下総国椿海の干拓地にある長部村に招かれ農村振興策を指導します。その一環として農民の相互扶助を基本とした組織「先祖株組合」を創設しています。これは世界初の「農業協同組合」となります。幽学の改革は成功し人々に賞賛されますが、近隣の農民が村の枠を超えて行き来しだした事を怪しんだ勘定奉行により幽学は取り調べのうえ有罪となり「先祖株組合」も解散となりました。そして、幽学は失意のうちに安政5年(1858)3月8日、自殺により62歳の生涯を閉じます。
 千葉県旭市には旧宅が残されていて国の史跡に指定されています。切腹した場所には墓が建立されますが、出身地の名古屋市にも門人により墓碑が建立されたのです。



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愛知県名古屋市千種区平和公園 万松寺墓地



| 江戸時代 | 06:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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織田信秀の供養塔 平和公園万正寺墓地

 名古屋市千草区の平和公園内の万松寺墓地の入口に、万松寺の開基塔と開山塔が並んでいます。
 万松寺は天文9年(1540)、織田信長の父親、織田信秀により織田家の菩提寺として那古野城の南側に建立され、慶長15年(1610)には、名古屋城築城に伴い現在の   大須3丁目に移転しています。つまり、開基塔とは信秀の供養塔となります。
 織田信秀は、尾張国南西部を支配する勝幡城城主・織田信定の長男として永正7年(1510)に生まれます。信定は尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える織田氏一族の庶流でした。本家の守護代「織田大和守家」やその主君、尾張守護斯波氏に代わり、尾張全体を支配するようになるのは信長の時代の事です。
 信秀は家督を相続すると今川氏が築城した那古野城を奪い、ここに居城を移して勢力を拡大していきます。朝廷に献金して従五位下に叙位される等、その地位を固めていきますが、やがて、一族内の対立や今川、斎藤との争い等で苦戦する中、天文20年(1551)に流行病により末森城で急死します。享年42。
 葬儀は万松寺で行われましたが、ここで有名な、信長が位牌に抹香を投げつけるという事件が起きています。
 現在、大須3丁目にある万松寺に信秀の墓が残され観光案内で紹介されていますが、平和公園に墓地が移転した際に開基塔は移ったのでしょう。また、開基塔の隣りには開山塔がありますが万松寺を開山した雲興寺八世・大雲永瑞和尚は織田信秀の叔父にあたる人物です。



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開基塔(織田信秀)(左)と開山塔(大雲永瑞和尚)(右)



愛知県名古屋市千種区平和公園 万松寺墓地

| 戦国時代 | 20:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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徳川宗春公の墓

 名古屋市千草区の平和公園には尾張藩第七代藩主・徳川宗春公の墓もあります。
 「享保の改革」で質素倹約政策を進める将軍徳川吉宗に対し、行き過ぎた倹約は人々を苦しめ経済の活力が失われるとして大幅な規制緩和を断行します。芝居や祭りを推奨し名古屋は江戸、大阪、京都に続く都市へと発展していきますが幕府との対立は深まり、改易を恐れた国元の重臣たちとの対立もあり、元文4年(1739)に吉宗から蟄居謹慎を命じられて失脚しました。
 宗春は隠居後も謹慎が解かれることはなく、明和元年(1764)に69歳で亡くなりますが、その墓石には金網が掛けられていたといいます。
 徳川宗春の政策により現在の名古屋の発展があり地元では大変人気が高い人物で、その墓は第二次世界大戦時、焼夷弾により損傷していましたが、2010年に地元有志により修復されています。


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徳川宗春公の墓

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宗春公の墓の説明の碑

愛知県名古屋市千種区平和公園 建中寺墓地

| 江戸時代 | 07:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平手政秀の墓 平和公園

 名古屋市では第二次世界大戦で荒廃した市街地を復興させるにあたり、市内各地にあった278寺院の墓地のみ(約19万基の墓)を千種区鹿子殿地内へ移転させます。それが平和公園で、墓園内は寺院ごとに墓の区画が仕切られていました。その中には歴史的に有名な人物の墓も含まれています。
 平和公園の「政秀寺墓地」には織田信長のもり役であった平手政秀の墓があります。
 平手政秀は尾張を支配した織田信秀の重臣で、天文3年(1534)に信秀の嫡男・信長が生まれるともり役を務めます。天文16年(1547)の信長の初陣の際には後見人を務め、翌年には美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約をまとめています。
 しかし、天文22年(1553)に政秀は突如自刃しています。理由ははっきりとは分かっていませんが織田信秀が亡くなると、奇行の多かった信長を退けようという動きがあり、信長の奇行を諌めようとしたとも言われています。
 政秀の死後、信長は政秀寺を建立し菩提を弔っています。政秀寺は名古屋市中区にありますが、墓地のみ千草区の平和公園へ移転しています。



             
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政秀寺墓地




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平手政秀の墓




愛知県名古屋市千種区平和公園 政秀寺墓地




| 戦国時代 | 06:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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名古屋城の碑

 古い歴史を持つ名古屋城は様々な歴史の舞台でもあり、城内には色々な碑や説明板が設置されています。
              
 名古屋城は、元は今川義元の父親である今川氏親が尾張侵攻のために築き、それを織田信秀が奪取して居城とした「那古屋城」が起源です。織田信長は、ここで生まれたと言われ、その城域は現在の名古屋城の二ノ丸あたりにあったそうです。
 信長が清須城へ拠点を移すと那古屋城は廃城となりますが、約50年後に徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として、この地に名古屋城を建築しました。
 現在、「那古屋城」のあった辺りに説明板が設置されています。



             
                     
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那古屋城跡




 「青松葉事件」とは幕末に起こった尾張藩内での佐幕派弾圧事件です。
 幕末には、どこの藩も同じですが藩内が尊王攘夷派と佐幕派に別れて対立が起こっています。
 14代藩主徳川慶勝は就任以来尊皇攘夷派としての立場をとりますが、井伊直弼が大老となると「安政の大獄」による弾圧により隠居へ追い込まれます。
 しかし、直弼が「桜田門外の変」で亡くなると慶勝は息子の義宜を藩主につけ藩政を取り仕切るようになります。そして、大政奉還などの政局にあたるため上洛を繰り返しています。
 慶応4年に「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍が敗北すると名古屋では、京都に派兵するかどうかで、尊王攘夷派と佐幕派で対立が深まりますが、この時、京都にいた慶勝は帰国し、佐幕派に弁明の機会を与えることなく処罰を行います。藩の重臣を始め多くの家臣が斬首あるいは永蟄居などに処されました。
 「青松葉」とは処刑された重臣のうちの筆頭格・渡辺在綱の家が「青松葉」といわれていたことから名付けられたそうです。その後、尾張藩は官軍として旧幕府軍と戦っていますが新政府では特に取り立てられるものはいませんでした。
 現在、処刑が行われた場所の近くに碑が建立されています。



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青松葉事件の碑




 藩訓秘伝の碑は初代藩主・徳川直義の直撰「軍書合鑑」の一項の題目で勤皇の精神について述べられています。
 歴代藩主はこれを藩訓として伝えてきました。幕末に御三家であった尾張藩が尊王攘夷派となったのも、この藩訓によるものと言われています。



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藩訓秘伝の碑





名古屋市中区本丸1-1 (碑は二ノ丸付近)



| 江戸時代 | 16:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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名古屋城 本丸御殿

 かつて、名古屋城の本丸には、天守閣の南側に藩主の居住の場である本丸御殿がありました。この本丸御殿は、国宝・京都二条城の二の丸御殿と並び武家風書院造の双璧と言われ国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦末期の昭和20年、空襲により天守閣と共に焼失してしまいました。
 しかし、写真や図面などが多数残されていた事から平成20年より復元工事に着手。今年5月より第一期工事の玄関、表書院が完成し公開されました。
 今後、対面所等(二期工事)、上洛殿等(三期工事)が復元され、全体が完成するのは平成30年になるそうです。



              
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復元された本丸御殿(玄関)




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内部廊下




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復元された狩野派による障壁画




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本丸御殿付近にあった案内板より

| 江戸時代 | 06:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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名古屋城

 名古屋を訪れたからには、ここは外せないと「名古屋城」を訪れました。
 名古屋城は、元は今川氏が尾張侵攻のために築いた城が起源で、その後、織田信秀が奪取し「那古野城」と改名します。信秀の子、織田信長は「那古野城」で生まれたと言われています。しかし、信長は清須城へ拠点を移したため那古野城は一度、廃城となっています。
 その後、江戸時代となり徳川家康は九男義直を尾張藩に配置しその居城として、名古屋城を築城することに決定。慶長15年(1610)に加藤清正など西国諸大名により築城が開始されました。
 以来、御三家尾張徳川家の居城として活用され天守閣は明治以降も取り壊されることもなく名古屋のシンボルとなってきました。
 天守閣のしゃちほこは有事の際の軍資金にも使えると金の板を張り付けた金鯱が設置されていたため「金鯱城」とも呼ばれています。
 しかし、第二次世界大戦の空襲で城は焼失。昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されます。現在、木造で天守閣を建替えようという計画もあるそうです。



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名古屋城天守閣



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金のしゃちほこのレプリカ(天守閣内)



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清正の石曳像
(加藤清正が天守の石垣普請を担当)



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石垣の刻印
(各大名の刻印があります)





名古屋市中区本丸1-1



| 江戸時代 | 22:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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末森城跡 城山八幡宮

 愛知県名古屋市千種区城山町の小高い山の上にある城山八幡宮は、室町時代末期に織田家の支城「末森城」があった場所です。
 末森城は、天文17年(1548)に織田信長の父親・織田信秀により三河の松平氏や駿河の今川氏に備えるために築城されました。
 信秀は、天文十七年 (1584) に古渡城から末森城に移りますが翌年に、ここで死亡。(天文20年(1551)の説もあり)その後、信長の弟・織田信行(信勝)が新しい城主となりました。
 弘治2年(1556)に、織田信行は林秀貞、柴田勝家らと共に信長に叛旗を翻しますが、稲生の戦いに敗れて和睦。しかし翌年に再度、謀反を企て信長により清須城にて殺害されます。そして末森城はそのまま廃城となったそうです。




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城山八幡宮境内




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末森城跡碑




愛知県名古屋市千種区城山町2-88

| 戦国時代 | 05:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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