烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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松平家菩提寺 高月院

 高月院は、元々は「寂静寺」といい、松平親氏の義父・在原信重により建立されたと言われています。1377年に親氏が堂・塔などを寄進してから「高月院」と改称し、松平氏の菩提寺になったと伝えられています。
 徳川家康は寺領100石を寄進し、以来、明治維新まで将軍家によって手厚い保護を受けてきました。現在の山門や本堂は、徳川家光によって建立されたものだそうです。
 松平氏宗家は三代信光の時代に安祥城主となり松平郷を離れたため、高月院には初代松平親氏と二代泰親の墓があります。
 三代信光以降、松平郷を任された一族の松平郷松平家は旗本として江戸時代以降も松平郷を領地としますが、代々当主は松平親氏の舅である在原信重が名乗った「太郎左衛門少尉」の名前を引き継ぎ「松平太郎左衛門」を名乗ったため「松平太郎左衛門家」とも呼ばれますが歴代当主の墓も境内にありました。
            
            
                
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高月院



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松平氏墓所



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中央が初代松平親氏の墓。右が二代泰親。左は四代親忠夫人。



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太郎左衛門家 九代尚栄(左)。十代重和(中央)
            
愛知県 豊田市 松平町寒ケ入44 地図



 

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| 室町時代 | 10:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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松平氏の祖 松平親氏像

 松平郷の公園に、松平・徳川家の祖・松平親氏の銅像がありました。
 新田源氏世良田氏の末裔といわれますが、これは家康の祖父・松平清康の頃に称していて史実かどうかを疑問視する人もいます。
 親氏は関東地方から戦いに敗れ、追ってから逃れるために父・有親とともに時宗の総本山清浄光寺で出家し、徳阿弥と名乗ります。その後、各地を流浪の後、松平郷へたどり着き土豪の松平(在原)信重の客人となっています。
 信重は教養があり武勇にも優れた徳阿弥を気に入り、婿養子とし、跡を継がせました。
 徳阿弥は松平親氏と名乗り勢力を拡大。戦国大名としての松平氏の基礎を作り上げていきました。
                    
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松平親氏像
                        
愛知県豊田市松平町赤原 地図
             

| 戦国時代 | 05:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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松平東照宮(松平氏館跡)

 松平家の祖、松平親氏以降、松平氏の屋敷があった場所は現在、「松平東照宮」となっています。親氏は、この屋敷から松平城へ通っていたそうです。
 東照宮の周りは堀となっていますが、これは江戸時代に整備されたものです。
 元和5年(1619)に久能山東照宮から徳川家康公の御分霊を勧請したのが始まりですが、当初は「八幡神社」と呼ばれ、昭和40年に松平親氏を合祀して「松平神社」へ改称。昭和58年に、「松平東照宮」へ再び改称しています。
           
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松平東照宮の堀
            
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境内
    
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家康公産湯の井戸
      
 境内に「家康公産湯の井戸」があります。松平家では三代・松平信光が館で生まれた際に館内の井戸から汲んだ水を産湯に使ったことから代々井戸の水を「産湯の祝水」として使ってきました。天文11年(1542)に岡崎城で家康が生まれると、ここの井戸から汲み上げた水が竹筒に入れられて早馬で届けられたそうです。  
           
愛知県豊田市松平町赤原13   地図
     

| 戦国時代 | 06:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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松平家発祥の地 松平郷

 江戸幕府を開いた徳川家康を輩出した松平氏のルーツは、現在の愛知県豊田市松平町にあたる松平郷にあります。
 伝承によると、僧侶の徳阿弥という人物が諸国を廻る中、松平郷を訪れ、ここで土豪の在原信重の婿となり松平親氏と名乗ったのが始まりだそうです。親氏は松平城を拠点として勢力を拡大。三代目の信光は安祥へ侵攻し拠点を移します。安祥そして岡崎へと移った松平家が宗家を名乗り、徳川家康は九代目当主となります。一方、松平郷へ残った松平氏は旗本・交代寄合として江戸時代も松平郷を治めました。 
 松平氏館跡(松平東照宮)、菩提寺・高月院、松平城跡など、松平郷一帯に残る遺構は「松平氏遺跡」として国の史跡に指定されています。
           
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松平郷
             
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案内板
             
 松平氏初代親氏には次のような伝説があります。
 僧侶であった親氏(徳阿弥)は松平郷にある髙月院を訪れる途中、かえでの木に笠を掛け、咲き誇るあやめの花に見とれていました。この時、あやめを摘みに来ていた在原信重の娘・水姫が井戸の水にあやめを一輪添えて差し出したのが二人の出会いだったと言われています。井戸は「見初めの井戸」と呼ばれ昭和の時代まで残されていましたが、昭和7年水害で埋まってしまいました。現在は公園内の休憩所「天下茶屋」のとなりに井戸が再現されています。
                         
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笠掛けのかえで(左)と見初めの井戸(右)
                       
豊田市松平町赤原 地図

| 室町時代 | 06:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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徳川四天王 榊原康政誕生地

 徳川四天王の一人・榊原康政は、天文17年(1548)に現在の豊田市上郷会下山にあった上野下村城で生まれました。
 康政は永禄9年(1566)に19歳で元服。本多忠勝と共に旗本先手役を務め、旗本部隊の将として活躍します。そして姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を立てました。
 関ケ原の戦いでは、徳川秀忠軍に軍艦として従軍。秀忠が戦いに遅参して間に合わず、家康が激怒しますが康政のとりなしによって秀忠は許されたとも言われています。
 関ケ原の戦い後、康政は水戸藩への加増転封を打診されましたが、戦で武功が無かったと辞退しています。
 康政の生まれた上野下村城は平城で、明治初年頃までは遺構がありましたが用水の工事や宅地化で破壊されています。天道院というお寺の角に「榊原康政誕生地」の碑がありました。この他、現在の上郷団地にも碑があるそうですが、こちらはよくわからなかったのであきらめました。
       
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誕生地(右が天道院。)
           
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榊原康政誕生地碑
              
天道院:愛知県豊田市上郷町市場186-12  地図

| 戦国時代 | 08:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本多平八郎忠勝誕生地

 岡崎市郊外の西蔵前町には、かつて、「西蔵前城」という城があったそうです。築城時期ははっきりしていませんが、天文10年(1548)に、ここで徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が生まれたといわれています。
 忠勝は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで初陣し、その後、生涯57回の合戦に臨み、かすり傷ひとつ受けたことがないといわれる戦上手の武将でした。武田信玄の家臣・小杉左近からは「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と賞賛され、織田信長には「花実兼備(花も実もある)の勇士」と讃えられます。また、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と名だたる武将が賞賛をおくっていて、家康の家臣の中で最も人気のある武将の一人です。
 西蔵前城址は住宅地となっていて遺構は残されていませんが、川沿いの高台となっていて、僅かに当時を偲ばせることができます。「本多平八郎忠勝誕生地」の碑は忠勝の子孫により大正4年に建立されたもので民家の庭に建立されていました。
               
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本多忠勝誕生地
            
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誕生地の碑
                
岡崎市西蔵前町峠  地図

| 戦国時代 | 10:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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松平徳川家菩提寺 大樹寺

 岡崎市にある大樹寺は、徳川氏(松平氏)の菩提寺で、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が安置されています。
 家康の先祖である 松平親忠が戦死者供養のために文明7年(1475)に創建したと伝えられます。
 松平元康(徳川家康)は、永禄3年(1560)、 桶狭間の戦いで敗走し、ここにたどり着き、先祖の墓前で自害しようとしましたが、当時の住職に諭されて思い留まったといいます。そのため、ここが家康が天下取りを決意した場所であると言われています。
                          
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山門
            
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本堂
             
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松平家墓所
              

 本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望む事が出来、ビスタラインと呼ばれています。これは三代将軍家光が、家康十七回忌の際に大樹寺の伽藍を大造営し、この時、岡崎城から先祖の菩提寺が眺望できるよう配置したもので、現在でも直線状にマンション等の高層建築物を建てることが禁止され、その眺望が守られています。
                  
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ビスタライン
        



 愛知県岡崎市鴨田町広元5-1  地図



| 戦国時代 | 20:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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井田城跡 酒井忠次の生誕地

 岡崎城から北へ2kmほど離れたところにある井田公園のあたりには、かつて井田城がありました。
 井田城は築城および廃城の時期ははっきりしていませんが、松平家の親族である酒井家が代々城主を務め、大永7年(1527)には徳川四天王の一人、酒井忠次が城内で生まれています。
 忠次は、徳川家康の父・松平広忠に仕え、徳川家康が今川義元への人質となった際、家康に同行しています。
 桶狭間の戦いの後、家康に重用され数々の戦いで活躍し、家康第一の家臣と称えられています。ただ、家康が関東へ移封となった時にはすでに隠居していて、慶長元年(1596)に亡くなっているため家康の天下統一は見ていません。
 井田公園隣りの城山稲荷の脇には「井田城址」の碑が建立されています。
                           
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城山稲荷
                  
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井田城跡の碑
            
愛知県岡崎市井田町字城山  地図



| 戦国時代 | 05:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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田中吉政像

 岡崎市内の籠田公園前にある中央分離帯に田中吉政の像があります。
 田中吉政は豊臣秀次に仕え家老として政務を取り仕切ります。秀次は豊臣秀吉により謀反の罪で切腹となり一族や多くの家臣も処刑されますが、吉政については普段から秀次へ諌言していたとして罪に問われることもなく、逆に加増されています。
 徳川家康が関東へ移封となると吉政は岡崎城主となり5万7400石を与えられます。
 岡崎では城や城下町の整備を行い、岡崎城を近世城郭に整備すると共に、岡崎の郊外を通っていた東海道を城下町へ引き入れるなど、岡崎の発展の基礎を築き上げました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し活躍。逃走中の石田三成を捕縛しています。これらの功績により筑後柳河藩32万国の大名となり岡崎を離れました。
                                                          
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田中吉政像
        
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田中吉政像遠景
                           
愛知県岡崎市籠田町  地図

| 戦国時代 | 05:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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家康公手形 東岡崎駅

 愛知県を訪れて一日目に泊まったのは岡崎市でした。名古屋鉄道名古屋本線の東岡崎駅から徒歩10分位のところにあるホテルです。夜は東岡崎駅前の店で食事をしました。
 ところで、東岡崎駅北口に徳川家康の手形のモニュメントがありました。思わず自分の手と合わせてみましたが実物大でしょうか。結構、小さな手でした。様々な研究で家康の身長は156~160cmであったと言われていますし当時の人は、こんなものかなと妙に納得してしまいました。
           



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東岡崎駅
                
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家康公手形
             
岡崎市明大寺本町四丁目70  地図
                

| 戦国時代 | 06:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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