烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年11月

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初代 市川団蔵碑

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市川団蔵碑
                     
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碑の裏面



 浄瑠璃姫供養塔の隣りに初代市川団蔵の碑がありました。初代市川団蔵は三河国出身で歌舞伎役者の松本四郎三郎の息子として生まれます。、元禄6年(1693)に初代市川團十郎の門人となり、市川段之助の名で舞台に立ちます。元禄11年(1698)に市川團蔵と改名し、師匠團十郎譲りの荒事で人気を集めました。 
 碑は昭和18年に8代目市川団蔵により建立されています。なお、現在の9代目市川団蔵は先日、歌舞伎界を舞台としたテレビドラマ「ぴんとこな」の最終回に特別出演される等、活躍されています。
                   
愛知県岡崎市康生町 地図
       

| 江戸時代 | 05:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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赤旗名人埼玉大会

 赤旗名人戦の埼玉県大会がありました。
 個人的な結果は言うまでもなく・・・。ユーキャンの団体戦で同じチームで出場したS君と当たりました。そのままS君が全勝して代表になりました。
 S君は過去に赤旗名人戦全国での優勝経験があります。

| アマ対局 | 16:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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浄瑠璃姫供養塔

 国道1号線沿いの岡崎公園入口付近に浄瑠璃姫供養塔があります。
 浄瑠璃姫は、矢作の長者  兼高(かねたか)夫婦の娘です。
 平安時代の頃、牛若丸(後の源義経)は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に泊まります。
 ある日、ふと聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人は恋に落ちます。 しかし、義経は奥州へと向かうため、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作を去ります。姫は義経を想い悲しみのあまり、菅生川に身を投じて短い人生を終えました。
 岡崎市内には、浄瑠璃姫ゆかりの史跡が何ヶ所かあり墓も別の場所にありますが、今回は、ここだけしか訪れることが出来ませんでした。
                 
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浄瑠璃姫供養塔
    
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供養塔前の碑
            
愛知県岡崎市康生町 地図

| 平安時代 | 09:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ユーキャン団体戦

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 今週の月曜日(祝日)に代々木のユーキャンで囲碁の団体戦がありました。ここには火曜日にインストラクターとしても行っているので、下のクラスではいつも団体戦に出るメンバーとユーキャン囲碁学苑のチームとが何チームか出ていました。
 私は無差別の主将で(明らかに副・三将の方が強いが)参加しました。私の主宰する会のチームだからということでしたが、メンバーによっては主将は飾りでしょと思うのですが、ここまでいくと・・・。まあ、勉強のつもりで。
 一回戦は天狗と当たりました。天狗の主将は神奈川代表に何度かなったKさん。途中まで完全に負けていましたが、Kさんにミスが出て最後まで打ってみようか(大差だが)という感じに。すると残り時間が少なくなっていたKさんがとんでもないミスをして形勢不明に。相手は時間がないしもしかしたら逆転できるかも。Kさんは40秒強、私は2分弱でした。最後にこちらが間違えて負けてしまいました。打とうとした隣に打ってしまい、これにはKさんも苦笑されていたようです。時間はこちらの方が残っていたのに相手が早く打つと焦ってしまいました。このあたりは実力もでしょうが経験の差も出てしまったようです。ここが一番勝てそうだっただけに残念です。
 二連覇中の新宿囲碁センターとの対戦では全国優勝経験者のSさんに負けてしまい三連敗で最終局に。ちなみにチームはここまで一勝二敗。最後はAチームとBチームの同士討ち、ここでは勝つことが勝つことができました。
 決勝戦ともいうべき対局はキズナ(金井洋龍・佐藤壮太郎・島田豪)と新宿囲碁センター(鮫島・堤田・寺田浩)になりました。このときキズナは全勝で新宿は一敗していました。結果は新宿が勝ちましたが、三勝一敗で並び、個人勝ち数によりキズナの優勝となりました。
 



 



 プロ碁界では井山さんが名人に返り咲き大三冠、二度目の六冠となりました。

| アマ対局 | 08:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城の像

岡崎公園には様々な銅像がありましたので紹介します。
公園中央にある徳川家康の銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建立されたものだそうです。


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徳川家康像
           
 松平元康像は平成4年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として建立されたモニュメントです。
若い頃の徳川家康(松平元康)の騎馬像は、岡崎城を背にして、日光東照宮の方角を向いているそうです。     
           
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松平元康像
     
 三方ヶ原の戦いにて武田信玄に無理な戦いを挑んで大敗し、多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせた肖像画が「しかみ像」です。
 
顔をしかめて苦渋の表情をした肖像画を家康は生涯手元に置いていたそうです。
 公園内にある「しかみ像」は、その画像を基にして製作された石像です。
                    
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しかみ像
                 
 家康館の隣りに徳川四天王の一人、本多忠勝の像があります。武勇に優れ「家康に過ぎたるものが二つあり,唐(から)の頭(かしら)に本多平八郎忠勝。」とまで言われた武将で、岡崎公園内の龍城神社の祭神の一人として祀られています。
                 
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本多忠勝像
                
愛知県岡崎市康生町561 Googleマップ



| 戦国時代 | 06:10 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎公園 龍城神社

 岡崎城天守閣の隣りに龍城神社があります。
 岡崎城が築城された際に、城の井戸から水が吹き出し現れた龍神が天に去っていたと言われ、天守に龍神が祀られました。岡崎城は別名を龍ヶ城と呼ばれています。また、井戸の名は龍の井というそうです。後に岡崎城で徳川家康が誕生した時も金色の龍が現れたという伝説があります。
 江戸時代、三の丸の中で家康公が祀られ岡崎東照宮とされました。また、本丸では本多忠勝を祀る神社が創建されます。明治に入り、これら城の中にあった神社を合祀して天守横に社殿が建設されます。それが龍城神社です。
                           
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龍城神社

 龍城神社の隣りで岡崎城天守の前に「家康公遺訓碑」と「家康公遺言碑」が建立されています。  「家康公遺訓碑」は家康公が征夷大将軍に就任したときに書いたもので「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし」という有名な言葉が遺されています。「家康公遺言碑」は亡くなる前に秀忠へ残した言葉で、「将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである」と述べています。
 碑の後ろに「龍の井」がありますが取材時は工事中でした。
                  
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家康公遺訓碑            
                   
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家康公遺言碑
                       
 愛知県岡崎市康生町561 Googleマップ

| 戦国時代 | 05:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城天守閣

 岡崎城が築城されたのは15世紀前半頃ですが、享禄4年(1531)に家康の祖父の松平清康が岡崎を領地とすると、現在地に移し、岡崎城と称されるようになりました。
 天文11年(1542)には徳川家康が城内で誕生しますが、家康は、父親の死亡により織田・今川への人質生活として、少年期を他国で過ごします。しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が討死すると、家康は今川から離れ、岡崎城を拠点に天下統一への地盤を固めていきます。
 元亀元年(1570)に、家康は浜松城へ本拠を移すと、嫡男信康を岡崎城主としますが、信康は信長の命で自刃。その後、重臣達が城代として赴任しています。天正18年(1590)に家康が関東に移封されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開くと、その後、譜代大名が城主を務めるようになりました。石高こそ5万石と多くはありませんが、神君家康公が出まれた城として城主を務めることは大変名誉なことと考えられていたそうです。
 岡崎城は松平家の支配以前は、砦のようなものでしたが、家康の頃までには城郭が整備され、さらに、田中吉政により、大規模な整備拡張が行われます。元和3年(1617)本多康紀が城主の頃は、三層三階地下一階の天守閣が建てられました。
 城郭の整備とともに城下町も整備され、東海道を城下に引き入れたことにより、岡崎は東海道有数の宿場町として発展していきます。
 明治以降には城は取り壊され、堀と石垣を残すばかりとなりますが、昭和34年(1959)に、岡崎のシンボルとして岡崎城を再建しようという機運が高まり、鉄筋コンクリートで、元の姿によく似た外観の天守閣が復元されました。
                          
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天守閣
                 
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天守閣最上階と、そこから見る展望
             
 岡崎城の土塀など一部の瓦に使われている三つ葉葵は、よく見る徳川家の三つ葉葵ではなくて、もっとシンプルなものとなっています。これは発掘調査により発見されたもので家康のデザインによるものと考えられています。徳川家(松平家)の家紋のルーツであると言われています。
               
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岡崎城の三つ葉葵
                        
 愛知県岡崎市康生町561 Googleマップ

| 戦国時代 | 06:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎公園

 家康の居城であった岡崎城の跡は、現在「岡崎公園」として整備されています。園内には
歴史博物館「三河武士のやかた 家康館」を始め、復元された岡崎城天守閣など、様々な施設が点在しています。
  


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三河武士のやかた家康館

 家康館や売店の辺りは二ノ丸があった場所で、売店の横には平成19年の発掘調査で当時の井戸が発掘され、復元されています。

                        
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観光みやげ店と二ノ丸井戸跡

              
 岡崎公園を訪れた時に「あいち戦国姫隊」のイベントを行っていました。「あいち戦国姫隊」とは愛知県出身の、信長の妹「市」や秀吉の妻「おね」など戦国時代の姫たちのグループで名古屋城など愛知県内の城を中心に演舞や観光案内を行っているそうです。
 その後、天守閣の方へ向かっていくと「天下人家康公 出世ベンチ」がありました。天下統一を果たした徳川家康の像と家康が子供の頃の竹千代像が設置された石のベンチに座り、岡崎城天守をバックに記念写真を撮ると、本当に運が開けるかもしれません。

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あいち戦国姫隊(左)と「天下人家康公 出世ベンチ」(右)
                                 
三河武士のやかた家康館:岡崎市康生町561番地 Googleマップ

| 戦国時代 | 07:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城 大手門

 新城市を離れて岡崎市にやってきました。天下人徳川家康が生まれた所です。
 家康の生まれた岡崎城は現在「岡崎公園」として整備されています。入口には大手門が復元されていました。
 大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建設されたものですが、本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にあったそうです。江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間 梁行二間四尺」という大きさでした。
                
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岡崎城大手門前
           
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大手門
             
 岡崎城大手門前の広場に「岡崎城下東海道二十七曲り碑」があります。
 二十七曲りとは岡崎城下を通る東海道が、防衛上の理由で曲がりくねっていたことから、そう呼ばれたそうです。
 天正18年(1590)に徳川家康が関東へ移封となった後、豊臣秀吉の命で岡崎城主となった田中吉政は10年の歳月をかけて城下町を整備します。その際、東海道を岡崎城下に引き入れています。そのため江戸時代には宿場町として大いに栄えたそうです。
                                  
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岡崎城下東海道二十七曲り碑
                     
岡崎公園:岡崎市康生町561番地1 Googleマップ

| 戦国時代 | 09:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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新城城 家康と算砂の出会い



 新城市の新城小学校は、かつて奥平信昌の居城「新城城」のあった場所です。「新城城」は新城市の語源となった城です。
 天正3年(1575)の長篠の戦いにて長篠城を死守した奧平信昌は、戦後、家康の命により長篠城を廃して伊那街道の押さえの要地に「新城城」を築城します。築城にあたり長篠城の大手門を移築するなどしたそうです。奥平信昌は天正18年(1590)に家康の関東移封に伴い、上野国宮崎に三万石で移り、その後の新城城は池田輝政の所領などを経て江戸時代には天領となり、
慶安元年(1648)に丹波亀山より菅沼定実が新城に7千石を領し陣所を置き明治を迎えます。
 ところで、「新城城」を築城した奥平信昌は囲碁をたしなみ本因坊算砂の弟子であったと伝えられています。家康は信昌に娘の亀姫を嫁がせ義父となっていますが、家康が駿府に新しい城を築造した翌年の天正15年(1587)に信昌は城を訪れています。この時、算砂は信昌に同行し初めて家康と対面しています。
 家康はもともと囲碁は好きではなかったと言われていますが、この出会いにより囲碁に傾倒していき、後の江戸幕府による支援へと繋がっていったのです。
 家康と算砂を引き合わせた奥平信昌は囲碁界発展へ大きく寄与した陰の功労者とも言えるのです。



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新城小学校校門(かつての門を再現)
          
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新城の地名発祥の地碑
             
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新城城跡の碑
                 
愛知県新城市西入船76  Googleマップ

| 囲碁が関わった出来事 | 22:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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