烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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囲碁史会

 先週の金曜日は囲碁史会の日でした。
 この日は富山から香川さんが来られ、研究発表と囲碁史会に提言をされました。さらに香川さんの要請で「幻庵因碩全集」を製作することになり、棋譜入力まで完了しました。ご興味のある方はぜひ。
 最後にはいつものように南さんの発表となりました。
 さらに、囲碁史会の会員も募集することになりました。囲碁史に興味のある方は一度参加されてみてはいかがでしょうか。研究発表などはされなくても聞いているだけもいいです。囲碁史会は奇数月の最終金曜日日本棋院の七階で午後3時からやっています。

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| 囲碁史会 | 08:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平井神社 織田信長旗本陣跡

 新城市の平井神社は小高い山の上にあり、800~900年前には八剣神社としてこの地で祀られていました。
 天正3年(1575)、長篠設楽原の戦いの時に、織田信長は、ここを旗本陣として「信長ここにあり」と幟旗や旗指物を林立させました。
 旗本陣跡の碑が石段途中の右手にあったそうですが取材時に気が付かず取り損なったと思っていたら偶然にも「平井神社の由来」の説明板を撮影したときに映り込んでいました。
                       



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平井神社拝殿
                     
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「平井神社の由来」(右後方に旗本陣跡の碑)
                           
愛知県新城市上平井字タイカ166   Googleマップ



| 戦国時代 | 20:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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武田信玄が撃たれた場所 法性寺

 武田信玄は野田城を攻略中に病が悪化し、甲斐へ引き返す途中に亡くなったと言われています。しかし、野田城周辺では、信玄は野田城からの狙撃による傷がもとで亡くなったという伝説が残されています。
 野田城を包囲した信玄は、毎晩城内から流れる美しい笛の音に誘われもっと近くで聞きたいと本陣を出たため、城内から狙いを定めていた菅沼氏配下で鉄砲の名手・鳥居半四郎に狙撃され胸を撃たれます。即死はしなかったものの、やがてその傷が元で亡くなったということです。
 信玄が撃たれたと言われる現場が野田城のすぐ西にある法性寺にあります。境内にある案内板に従い寺に隣接する山(岡)を上ったところ。工場の裏側のようですが、そこに信玄が撃たれたと言われる場所があります。 野田城は小さな山の上に築城されていますが、法性寺を挟んで相対する岡の上です。
 黒澤明監督による映画「影武者」は、この伝説をもとにつくられています。
 なお、信玄を狙撃したときに使われたといわれる鉄砲が、新庄市の「設楽原歴史資料館」に展示されています。
        
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法性寺本堂
                    
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境内にある案内板
            
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信玄が撃たれたと言われる場所
              
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信玄が撃たれた場所から眺める野田城跡の山
            
法性寺:愛知県新城市豊島字竜谷4  Googleマップ



| 戦国時代 | 07:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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野田城

 愛知県豊川市から新城市へ移動して最初に訪れたのが「野田城跡」です。
 野田城は武田信玄が生涯最後に攻め落とした城として知られています。城は永正13年(1516)から天正18年(1590)まで75年間にわたり存続していました。
 野田城を築城した三河菅沼氏一族の菅沼定則は、当初今川方に属していました。今川義元が桶狭間で戦死すると菅沼氏は徳川方へ属するようになります。
 その後野田城は今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受け落城を繰り返すことになります。
 元亀3年9月、武田信玄は西上作戦を発動し、徳川家康の領地、遠江及び三河に3万の軍勢を率いて侵攻します。迎え撃った徳川家康が「三方ヶ原の戦い」で大敗すると信玄はさらに軍を進め元亀4年に徳川方の野田城を包囲します。このとき家康は、三方ヶ原の戦いの大敗により支援できるな状態では無く、当時の城主・菅沼定盈と500名程度の軍勢は、武田軍との籠城戦を強いられることとなりました。
 武田方との兵力差は圧倒的でしたが野田城は1ヶ月間持ちこたえます。武田軍は無理に攻めることはなく、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて城のある山の側面を掘り、城内の水脈を断つことで落城に追い込んだそうです。
 野田城が落城し、次は徳川方の拠点、吉田城や岡崎城が攻められると思われていましたが、武田軍は突然侵攻を止め、甲斐へ引き返します。信玄の病状が悪化したためで、信玄は、その道中で亡くなっています。
 武田信玄が急に亡くなったことから地元では信玄は野田城からの狙撃により負傷して亡くなったという伝説が残されています。、黒澤明の映画で昭和55年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「影武者」は、この伝説を元に制作されたものです。
                           



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野田城跡入口
              
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野田城案内板
              
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野田城跡の碑
           
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野田城の井戸跡
                 
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武田信玄を狙撃したといわれる場所
              
愛知県新城市豊島本城   Googleマップ



| 戦国時代 | 05:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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豊川稲荷

 豊川市へ行ったらきここは外せないと「豊川稲荷」へ参拝してきました。
 豊川稲荷は、愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院で正式の寺号は妙厳寺といいます。境内に祀られる鎮守の稲荷が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られ、商売繁盛の神として古くから人々に信仰されてきました。今回、参拝して残念だったのは境内最古の建物で、今川義元の寄進により建てられた山門が改修中で見る事が出来なかったことです。
 境内には鳥居があり「豊川稲荷」は神社と思われがちですが、ここは寺院なのです。お稲荷様は神社というイメージがりますが、日本三大稲荷、伏見稲荷大社(京都)、最上稲荷(岡山市)、豊川稲荷のうち神社は伏見稲荷大社だけだそうです。
             
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総門
                 
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境内
                   
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狐の像
                  
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本殿
                
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法堂
                       
愛知県豊川市豊川町1番地  Googleマップ



| 旅行記 | 06:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山本勘助生誕地

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 山本勘助晴幸の生誕地は、現在の富士宮市という説もありますが、三河説では明応9年(1500)に八名郡賀茂村(現:豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と言ったそうです。
 先祖は清和天皇の後裔、新羅三郎義光の三世、山本遠江守義貞から出たと言われ、駿河国富士郡に住み、勘助の曽祖父・山本伝次郎幸綱が賀茂荘二千五百石を与えられ、賀茂の照山に住み着いたと言われます。幸綱から三代目の山本藤七郎光幸は、賀茂村の鶴巻地区に屋敷を構え、その三男が源助こと後の山本勘助だそうです。
 大正4年に山本勘助の生まれた屋敷跡に碑が建立されました。現地は道が狭いところですので車の方は注意してください。
            
豊橋市賀茂町  Googleマップ

| 戦国時代 | 06:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山本勘助両親の墓 本願寺

 武田信玄の軍師である山本勘助の出生地といわれる愛知県豊橋市加茂町に本願寺というお寺があります。ここは勘助の菩提寺で両親の墓が残されています。近くに「山本勘助生誕地」もあり合わせて訪問できます。ただし周辺は道幅が狭いため車の方は気を付けて下さい。(車じゃないと行きづらい所ですが)
 山本勘助の生誕地と言われるのは、こちらの他に静岡県富士宮市にもあり、そちらにも母親の墓があります。勘助の曾祖父は富士宮市の生まれで、そのまま富士宮で暮らしたという説と豊橋市に移り住んだという説があるためです。

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本願寺本堂
                  
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山本勘助両親の墓
               
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境内ののぼり
                 
豊橋市賀茂町出口55  Googleマップ



| 戦国時代 | 10:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山本勘助の墓 長谷寺

 山本勘助は武田信玄に仕えた天才軍師で「甲陽軍鑑」には,独眼で片足が不自由であったと記されています。
 生まれた場所には諸説ありますが三河牛窪(愛知県豊川市)の出身で,天文12年(1543)に板垣信方の推挙によって信玄に仕えるようになり,足軽大将を務めています。永禄4年(1561)の「川中島の合戦」で,作戦を指揮して失敗した責任を取って討ち死にしたといわれています。
 「甲陽軍鑑」に登場し浄瑠璃や歌舞伎で「川中島合戦」の,軍師として取り上げられたため広く知られた人物でしたが、謎の多い人物で実在していたかも長い間疑問視されてきました。しかし、近年、古文書で信玄が奥信濃の土豪市河藤若に宛てた書状から「山本菅助」という名前が発見され実在説が有力になってきました。ただし、この人物が「甲陽軍鑑」の山本勘助と同一人物であるという証拠はありません。
 牛久保町寺町の長谷寺には山本勘助の墓があります。この寺の念宗和尚と勘助と親交があり、信玄に召し抱えられたときに遺髪を和尚に託したそうです。川中島の合戦で勘助が戦死すると、和尚がその死を悼み遺髪を埋めて墓を建立したそうです。また、長谷寺には、勘助の守護神であったとされる木造摩利支天尊像も安置されています。
                 



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本堂
           
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入口にある勘助の碑
                
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山本勘助の墓
             
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境内にある木造摩利支天尊像の説明板
                    
愛知県豊川市牛久保町八幡口97  Googleマップ



| 戦国時代 | 22:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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東勝寺 牛久保陣屋跡

 豊川市牛久保で今川義元公墓所を訪問したあと、予定には無かったのですが、たまたま通りがかったので東勝寺によってみました。
 東勝寺の西隣には元禄11年(1698)に旗本寄合の米津田賢が4000石で構えた陣屋がありました。米津田賢は久喜藩初代藩主・米津田盛の次男で、茶人としても知られていて細川忠興(三斎)に師事した一尾伊織の門人の1人です。
 陣屋は幕末まで存続し、その後、小学校になっていましたが、現在は住宅地となり当時を偲ばせる遺構はありません。東勝寺山門脇にある寺の案内板に陣屋の事がふれられているのみです。



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東勝寺山門
                
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東勝寺本堂
                    
牛久保陣屋跡:愛知県豊川市牛久保町八幡口
   東勝寺:愛知県豊川市牛久保町若子19
                    Googleマップ



| 江戸時代 | 07:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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今川義元公墓所 大聖寺

 牛久保駅の近くにある大聖寺は戦国大名・今川義元の胴塚のある寺として知られています。
                 
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大聖寺山門
                
 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名、今川義元は三河や尾張の一部にまで勢力を拡大し天下統一も間近と考えられていましたが、尾張に侵攻した永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて討死します。
 家臣達が首のない遺体を背負って駿河へ帰る途中、ひとまずこの地に葬り、手水鉢を置いて墓石の代わりとしました。
 嫡子氏真は父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領を安堵しています。
               
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今川義元公の胴塚
                   
 大聖寺は室町時代は一色城の一部であったと考えられています。一色城を築城した一色刑部少輔時家は関東公方足利持氏に仕える足利一門の武将でしたが、足利持氏関東管領上杉憲実が対立し室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた永享の乱」で持氏軍として戦い敗走。、同族の一色氏を頼り三河国へやってきます。
 そして、永享11年(1439)に一色城を築城し、ここを本拠地に勢力拡大を図りますが、文明9年(1477)に家臣の波多野全慶の謀反により殺害されました。大聖寺境内の今川義元公の墓の隣りに時家の墓があります。
 ところで、時家を殺害した波多野全慶は16年後、同じく時家の家臣であった牧野古白に討たれ古白が新城主となります。牧野古白はその後、吉田城を築城し、そちらに拠点を移しています。
                                
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一色刑部少輔時家の墓
             



大聖寺 : 豊川市牛久保町岸組66   Googleマップ



| 戦国時代 | 06:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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