烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年09月

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新撰組ゆかりの八坂神社(日野市)

 新撰組副長の土方歳三の出身地で新撰組と関わりの深い日野市へ訪れてみました。



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日野駅



 八坂神社は創建年代は不詳ですが、社伝では応永5年(1398)普門寺が創建され、牛頭天王社の別当となり、明治2年(1869)に八坂神社となりました。
 新撰組の近藤勇が4代目を務めた天然理心流は初代近藤内蔵之助こそ静岡の出身でしたが二代目以降、多摩地区出身者が継承したため日野にも多くの門弟がいました。
 八坂神社に安政5年(1858)に奉献された剣術額には日野宿の剣士たち23名と近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります。当時、近藤勇は師匠の3代目・近藤周助に認められ周助の実家・嶋崎家へ養子に入っていました。この後、周助の養子となり天然理心流を継承していくことになるのです。



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八坂神社鳥居




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改修工事中の本殿




八坂神社:日野市日野本町3-14-12
グーグルマップ:35.679132, 139.396059

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| 幕末・明治維新 | 09:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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夏目漱石旧居跡

文京区向丘にある日本医科大学同窓会館は、文豪・夏目漱石の旧居跡です。イギリスから帰国後の明治36年から3年間ここで暮らし、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、デビュー作『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となりました。



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日本医科大学同窓会館




 ところで、漱石は囲碁を趣味としていたか以前調べたことがありましたが特にそうでもなかったようです。しかし、『我輩は猫である』では囲碁の記述もあり囲碁をしなかったわけでもないと思われます。以下は11章に書かれた囲碁の記述です。
                  
 吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。
 広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩むほどごたごたと黒白(こくびゃく)の石をならべる。
 そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。たかが一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。
 懐手をして盤を眺めている方が遥かに気楽である。それも最初の三四十目は、石の並べ方では別段目障りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。
 人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。




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夏目漱石旧居跡




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碑の近くにある猫のモニュメント




 夏目漱石旧居には漱石以前に森鴎外も住んでいたことがあるそうです。現在、跡地には碑が残されているのみですが、実は、当時の建物は現存しているのです。愛知県犬山市にある野外博物館「明治村」へ移築されていますので機会があれば行ってみたいものです。




文京区向丘2-20-7 日本医科大学同窓会館



| 囲碁が関わった出来事 | 22:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金玉均の墓 真浄寺

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真浄寺山門




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金玉均の墓




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甲斐軍治の墓




 以前、青山霊園にある李氏朝鮮末期の政治家・金玉均の墓を紹介しましたが、文京区向丘の真浄寺にも金玉均の墓があります。明治15年に日本を訪れ、明治維新とその後の発展に刺激を受けた金は、朝鮮の近代化のためには清国の属国からの独立を目指す必要があると考え、帰国後の1884年(明治17年)にクーデター(甲申事変)をおこします。しかし、清軍の侵攻により新政権は敗退し、金は日本へ亡命します。
 亡命中は福澤諭吉や頭山満らの支援を受けますが、清との関係を憂慮した政府により明治19年、小笠原諸島へ配流されます。その後、北海道に移り自由の身になって東京に帰ってきたのは明治23年になってからでした。
 金玉均は日本の囲碁界とも大きな関わりがあり、支援者を通じて方円社の村瀬秀甫に囲碁を教わっています。やがて、本因坊秀栄とも知り合い、年齢も近かった二人は意気投合し無二の親友となりました。対立していた方円社と家元側が和解し18世本因坊秀甫が誕生した背景に金玉均の働きかけもあったとも言われています。
 金が小笠原諸島に流布された時は、秀甫の死去により19世本因坊を再襲した秀栄が、度々訪れています。北海道へ引っ越した時も秀栄は同行し長期間北海道に滞在しています。
 また、後に21世本因坊秀哉となる元方円社員・田村保寿を秀栄に紹介したのも金玉均でした。
 亡命から10年たった明治27年に金は周りの止めるのも聞かず上海に渡り、そこで暗殺されました。遺体は朝鮮に運ばれ、バラバラにされて晒されたといいます。日本での支援者は金の遺髪や衣服の一部を日本へ持ち帰り葬儀を行います。青山霊園の墓は、犬養毅や頭山満らの支援で建てられたのですが、真浄寺の墓は甲斐軍治という人物により遺髪等が持ち込まれ建立された墓だそうです。甲斐はソウルで写真家をしていたと言われ人に頼まれて金玉均の遺髪等を手に入れ日本の送りました。墓の隣りに甲斐軍治の墓もあります。




真浄寺 : 文京区向丘2-26-9



| 囲碁史あれこれ | 21:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大円寺 「ほうろく地蔵」と「高島秋帆の墓」

 文京区向丘にある大円寺は曹洞宗の寺院で、山号は金龍山。「ほうろく地蔵」の寺として知られています。
 。「ほうろく地蔵」とは「八百屋お七」にちなんだ地蔵尊です。天和2年(1682)に発生した天和の大火は、お七が恋仲 になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯したとされ火あぶりの刑を受けますが、「お七」を供養する ために大円寺にお地蔵様が建立されます。
 寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した炮烙(素焼きのふちの浅い土鍋) を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様との事です。享保4年(1719) に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれています。



                     



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大円寺山門





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ほうろく地蔵





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本堂



                   



 大円寺の墓所には江戸時代末期の砲術家。高島流砲術の創始者である高島秋帆の墓があります。
 アヘン戦争で清国が敗れたことを知り、幕府へ様式砲術の採用を建議。天保12年(1841)に武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ないます。これを機に幕府から重用されますが、それを快くおもわない鳥居耀蔵の「密貿易をしている」といういわれなき訴えにより失脚。幽閉されます。(鳥居耀蔵は蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者もでっち上げの事件で弾圧しています。)しかし、嘉永6年(1853)のペリー来航による社会情勢の変化により赦免。その後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。



           





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高島秋帆の墓



              



 そういえば、2004年に亡くなった上村邦夫九段のお墓もここにあるようですが、今回は調査はしませんでした。

               

大円寺:東京都文京区向丘1-11-3



| 東京散歩 | 21:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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白山神社 「孫文先生座石」の碑

 文京区にある白山神社は天暦2年(948)に加賀国の白山比咩神社から勧請を受けて、現在の本郷1丁目あたりにに創建されました。元和年間(1615~1624)に将軍徳川秀忠の命で現在の 小石川植物園内に移りましゅが、明暦元年(1655)、に当時の館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が作られることになったため、現在地に遷座しています。その縁で綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰されたそうです。



 



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白山神社鳥居



 



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白山神社拝殿



 



 境内には、中国の革命家・孫文に関わる「孫文先生座石」の碑があります。
  明治43年(1910)5月中旬、神社近くに住む盟友、宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は滔天と共に、白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合ったといいます。そのとき、夜空に輝く一条の流星をみつけ、祖国の革命を心に誓ったそうです。後に孫文は清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者となります。孫文が流星を見て、清朝を打倒し、新中国建設を誓った場所を後世に残そうと、白山神社の宮司を中心に町会有志が、この記念碑を建立したそうです。
 孫文と滔天が見た流星とは、時期的にハレー聾星ではないかと思われています。中国や日本では、むかし、この星を妖星と呼び、変事が起こるきざしと考えられていますいた。



 



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「孫文先生座石」の碑



 



白山神社 : 文京区白山5-31-26

| 東京散歩 | 19:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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久世大和守広周の墓

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歴代関宿藩主の墓所



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久世大和守広周の墓
        

                   

 歴代本因坊の眠る巣鴨の本妙寺には、もう一人、江戸時代の囲碁界と大きく関わりを持った人物がいます。下総国関宿藩の第七代藩主・久世大和守広周です。
 広周は旗本・大草髙好の次男で文政13年(1830)に第6代関宿藩主・久世広運(ひろたか)の末期養子として家督を継ぎます。天保14年(1843) には寺社奉行に就任し、囲碁界との関わりを強めていきます。
 嘉永4年(1851)には老中に就任し阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たりますが、「安政の大獄」で井伊直弼の方針に反対し罷免させられます。万延元年(1860)に「桜田門外の変」で直弼が暗殺されると、安藤信正の推挙を受けて老中に再就任。公武合体政策を推進しますが文久2年(1862)、信正が「坂下門外の変」により老中を罷免されると広周も連座して老中を罷免されて失脚。元治元年(1864)に失意のうちに死去。享年46歳でした。
 そして、広周と囲碁界の関わりですが、旗本太田運八郎の近習、松本錦四郎は、17歳の頃に太田が山田奉行在任中に、遊歴中の本因坊秀和と三子で勝利します。江戸に戻ってから久世大和守広周の紹介により林家の門人となり、さらに実力をつけていきます。
 嘉永3年(1850)に十二世井上節山因碩が門人を斬り殺す事件により退隠しますが、後継者とされていた服部正徹が遊歴中であったことから、老中であった久世大和守広周により松本錦四郎が急遽井上家を継ぎ、十三世井上因碩となりました。井上家に後継者がいながら林家から当主を受け入れた訳ですが家名断絶の危機でしたから実力者へは逆らえなかったのでしょう。井上松本因碩は幕末・明治と激動の囲碁界の中で重鎮として大きく関わっていくことになります。
                 



本妙寺:豊島区巣鴨五丁目35番6

| 囲碁が関わった出来事 | 10:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天野宗歩の墓 本妙寺

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 巣鴨の本妙寺といえば歴代本因坊の墓所として有名ですが、境内には江戸時代末期の将棋指し・天野宗歩の墓もあります。
 天野は「実力十三段」と呼ばれながら将棋家元の大橋、伊藤家出身でなかったため、当時世襲制だった将棋の名人には推挙されず段位も七段止まりでした。
 後 に「棋聖」と呼ばれ現在のタイトル戦「棋聖戦」の由来となったそうです。ただ、普段の素行は悪く酒色に溺れ賭将棋をしていたとも伝わっています。
 安政6年(1859)に42歳で亡くなり本妙寺へ葬られました。
                          



本妙寺:豊島区巣鴨五丁目35番6 



 

| 江戸時代 | 06:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日本初の通辞 森山多吉郎の墓

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 巣鴨本妙寺には、日本初の通辞(通訳)・森山多吉郎の墓があります。
 森山は文政3年(1820)、長崎で代々オランダ通詞を務める家に生まれます。嘉永元年(1848)に漂着したアメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ケ国語を使いこなせる通詞として活躍します。嘉永6年(1853)のプチャーチン来航の際や、嘉永7年(1854)のペリー来航の際も通訳を務めたそうです。しかし、明治維新後には新政府に仕えることはなかったそうです。




本妙寺:豊島区巣鴨五丁目35番6 



 

| 幕末・明治維新 | 20:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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方円社発足当時の相関図

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方円社結成時の人物相関図
                     
 久しぶりに本妙寺にお参りしたこともあり、明治の初め頃、方円社が設立された頃の人物相関図を紹介させていただきます。私が発行していた囲碁史の情報誌「囲碁人」に掲載するために作ったものをブログ用に修正したものです。
 明治維新の新しい波を受けて、新時代の家元として生まれた方円社は、伝統と格式を重んじる旧家元側と激しく対立しますが、その主要メンバーは家元当主となってもおかしくない人物達でした。特に12世丈和、14世秀和の関係者が多かったことが分かります。
 つまり、方円社と旧家元の対立は本因坊家内部の争いに囲碁界全体が巻き込まれていった側面もあるのです。





| 方円社 | 21:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本妙寺 本因坊家の人々

 久しぶりに巣鴨を訪れましたので、歴代本因坊の眠る本妙寺へも行ってみました。
 歴代本因坊の墓所には本因坊家当主以外の墓もあります。



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本妙寺 本因坊歴代の墓
                



 四世本因坊道策の隣りにある五世本因坊道知の墓には秀策と道的の戒名も刻まれています。秀策とは言うまでもなく碁聖と呼ばれた本因坊秀策の事です。嘉永元年(1848)に十四世秀和の正式な跡目となり丈和の娘とも結婚してこれからという文久2年(1862)に江戸で大流行したコレラで亡くなりました。本因坊家で感染者が発生したとき、周りが止めるのも聞かず懸命に患者の看護にあたったためだそうで、その甲斐あってか秀策以外の犠牲者は出なかったそうです。
 本因坊道的は本名を小川といって四世本因坊道策の弟子です。13歳の時に六段となり神童と呼ばれ、貞享元年(1684)に四世本因坊跡目となります。19歳の時には棋聖と呼ばれた師匠・道策と打ち分けたと言われ将来を期待されましたが僅か21歳で亡くなっています。
                      



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本因坊道知・秀策・道的




 奥貫智策は十一世本因坊元丈門下で五段。元丈の跡目として期待されていましたが27歳で亡くなります。智策の死により丈和が跡を継ぐことになります。
 墓石にはもう一人戒名が刻まれていますが誰のものかは分かりませんでした。
                                    



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奥貫智策の墓
               



 宮重策全は十一世本因坊元丈の実子です。兄弟に十三世本因坊丈策がいます。策全自身も六段の強豪だったそうです。                 



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宮重策全の墓




本妙寺:豊島区巣鴨五丁目35番6 
      
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| 本因坊家 | 22:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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