烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年08月

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合羽橋

 台東区西浅草に調理器具や食器類などの問屋が立ち並ぶ「かっぱ橋道具街」があります。
 名前の由来は、その名のとおり江戸時代に「合羽橋」という橋が掘削された堀に架かっていたためで、橋は現在の合羽橋交差点付近にありました。
 この土地は湿地帯で度々川が反乱したので、人々のために合羽屋喜八という人物が、私財を投じて整備を行い、それに心を打たれた河童達が、夜ごと工事を手伝い喜八を助けたという伝説が残っています。交差点付近には、この伝説にちなみ「かっぱ河太郎」像 が建立されています。



                     



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合羽橋交差点



            



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かっぱ河太郎像



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| 東京散歩 | 06:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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彰義隊結成の地 東本願寺

 台東区西浅草一丁目に、浄土真宗東本願寺派の本山である、「東本願寺」の別院があります。もとは神田にあったそうですが、「明暦の大火」により焼失し浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」とも呼ばれています。
 「東本願寺」は彰義隊結成の地としても知られています。鳥羽伏見の戦いを経て、江戸へ帰還した徳川慶喜は新政府への恭順の意を示すために、上野寛永寺で謹慎します。慶応4年(1868)、その慶喜を警護しようと幕臣たちを中心に結成されたのが「彰義隊」で結成式が、ここ「東本願寺」で行われています。「彰義隊」はその後、上野に立てこもり新政府軍と「上野戦争」と呼ばれる壮絶な戦いを行うこととなるのです。



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標柱



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本堂



台東区西浅草一丁目5番5号



| 幕末・明治維新 | 06:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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はなし塚 本法寺

 台東区寿2丁目にある本法寺は、天正19年(1591)太田道灌の時代に江戸城紅葉山に開山したのが始まりで、その後、八丁堀に移りますが明暦の大火により明暦2年(1657)に現在地へ移転しています。



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本法寺



      



 境内には「はなし塚」が建立されています。昭和16年に10月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていました。落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等53種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示します。この中には江戸文芸の名作といわれた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」等を含み、高座から聴けなくなりました。
 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められました。
 戦後昭和21年9月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが収められたそうです。 



                  



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境内の様子



             



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はなし塚



              



台東区寿2−9−7



| 東京散歩 | 09:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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葛飾北斎の墓

 台東区元浅草の誓教寺に葛飾北斎の墓があります。北斎は江戸時代後期の浮世絵師で代表作に「富嶽三十六景」や「北斎漫画」があり、世界的にも知られた画家です。
 90歳という長命でしたが、その生涯は実に破天荒で、「北斎」以外に30回も改号し、引越しは93回にも及びます。料理は自分で作らず買ってくるか、貰い物ですませ、自宅には食器が無かったそうです。来客のときは、お茶は自分で入れず隣りに住んでいた子供を呼び出して入れさせていたともいいます。このような生活で江戸時代に90歳まで生きたのは、すごいとおもいますが、酒やタバコは一切やらなかったそうです。
 北斎はお金には無頓着で貯める気は全く無かったそうで、常に貧しい生活を送っていました。一方で気位が高く、どんな身分の高い人の依頼でも気がすすまなければ一向に作業をしないため、依頼者とのトラブルも絶えなかったそうです。
 「シーボルト事件」で有名なドイツ人医師シーボルトともトラブルがあったそうです。シーボルトが長崎商館長と共に江戸へやってきたとき、商館長は北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼します。この時、シーボルトも同じものを注文しますが、数日後に北斎が仕上げて納品するとシーボルトは半額しか払えないと言い出します。値引きが無理でも1巻だけなら買うといいますが激怒した北斎は2巻とも売らずに帰ってしまいました。帰宅後、北斎は妻に、生活費に苦慮する中、どうして売ってこなかったのかと責められますが、「もし、あの場で売っていたら外国人に、日本人は相手を見て値段を変えると思われてしまう」と答えました。この話が商館長に伝わり最初の約束通りの金額が支払われたそうです。
 その後も長崎商館からの絵の注文は続いたそうですが、 「シーボルト事件」により北斎の関与も疑われていたそうです。事件では、日本の地図をシーボルトが海外に持ち出そうとした事が有名ですが、当時、外国人への売買が禁止されていた日本の絵画も多数、海外へ持ち出されていて北斎のものも多数あります。



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誓教寺本堂



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葛飾北斎像



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葛飾北斎の墓



誓教寺 : 台東区元浅草4丁目6−9



| 江戸時代 | 23:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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講道館柔道発祥の地 永昌寺

 台東区東上野にある永昌寺は、講道館柔道発祥の地として知られています。
 創始者の嘉納治五郎はもともと虚弱体質であったため、心身を鍛えようと日本古来の柔術を学びます。その中で「崩しの理論」など独自の理論を確立し「柔道」を考案します。
 明治15年(1882)に永昌寺の書院を借り受け道場とし「柔道」の稽古が始まります。現在、世界中に普及しオリンピック競技にもなっている「柔道」ですが、広さ12畳。門弟、僅か9名のスタートでした。
 ところで、最近の柔道連盟の一連の不祥事を嘉納先生はどう思っているのでしょうか。永昌寺を訪ねて、ふと、そう考えてしましました。一刻も早い立ち直りを期待したいものです。



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本堂



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「講道館柔道発祥之地」碑



台東区東上野5-1-2



| 明治・大正時代 | 22:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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寄席発祥の地 下谷神社

 下谷神社は、台東区東上野にある神社です。天平2年(730)峡田の稲置らが、現在の上野公園のあたりに創建されたと言われ、寛永4年(1627)に下谷屏風坂下へ移転。延宝8年(1680)には広徳寺門前へ移転しています。明治5年下谷神社と改称、関東大震災による被災で昭和3年に現在地に再建され現在に至っています。
 寛政10年(1798)に初代・三笑亭可楽により神社境内で初めて寄席が開かれたと言われ、境内には「寄席発祥の地」の石碑があります。



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下谷神社の鳥居



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山門



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拝殿



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寄席発祥の地碑



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正岡子規の碑




東京都 台東区 東上野3丁目29-8



| 歴史あれこれ | 06:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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広徳寺跡(台東区役所)

 上野駅近くにある台東区役所は、江戸時代に「広徳寺」という寺院があった場所です。
 「びっくり下谷の広徳寺、おそれ入谷の鬼子母神」と入谷の鬼子母神と並び江戸を代表する寺院として知られ、加賀前田家・会津松平家など多くの大名家菩提寺となっていました。、墓所には大名家の多宝塔などが林立する壮観な寺院でしたが関東大震災により焼失し、現在は練馬区桜台に移転しています。
 区役所に隣接している「広徳児童遊園」には「広徳禅寺遺跡」の碑が建立されていました。



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台東区役所




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「広徳禅寺遺跡」の碑(広徳児童遊園)




台東区役所:台東区東上野4丁目5番6号



| 江戸時代 | 06:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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下町風俗資料館

 不忍池のほとりに「下町民族資料館」があります。どこか江戸の名残を残していた下町も、関東大震災、東京大空襲を経て、さらに戦後の高度成長により、ほとんど姿を消していきました。
 在りし日の下町の風景を後世に残そうと、昭和55年に開館したのが同資料館です。内部には大正時代の長屋などが再現されています。
 また、資料館の前には、瀧門橋の碑が建立されています。かつて、不忍池の池岸に行くには小川に架かる橋を渡らなければならず、その橋のひとつが瀧門橋だったそうです。


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下町


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再現された大正時代の長屋(駄菓子屋)


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内部の様子


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瀧門橋の碑



台東区上野公園2番1号



| 東京散歩 | 21:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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不忍池の碑2

 上野不忍池にある碑の案内の続きです。
 池のほとりに「八橋検校顕彰碑」があります。検校とは盲目の役人の最高位の事で、八橋検校は寛永年間(1624~1644)に活躍した音楽家で現在の琴の基礎を作り上げた人物です。
 ちなみに京都の銘菓「八ツ橋」は八橋検校の死後、その業績を偲んで、箏の形を模した堅焼き煎餅が配られたのが始まりと言われています。
                            



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八橋検校顕彰碑



 



 弁天堂の近くには松尾芭蕉の碑がありました。          



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松尾芭蕉碑



                       



 櫛淵虚冲軒は「新道一心流」という流派を起こした幕末の剣豪です。一ツ橋家に仕えたことから将軍家菩提寺である寛永寺近くに碑がつくられたのでしょう。



             



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幕末之剣豪 櫛淵虚冲軒之碑



                       



 杵屋六三郎は、長唄三味線方の名跡です。初代は享保年間に活躍した人物で現在は13代目が活躍しています。





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杵屋六三郎の碑



| 東京散歩 | 20:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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不忍池の碑1

 多くの人々が集まる不忍池の周りと弁天島には多くの記念碑が建立されています。
 弁天堂の前には琵琶の大きな像が建立されています。琵琶は祀ってある弁財天が使っている楽器として有名です。



               



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琵琶の像



      



 不忍池のほとりに「駅伝の碑」があります。大正6年(1917)に行われた「東海道駅伝徒歩競争」が我が国最初の駅伝大会で、スタートが京都三条大橋。ゴールが、ここ不忍池で三日間にわたり開催されました。なお、同じ形の碑が京都三条大橋にも建立されています。         



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駅伝の碑



 めがね業界関係者により明治100年を記念し、昭和43年に建立された「眼鏡之碑」があります。                       



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めがねの碑
            



 ふぐをデザインしたユニークな「ふぐ供養碑」も池のほとりに建立されていました。



      



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ふぐ供養碑



| 東京散歩 | 06:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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